薬を使わないトゥレット症候群(チック症)と強迫性障害の治療 §37

Kurikiメソッド(the first edition in 2007)はトゥレット症候群(チック症)および強迫性障害を薬を使わずに治すことを目的とした理論である。この理論はこれらの病気の構造についての推論と解釈に基づいている。精神分析医を読者と想定して書かれており、一般の読者には難解であり、誤読の危険性がある。したがって、Kurikiメソッドは患者が最寄りの精神分析医により治療を受けること、患者とKurikiメソッドの間には常に精神分析医が存在することを前提とする。感情的カタルシスの爆発は強い影響を伴うため、一週間に一度、三秒間のみの実施であり、そのペースを超えた場合は過失による一種の事故である。そのような事故による一時的な精神的沈下は感情的カタルシスに関し未熟な精神分析医の責任とする。また、論理的思考力に乏しい患者には、頭の中でのトラウマ・イメージの加害者と現実世界での人物との錯覚的混同による暴力的復讐感情に関して精神分析医による個人的な説明が不足してはならない。

 

薬を使わないトゥレット症候群(チック症)と強迫性障害の治療
§37

 

エディプスコンプレックス(オイディプスコンプレックス)

3 – 5 歳の幼児(男子、および女子)の期間
エディプスコンプレックスは、まったく理論的な無意識の中の状態である。直感的に理解するような理論ではない。無意識は「私」にとって別人であるから、エディプスコンプレックスは「私」と「私の両親」の関係ではなく、別人と別人の両親の関係である。そして「私」はその別人を知らない。フロイト的な超自我の形成される時期において、無意識の中で無意識な三者の三角関係ができる。この三角関係は目に見える三者の三角関係ではない。表現された感情は既に意識内で表現されている判断であるので、エディプスコンプレックスは感情的要素のある意識内の三角関係ではない。精神分析学は、感情表現されていないポテンシャルなエネルギーが問題となる推論的な学問であるから、無意識内の構造を直感的な感情的要素と照らし合わせて理解しようとするのは間違い。無意識を意識とは別のひとつの存在として認識する必要がある。エディプスコンプレックスは、幼児における無意識内での三角関係の健康な衝突状態。幼児にとって、エディプスコンプレックスの解決は超自我の形成および意識と無意識の分離の時期に精神が健全に成長する際の大切な一段階である。明白な衝突と自然な解決がひとつの健全な成長過程である。エディプスコンプレックスの自然な解決とは、安定した無意識内の明白な三角関係を基盤として、異性への性欲が家庭の外の対象に健康的に向かうということ。
エディプスコンプレックスの三角関係の衝突が不完全な場合には、それが問題となる可能性がある。衝突が不完全な場合は、衝突の解決もなく、その結果として家庭の外の異性に向かう独立性に問題が生じる可能性がある。いずれにせよ、神経症患者の身体的症状の原因を探すときのヒントのひとつがエディプスコンプレックスである。エディプスコンプレックスの構造は神経症の身体的症状の治療のなかだけで問題となる考え方であり、健康的な精神状態においてエディプスコンプレックスの三角関係について云々することは無意味。
神経症の原因としてのトラウマは、ひとつの物のイメージであるから、エディプスコンプレックスの未解決そのものが神経症の直接の原因になることはない。エディプスコンプレックスの健康的な解決の不在、すなわち性器的肯定の非言語化が不快判断の凍結の原因となる可能性はある。
性欲は、リビドーの現れを意識が性的なものとして認識した場合であり、極めて頻繁な意識対象である。性欲が抑圧されることはなく、無意識な性欲というものも存在しない。リビドーは、さまざまな手段で頻繁に超自我を通過し、性欲として意識の対象となる。超自我を通過することがリビドーの喜びである。超自我によって抑圧された非道徳的なことや非倫理的ことですら、無意識の中でリビドーに混ざり、性欲として超自我を通過して、再び外に出て、意識対象となることがリビドーの喜びとなることもある。口唇期、肛門期、男根期、潜伏期、性器期というような期間を表す名称は、異性を対象とする性欲と自分自身の性器的身体感覚の二元論も表しているが、実際は二元論というよりも、多元論である。放火魔にとって火は性的なものだそうである。変態性欲の対象がしばしば倫理的に禁止されたものであることも考えるとよい。「性欲が抑圧される」などというようなことは絶対にない。

エディプスコンプレックスの解決
エディプスコンプレックスで問題となるのは意識内の原始的な身体的性欲であり、愛ではない。子供は狭義の性行為を知らないのであるから、子供にとっての「性的な行為」とは、見る、見られる、触る、触られるということであるが、さらに所有という考えが加わる。任意の異性の大人の身体が身体的欲望の対象となるのであるが、異性の親の身体が最も容易に対象となる。親自身が子供を性的に刺激するのはとても悪いことであり、性的に見る、見られる、触る、触られるという行為は禁止される。赤ちゃんに対しても、気持ちは沢山の言葉で表現される。それと同時に、異性の身体への欲望や原始的身体感覚は当然のこととして子供の頭の中で認められるべきものである。近親相姦的な接触は言語表現で禁止され、同時に意識内の異性に対する性欲は言語表現で肯定される。さらに、子供の性欲を肯定する象徴的表現として、家の壁などに裸婦像や裸婦画などの性的な美術作品があることはとてもいいことである。逆に家族内での現実の人間の裸体や皮膚接触は有害。

トゥレット症候群や強迫性障害の素因的体質をもつ子供は、現実の人間の皮膚的接触を不快に感じる傾向が先天的にある場合がしばしばある。皮膚的接触による愛情表現は直感的に不快なものとして抑圧されかもしれない。毎日のように繰り返された場合は、不快感覚の抑圧としてのトラウマである。

過去における上層部
抑圧とは、まったく知らないということ。嫌いだから避けるのとは違う。抑圧対象とは、気がつくときまで気がつかないでいるということであり、気がつくようになったときに気がつかないでいることは終わる。しかし、気がつかないでいたということには、なかなか気がつかない。たとえば、原始的抑圧感覚の場合は、原始的抑圧感覚に子供が気がついたとき、それ以前も実は原始的抑圧感覚をいつも感じていたのだということには気がつかない。それ以前の期間に抑圧されていた感覚の抑圧が問題となるかもしれない。すなわち、
今日、チック症の子供は、
今の不定的抑圧感覚の抑圧、
今の再帰的抑圧感覚の抑圧、
今の原始的抑圧感覚の抑圧、
過去における原始的被抑圧感覚の抑圧が重なっている。

今日、チック症の大人も同様に、
今の不定的抑圧感覚の抑圧、
今の再帰的抑圧感覚の抑圧、
今の原始的抑圧感覚の抑圧、
とても小さな子供の頃の原始的被抑圧感覚の抑圧が重なっている。
意識内の身体的性欲は性器感覚を伴わない。性器感覚については、言葉による説明がない場合、少しアスぺルガー的な子供には理解が困難なはずである。

原風景
Kurikiメソッドでは原風景(あるいは、原光景)の定義もフロイトと異なる。 Kurikiメソッドでは原風景を0歳から1歳の赤ちゃんにおいて考える。赤ちゃんと母親の間に共謀がある。赤ちゃんがどこで寝ているかだけが問題である。赤ちゃんが母親の横で寝ている場合が多いようである。「赤ちゃんは寝ているから大丈夫」というのは間違いで、赤ちゃんは確かに寝ているのですが、寝ていても寝ながらぜんぶ聞こえている。部屋が暗いのも関係ない。意識は寝ているが、無意識は起きている。記憶はそのまま無意識の中にとどまる。カップルによって違いがあるが、百回ぐらいは繰り返されるのではないだろうか。共謀として、赤ちゃんは「寝ている赤ちゃん」でいる義務がある。確かに寝ているのであるが、同時に寝ている赤ちゃんの役を演じている。暴力的と感じるはずである。性的および性器的意識の禁止過剰の土台となる。この暴力的な原風景は、健康的なエディプスコンプレックスの三角関係の形成の可能性を前もって破壊する。無意識のとても深いところにあるかもしれない原風景である。
父親とは誰かということは赤ちゃんにはわからない。
よくうちにくるひと。あっ、またいる。
それ以上の意味はないはずである。