ピアノの弾き方・クラシック音楽と残響

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小脳
小脳と大脳の分かれた姿は解剖によってのみ発見されることである。小脳の機能と大脳の機能の関係において互いに独立しているということはないであろうし、我々が運動のひとつひとつを小脳と大脳に意図的に割り当てることも不可能である。特に大脳における小脳的な機能もあるはずである。このページでの小脳という単語は純粋に詩的な表現であり、ある種の速い運動などにおける我々の精神的振る舞いを図式的に説明するための記述表現にすぎない。
小脳の容積は大脳の容積の十分の一である。ところが、大脳の神経細胞の数は140億個、そして小脳の神経細胞の数は1000億個である。目などの感覚器官からの刺激があり、大脳の中でそれを情報として分析し、言葉で考え、そして筋肉が命令により動くまでには0.4秒が必要である。野球のピッチャーの投球も0.4秒ぐらいなので、バッターはデッドボールをかわすことはできない。ではなぜバットで打つことができるかと言えば、それは小脳の自動的な機能の中で練習がなされているからである。大脳を使わないということの理解は、スポーツ、楽器、外国語などの上達のための基本である。(脊髄反射は最も速いタイプの反射であるが、それ自体では芸術的活動のための動きとは言えない。)

クラシック音楽とジャズとの本質的な違い
ヨーロッパの音楽は教会の建物内部の残響の中に生まれ、そして天井の高いサロンの漆喰壁面による残響の中で発展した。バロック音楽から近代音楽まで、ヨーロッパの楽器は、打楽器を除き、常に2秒ほどの豊かな残響の中で演奏され、人々はそれを美しいものとして聴いていた。拍の不明瞭さからアゴーギク・アクセントの美しさが展開した。残響の中では打楽器は道路工事の反射した騒音のようなものでしかなく、不可能であった。

一方、音楽の楽しさは拍の楽しさであり、南米の音楽、ジャズ、ロックなどでは物差しの目盛りのように規則正しい拍、メトロノームのような拍、すなわち打楽器の刻む拍(たとえば八分音符や十六分音符など)が創作と演奏の中心にある。最高のドラマーは機械のようなドラマーであり、どんなにスローな曲にも必ずドラムスがつく。ドラマーのいないバンドは音楽を楽しむことはできない。規則正しい拍を中心とする音楽の音は、しばしばマイクやスピーカーなどにより増幅され、残響は大敵となる。

整理すると次のようになる。
クラシック音楽     - 残響あり – 拍なし  - ドラマーなし
ジャズ、ロック、ラテン – 残響なし – 規則的な拍 – ドラマーが必要

クラシック音楽の演奏には、速いテンポの演奏であっても拍があってはいけないのである。

ピアノを弾く際、楽譜上の音符が音となる瞬間、すなわち耳に音が聞こえる瞬間を衝撃時とする。衝撃時の 0.1 秒前にすでに手の運動は無音のうちに開始する。(このページでは、肩、肘、手首、指の運動を総括して手の運動と呼ぶことにする。)

もしも頭の中に拍があると、手の運動開始時と衝撃時が同時となり、それは不条理である。

また、衝撃時、すなわち音が聞こえる瞬間には手の力は弛んでいなくてはならない。

言葉を喋るとき、速く喋る、ゆっくり喋るというような「速度」がある。しかし、速度はラップ音楽のような音節の拍の単位における、速い拍、ゆっくりな拍のことではない。さらに、喋るときの「リズム」は拍の単位の正確な組み合わせによる長短のリズムではない。

良いジャズピアノは頭の中で衝撃時と拍と力が同時であり、したがって音階を弾くことは不可能である。ジャズピアニストの意識は拍に関して無責任でいることを知らないので小脳でピアノを弾くことができない。 ピアニストはジャズを演奏するときとクラシックを演奏するときとは、まったく異なる弾き方をしなくてはならない。ジャズの場合は音が聞こえる瞬間、衝撃時には手に力が入っており、クラシックの場合は衝撃時はフォルティシモでも力が抜けている。

スポーツ選手は試合の最中は、まず身体が動き、動作の後から意識は動作について錯覚の中で考えているのかもしれない。上手なクラシックピアニストも、まず手がひとりでに音階を弾く動きをし、音階の音が出て、そのあとで頭の中でその音階を歌っているのかもしれない。意識は錯覚的に自分が音階を弾いていると思うが、拍がないので手の動きは直接的には意識されない。自然な運動は意識よりも0.1秒前に開始している。つまり、小脳による運動は大脳の命令よりも0.1秒前に開始している。ジャズピアニストは拍が意識にあり、身体の動きがその拍の時間的一点の上で音と同時なのでピアノを弾くことができない。ジャズピアニストは拍の0.1秒前に手の運動を開始することができない。有名なジャズピアニストで音階を弾ける人が一人もいないのは当然である。特に左手が悪い。

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ピアノの練習
あなたが文章を書くとき、内容を考え、文章を考え、手の筋肉が動き、ペンが字を書く。しかし、本当は、まずペンが字を書き、手の筋肉が動き、書きながら文章になり、最後に内容ができるのかもしれない。

0.01秒の欠如という極めて論理的な理由の結果である。すなわち、他の様々な自然な運動と同様、ピアノは小脳で弾くものであり、大脳の意識で「私」が細かなリズムとともに、身体的な拍とともに弾くものではないのである。音階は、ここからそこまでの帯が鍵盤上に置かれているのを手でなぞるようなものであり、細かな拍とともにタタタタ、タタタタと弾くものではないのである。たとえば、ラフマニノフの譜は音符が8個ずつとかに規則的に刻まれていないことがしばしばあるのは、そういうことである。

残響を知らない素人のクラシックピアノには楽しい拍があり、本物のクラシックピアノの「つまらなさ」を知らないので、素人のピアノとして楽しむことができる。たとえば、モーツァルトは残響の中でアゴーギク・アクセントで、つまらなく弾かれるべきものであるが、残響のない場所で、右ペダルなしで、拍とともに弾いた場合はクラシック音楽としての枠に入るようなモーツァルトではない。バッハのバイオリン・ソロやチェロ・ソロの作品は長い残響の中でアゴーギク・アクセントとともに演奏され、規則的な拍はない。チェンバロは強弱アクセントは不可能であり、唯一の表現はアゴーギク・アクセントであり、万一、ヘンデルのチェンバロ曲が残響のない場所で弾かれた場合は、躓きながら進むクラシック音楽特有のリズムは今日の我々のロックミュージックの耳には最高に悪趣味なものとして聞こえるであろう。

モーツァルトのピアノ曲は右ペダルを使わないと言っても、それはペダルを使うことを前提とした下からの大きなアルペジオがないなどというような意味ではない。当時の楽器にはペダルが付いていなかったので、ペダルを踏まなくても弾けるように書いてあるなどということではない。それは、アゴーギク・アクセントとともに、音色が残響の中で美しく響くという意味である。ブラームスも原則として右ペダルは踏まないというのも、同じ理由である。日本の家屋で畳の部屋にピアノが置いてある場合は、当然ペダルを沢山踏まないとモーツァルトの時代の音楽にならない。左手を弱く曇らせて、右手のメロディーの下に隠して弾くものである。勿論、グールドのモーツァルトが好きというのは別な話だ。

一旦始まったドミノ倒しがそれ自体で勝手に進んでいくように、音階はピアニストの意識からは独立した状態で弾かれるものであり、クラシックピアニストの意識には拍はない。手首を柔らかく保つには肩から腕全体を柔らかく保つことが必要であり、肩、肘、指先までの長さを上から下まで動きが伝わるのに0.01秒間かかるのが自然である。2オクターブの音階を弾くとは、先に述べたように、たとえば幅10センチ、長さ40センチの音階の一枚の布の帯を鍵盤の上に置くというような、ひとつの行為であり、5本の指の意識的な15の運動ではない。

小脳の神経細胞(ニューロン)の数は大脳の神経細胞の数よりも多い。大脳の意識的な拍は、小脳だけによる自然な無意識な動きを妨害する。ピアノは多声的な楽器であるから、演奏中は右小脳と左小脳が同時に独立している。ユニゾンでの練習は右小脳と左小脳がユニゾンになるので役に立たない。ハノンが好きな人は、他の11の長調や12の和声的短音階で、右手と左手を10度、あるいは13度離して弾く。メトロノームは絶対に使わない。メトロノームを使って喋る練習をしないのと同じ理由である。ジャズピアニストはメトロノームが絶対に必要である。クラシックピアニストでメトロノームを使う場合は、テンポを耳で聞きながら、その走行の速度に合わせて、先にも出ず、遅れもせずに、パッパッパッパッパッと振り上げて弾く練習となるであろう。

以上が残響の中で発展した楽器の演奏方法なのだが、偉そうなことを言っている私自身がそれじゃあ誰みたいに弾きたいかと言ったら、それは勿論ユジャ・ワンだ。