薬を使わないトゥレット症候群(チック症)と強迫性障害の治療 §14

Kurikiメソッド(the first edition in 2007)はトゥレット症候群(チック症)および強迫性障害を薬を使わずに治すことを目的とした理論である。この理論はこれらの病気の構造についての推論と解釈に基づいている。精神分析医を読者と想定して書かれており、一般の読者には難解であり、誤読の危険性がある。したがって、Kurikiメソッドは患者が最寄りの精神分析医により治療を受けること、患者とKurikiメソッドの間には常に精神分析医が存在することを前提とする。感情的カタルシスの爆発は強い影響を伴うため、一週間に一度、三秒間のみの実施であり、そのペースを超えた場合は過失による一種の事故である。そのような事故による一時的な精神的沈下は感情的カタルシスに関し未熟な精神分析医の責任とする。また、論理的思考力に乏しい患者には、頭の中でのトラウマ・イメージの加害者と現実世界での人物との錯覚的混同による暴力的復讐感情に関して精神分析医による個人的な説明が不足してはならない。

 

薬を使わないトゥレット症候群(チック症)と強迫性障害の治療
§14

 

上の五匹の猫の中から一匹を選び、そしてその猫を選んだ理由を答えよ。

チック症(トゥレット症候群)における合理化

Kurikiメソッドにおける合理化の理解はとても大切である。それは、狭い意味ではチック症の動作の形態は精神的トラウマの内容とは関係がないということの理解であり、また広い意味ではチック症や強迫性障害が身体的抑圧の仕組みであるということの理解であるからである。

偽りの動機の例として次のようなものがある。
手を洗う強迫性障害の人が思う。
「手に、ばい菌がついているかもしれないから」
首のチックの人が思う。
「関節がポキリと鳴るのは、ズレがあるから」(実際は、ガスの音)
汚言症の人が思う。
「ワルギはない」
これは狐が立ち去るのは「葡萄がすっぱいからだ」と思うのに似ている。
そして、仮定的な表現での偽りの動機。「葡萄が甘かったのなら、取るのだが」
「ばい菌がないのなら、手を洗わないのだが」
「関節が鳴らないのなら、動作はしないのだが」
「ワルギがあったのなら、xxxx とは発音しないのだが」

詐欺師は詐欺の内容を隠すとともに、自分が詐欺師であることも隠す。意識内で、合理化は、非常に意識的な行為の真の動機(強迫性身体感覚)の馬鹿々々しさに対する反駁であり、合理化は合理化の機能そのものを隠蔽する。

強迫観念に合理的な動機が伴うはずはない。意識は合理化の不合理性に煩わされ、その煩わしさが意識の前景を支配し、リビドー的な身体感覚が抑圧される。神経症は「神経症になっている」という病気であり、それぞれの強迫観念には病理学的な意味はない。症状のカテゴリー分けは不必要であり、カテゴリーは合理化の結果である。

神経症の身体的症状には必ず偽りの動機が伴う。偽りの動機が可能であるような症状のなかからひとつの症状が選ばれている。既に行われた行為に無意識が後から言い訳を添えるのではなく、偽りの動機を伴いうる数個の行為の中から無意識が行為をひとつランダムに選び意識にその行為をさせるのである。合理化は、不可解な行為の言い訳や正当性を見つける機能ではなく、幼稚な偽りの動機の既にそなわっているような行為をランダムに選択する機能である。偽りの動機は幼稚な合理性を通過するものであり、意識には非合理的な動機なのであるが、その持続的な非合理性が意識の対象となりリビドー的な身体感覚の抑圧の手段になる。
たとえば、爪を噛んだ後で「爪切りがここにないからだ」という偽りの動機を作るのではなく、爪切りがないという偽りの動機が可能であるので爪を噛むという行為がランダムな選択の選択肢となっているのである。
「頭髪は沢山あるので一本抜いてもよい」という抜毛症が別の選択肢となる。
合理化はランダムな選択の機能であり、選択されたものには必ず前もって偽りの動機が伴っている。チック症ではひとつの動作がランダムに選ばれ、必ず偽りの動機が伴う。動作の選択、理由の選択には重要性はない。たとえば、肩チックでも腕チックでも何でもよく、肩である理由、腕である理由も重要ではない。任意のチック症が意識内に現れて、その結果、別のものが隠される。五匹の猫の中からの任意な理由による任意な選択には重要性がないということである。どのような症状でも神経症として機能する。合理化は無意識の中でのランダムな選択の機能である。チック症の動作の分類や強迫性障害の強迫観念の分類などは避けるべきなのである。

身体性
いろいろな《心理学者》による精神分析学についての記述には神経症の身体性が欠如している場合が多々ある。神経症の症状は身体的であること、フロイトの精神分析学のエスが身体的であること、したがって自我の大部分が無意識のなかで身体的であることの認識は神経症治療の基本である。チック症が随意筋のなかの身体的感覚についての身体的動作への絶対的強迫であることや強迫性障害の身体的感覚が身体的行為の絶対的強迫であることなどが狐の合理化が最終的に「立ち去る」という行為で終わることに表される。健康な抑圧は精神的バランスのために不可欠であるが、その一方で、神経症における身体的な手段による抑圧の仕組みが KV である。精神分析学的な無意識は身体の中にあるというような表現も可能。
トラウマ・イメージの内容は必ず身体的であり、性的、性器的である。(たとえば、毎日のように皮膚に触られるというようなことの身体的不快感覚の意識外排除など。)ただし、神経症の症状の身体部分はトラウマの内容とは無関係である。

リビドー
精神の発育の結果として、リビドーの健康な自主性が確立されることが理想的である。リビドーの健康的な発育が妨害による、固着の状態、あるいは退行の状態が神経症である。性欲が性器的であるのが理想であるにもかかわらず、性器的身体感覚を病的に抑圧するために、他の身体部分が意識の対象となる。《強迫性筋肉内感覚》が意識内に現れる。