薬を使わないトゥレット症候群(チック症)と強迫性障害の治療 §15 肛門期への固着

Kurikiメソッド(the first edition in 2007)はトゥレット症候群(チック症)および強迫性障害を薬を使わずに治すことを目的とした理論である。この理論はこれらの病気の構造についての推論と解釈に基づいている。精神分析医を読者と想定して書かれており、一般の読者には難解であり、誤読の危険性がある。したがって、Kurikiメソッドは患者が最寄りの精神分析医により治療を受けること、患者とKurikiメソッドの間には常に精神分析医が存在することを前提とする。感情的カタルシスの爆発は強い影響を伴うため、一週間に一度、三秒間のみの実施であり、そのペースを超えた場合は過失による一種の事故である。そのような事故による一時的な精神的沈下は感情的カタルシスに関し未熟な精神分析医の責任とする。また、論理的思考力に乏しい患者には、頭の中でのトラウマ・イメージの加害者と現実世界での人物との錯覚的混同による暴力的復讐感情に関して精神分析医による個人的な説明が不足してはならない。

 

薬を使わないトゥレット症候群(チック症)と強迫性障害の治療
§15

 

肛門期への固着
フロイトの心理性的発達理論は性欲についての理論である。それは神経症の治療法の説明のためだけのものである。神経症は強迫観念 obsession とそれからの解放の強迫 compulsion である。強迫観念は何かしらの対象を必要とし、ひとつあるいは複数の対象がランダムに選ばれる。肛門期は身体的感覚が意識に対して強制力を行使する期間である。

病的な身体的抑圧の神経症の仕組みとしてのチック症の形成は、排便のなされ方の一種の模倣である。これは肛門期への固着と考えることができる。

トゥレット症候群は四層から成り立っている。
・トラウマに伴う感情のかたまりの形成
・感情のかたまりに対するの抑圧の仕組みとしての強迫観念(obsession)
・強迫観念の対象の選択
・強迫(compulsion)の身体的感覚の形成
・強迫的行為
強迫的行為の理解は感情のかたまりの抽出とは無関係である。
肛門期への固着の理解は神経症の治療の代用ではない。神経症は感情のかたまりの抑圧の仕組みであり、治療法は感情的カタルシスのみである。感情的カタルシスは性的、性器的トラウマの不快感情の爆発である。

排便は次のようになされる。
直腸内圧の上昇、膀胱内圧の上昇 → 外肛門括約筋の収縮、外尿道括約筋の収縮 → 排便の必要性 → 排便時、外肛門括約筋の弛緩、外尿道括約筋の弛緩 → 解放の心地良い感覚

チック症
神経症 neurosis → 任意の随意筋の局所化、強迫観念 obsession → 収縮のない収縮の感覚《強迫性筋肉内感覚》 → 不快 → 強迫 compulsion → チックの動作 → 解放の感覚 → 繰り返し

強迫性障害
神経症 neurosis → 任意の物の局所化、強迫観念 obsession → 恐怖恐怖症 phobophobia → 不安の身体的感覚 → 強迫 compulsion → 行為 → 解放の感覚 → 繰り返し

アンナ・フロイトの《心理学》では、防衛機制は健全な自我の機能に含まれている。自我はエスと超自我に挟まれている状態として定義される。チック症は超自我が形成される以前に現れることがあるので、チック症を防衛機制における退行とともに自我の病気として限定することはできない。

子供の身体的な成長は目に見えるのであるが、リビドーの健全な成長は見落とされがちである。

固着
汚言症で発音される幼児的単語、幼児のように数を数える強迫神経症などは固着の状態である。
チック症の症状、つまり《強迫性筋肉内感覚》は、患者が赤ちゃんであった頃に発見した感覚、随意筋肉の存在への固着である。
リビドー的不快に関して、少々アルペルガー的な傾向のある子供のもつ判断基準の特殊性とそれらの抑圧の身体的仕組みが原因であると思われる。

《強迫性筋肉内感覚》は合理化によって任意に選択された随意筋を指差しているのであり、その感覚は固着状態のリビドーによって形成される。
肛門期の固着において、《強迫性筋肉内感覚》は任意の随意筋での肛門括約筋の感覚の模倣である。
肛門括約筋の普通の状態は無意識な収縮であり、排泄の瞬間のみ弛緩である。
強迫 compulsion は便意の模倣である。ただし、この摸倣は神経症の症状であり、原因ではない。

症状は抑圧の対象の無意識的表現ではない。したがって症状が変わることがある。症状は抑圧の道具である。症状を観察しても、抑圧の対象を発見することはできない。神経症的な行為がまったく無意味であるということが、その馬鹿げた行為が意識の対象となるための条件である。アスペルガーの特殊な身体感覚とともに、チック症は快感原則のエスの中で、不快な物の身体的な抑圧の道具である。神経症の身体的症状による被抑圧物は、自分自身の身体の快感に向けられた性欲である場合もある。変態的であることは精神分析学の宿命であり、それを避けてしまうと、真面目な精神分析学ではなくなる。リビドーは心的エネルギーとして漠然と解釈されるべきではない。リビドーは性的、性器的である。なぜならば、精神分析学は神経症の治療方法をその目的とし、神経症の症状は身体的症状であるからである。健常な心理学ではなく、精神分析学は病気にかかっている構造について語っているのである。

性的、性器的リビドー
幼少期において、自分の身体的なリビドーの意識された作用がトラウマである場合もある。抑圧は否定であるが、否定が困難な場合でも、それは否定の試みである。トラウマの内容が自覚されている場合でも、トラウマの強度、抑圧された感情の強度が自覚されていない可能性もある。自覚されたリビドーの作用が、子供にとってあまりに大きい場合には、否定がかなわないトラウマであり、一種のPTSDとなる。自覚は、幼少期の意識にとって出現である。
《強迫性筋肉内感覚》は無意識による筋肉の「位置的な指し示し」であり、その意識された筋肉の存在への強迫(オブセション)は肛門期の固着である。性器的な快感の自覚とともに、性器的なリビドーの作用の自覚が大きすぎるがゆえに幼少期のトラウマとなる。

肛門期の固着を引き起こした精神的トラウマを推測するのは困難であるとともに、患者には精神的トラウマは判明しているとも言える。リビドーの発育の妨げ。子供の無意識が抑圧する自分の性器感覚。アスペルガー的な子供は自分の性器感覚を不道徳であると真剣に認識するかもしれない。

チックの《筋肉内感覚》
不快な身体的感覚(疲労など)の抑圧のために現れる。

チック症の《強迫性筋肉内感覚》
リビドー的な性器感覚を抑圧する仕組み。神経症であり、寝ているとき以外は常に現れる。

チック症の《強迫性筋肉内感覚》と感情のかたまりとの間には直接の関係はない。
運動チックの動作と精神的トラウマの内容との間には直接の関係はない。

絶対的強迫は患者には見えない。チック症の《強迫性筋肉内感覚》の身体的感覚が不快であるということのみが意識される。患者にはこの不快感覚が絶対的にチックの動作によって消されなくてはならないのだという絶対的強迫の枠組みが見えない。チック症の上層部の実際の目的は身体のチック症の《強迫性筋肉内感覚》とは別の位置の局所的な感覚の抑圧である。たとえば、首にチック症の《強迫性筋肉内感覚》が現れる目的は首とは別の身体部分の感覚の抑圧である。他の身体部分の感覚とは、リビドー的な性器感覚である。(尿道の末端、亀頭、クリトリスなど)。肛門期の摸倣、随意筋の強迫観念 obsession、つまり肛門期の固着が次のリビドーの発達段階を抑圧するのである。極めて意識的な随意運動への絶対的強迫 absolute compulsion を伴う強迫観念 obsession。

排出時における括約筋の収縮と弛緩の関係を鑑みれば、《強迫性筋肉内感覚》を収縮のない収縮と記述するならば、弛緩の状態での更なる弛緩である可能性がある。