薬を使わないトゥレット症候群(チック症)と強迫性障害の治療 §16

Kurikiメソッド(the first edition in 2007)はトゥレット症候群(チック症)および強迫性障害を薬を使わずに治すことを目的とした理論である。この理論はこれらの病気の構造についての推論と解釈に基づいている。精神分析医を読者と想定して書かれており、一般の読者には難解であり、誤読の危険性がある。したがって、Kurikiメソッドは患者が最寄りの精神分析医により治療を受けること、患者とKurikiメソッドの間には常に精神分析医が存在することを前提とする。感情的カタルシスの爆発は強い影響を伴うため、一週間に一度、三秒間のみの実施であり、そのペースを超えた場合は過失による一種の事故である。そのような事故による一時的な精神的沈下は感情的カタルシスに関し未熟な精神分析医の責任とする。また、論理的思考力に乏しい患者には、頭の中でのトラウマ・イメージの加害者と現実世界での人物との錯覚的混同による暴力的復讐感情に関して精神分析医による個人的な説明が不足してはならない。

 

薬を使わないトゥレット症候群(チック症)と強迫性障害の治療
§16

 

チックの動作形態の決定

1. 筋肉の緊張や収縮を伴う一般的運動によって精神的運動単位(すなわち、筋肉群)をリビドーが知る。運動単位の形態は筋肉の位置、および筋肉の緊張の身体的感覚とともに記憶される。それらの運動がなされたときの状況により、偽りの動機が各運動形態(仕方)の属性となる。このような運動単位が合理化においてチック症の《強迫性筋肉内感覚》の筋肉としての選択肢となる。親、教師、医者などの指図によってなされた運動は正当性をもち易い。たとえば、医者に舌を見せる、視力検査の際に片目をつむるなど。
2. リビドーは運動単位を任意に選び、抑圧の際、その筋肉群にチック症の《強迫性筋肉内感覚》を作る。
3. 患者の意識は運動単位の筋肉の中に増幅する不快な感覚を解消するためにチックの動作を強制される。
4. 意識の対象となることに成功した動作は超自我の検閲での判例となり、チック症の《強迫性筋肉内感覚》は繰り返される。
1、2、3、4、のすべてがひとつの病的構造である絶対強迫の枠の中にある。絶対強迫はチック症の《強迫性筋肉内感覚》とチックの動作をまっすぐにつなぐ、他に出口のないトンネルであり、チックの動作以外を許さない。絶対的強迫は力ではなく、病気の構造そのものであり、患者には意識対象とはならない。
意識が随意運動をするための偽りの動機は超自我の検閲を通過できるものでなくてはならない。偽りの動機は意識の中に現れる理由であり、したがって、「なぜなら・・・だから」と、言葉で表現される。偽りの動機は無意識が作ったものであるから極めて幼稚な内容であり、その幼稚さが同じように幼稚な超自我を容易に通過する。
たとえば、眼球チックの合理化は
「なぜなら目が疲れていて、目の運動が必要であるから」
「なぜなら目が正しく動くかどうか確認する必要があるから」
などがある。
あるいは、反実仮想で、
「もし目が疲れていなかったならば、目の運動は必要ないのだが」
なども可能。
「もし葡萄が熟していたのならば取るのだが」
というような型である。
このような偽りの動機はチックの動作を強制するものではなく、チックの動作の際に付随的に頭に浮かぶものである。フロイト的な超自我は5歳ぐらいから発達を始めるの対し、チック症は2歳ぐらいから既に見られる。したがって、チック症においてはフロイト的超自我は問題外である。Kurikiメソッドの構造要素にはエスも自我もない。意識がチック症の意識的動作をするときには、偽りの動機が必ず伴うが、とても小さな子供には偽りの動機の正当性は必要ないといえる。その意味でも、チックの動作は偽りの動機には強制されていない。
超自我の検閲を通過する偽りの動機は独特な様相のものである。独特な様相とは、極めて単純であり、極めて幼稚であるということ。意識は合理的意識の中で偽りの動機の妥当性を否定する。しかし、無意識は非合理的無意識の中でその偽りの動機の妥当性を否定しない。超自我がこれらの偽りの動機の正当性を既に認めている。超自我の頑固さを、意識と無意識をはっきり分けることで理解する。合理化は無意識の中での幼稚なリビドーと幼稚な超自我の共謀である。意識の中で意識がいくら合理化の幼稚な内容を却下したところで、無頓着な無意識は独立している。意識の合理性は無意識の中に入ることはできない。
KV は身体の不快感覚の、特に性器や排泄器官などの身体的感覚(原始的被抑圧感覚)の病的な身体的抑圧機能である。チック症の《強迫性筋肉内感覚》は、これらの被抑圧感覚から意識の志向性を逸らせる。たとえば、膀胱内の尿量による圧力の身体的感覚が、たとえば、肩の随意筋のチック症の《強迫性筋肉内感覚》によって抑圧される。意識が肩を見て、膀胱を見ないということである。原始的被抑圧感覚とチック症の《強迫性筋肉内感覚》は、別であるからこそライバルであり、同質であるからこそライバルでありえる。ショパンとリストはピアノを違う風に弾いたからライバルであり、同時に同じタイプであるからこそライバルであったのと同じである。膀胱の感覚と肩のチック症の《強迫性筋肉内感覚》は別であり、かつ同じ範疇の要素をもつ。子供の場合、性欲と性器的身体感覚は意識の中では分離しているが、無意識の中、リビドーのレベルでは、つながっているはずである。チック症の《強迫性筋肉内感覚》は原始的感覚ではない。チック症の《強迫性筋肉内感覚》は原始的被抑圧感覚のライバルであり、したがって、原始的被抑圧感覚と同じ範疇の要素をもっている。それは、神経症の症状がもつ身体性である。Kurikiメソッドでは、超自我は性欲以外のリビドーを抑圧すると定義されるが、なぜチックの動作形態が超自我を通過できるかの答えである。チック症の《強迫性筋肉内感覚》は超自我を通らず、直接的にリビドーによって筋肉の中に作られる。リビドーのエネルギーが身体的動作によって外界に現れる。
偽りの動機の理解として、チック症の合理化を見る前に、まず強迫性障害と衝動制御障害における偽りの動機の例を見る。

「考え」と「偽りの動機」
たとえば「2足す2は5である」「モナリザの絵は左右対称だ」などは、間違った考えである。それに対し、「数は3でなくてはだめだ」「カーテンは左右対称でなくてはいけない」などの強迫性障害の考えは、けっして間違いではない。強迫性障害の考えは非合理である。「数は3でなくてはだめだ」というのは、「靴は絶対に赤でなきゃだめ」というのと同じ幼児のリビドーである。
強迫性障害の考えには、偽りの動機が伴っている。たとえば「三角形は安定しているから」「左右対称は美しいから」などという偽りの動機が行動の際に頭に浮かぶはずである。偽りの動機は幼稚である。
強迫性障害における合理化は、明らかに非合理な「考え」を選ぶ。強迫性障害の合理化による「考え」や合理化による「行為」の内容や種類には治療的な重要性はない。「考え」そのものや「行為」そのものには病的な意味はなく、「考え」の強迫性や「行為」の強迫性が神経症として病的であるといえる。患者の意識の中では、行為を強制するのは「考え」ではなく、OCDの《強迫性身体感覚》の身体感覚(皮膚感覚など)による不安感の増幅、そして強迫的感覚の増幅である。神経症の主症状は身体的症状であり、OCDの《強迫性身体感覚》はアドレナリン分泌の身体感覚に似た身体感覚である。アドレナリン分泌によるいろいろな身体的反応には個人差があるが、たとえば皮膚感覚の可能性が高いと言える。リビドーが直接、アドレナリン分泌の感覚を模倣した感覚を皮膚上に作り、意識はその感覚を不安感として解釈する。

強迫性障害、衝動制御障害の偽りの動機の例。
偽りの動機は個人的問題であるので、いろいろな可能性がある。強迫性障害や衝動制御障害の行動の偽りの動機の正当性は、「爪を切ることは良いことだ」のように、親や教師など、他者からすでに与えられている。良い子の行為の正当性である。
1. 抜毛癖 (衝動制御障害)
たとえば、
「なぜなら、毛は沢山あるから」
「なぜなら、毛はまた生えるから」
「なぜなら、毛は必要ではないから」
偽りの動機の正当性が超自我を通過する。抜毛癖の本当の原因は毛とはまったく関係ないことがらである。任意選択(つまり合理化)がいろいろな KV のなかから抜毛癖を選び、その抜毛癖が抑圧の手段として機能する。「抜毛癖があって困る」ということがまったく別なことがらの抑圧の手段となる。
2. 爪噛み癖 (衝動制御障害)
「もしここに爪切りがあったら使うのだが」と頭の中で考えることが「もし、葡萄が美味しかったのなら取るのだがなあ」と同じ合理化である。
「爪を切るということは良い行いである」
「爪は切ってもすぐ伸びる」
「爪切りより、歯で噛んだほうが速い」
「歯があるので、爪切りは必要ありません」
沢山の偽りの動機が可能である。
3. 外出の際、戸締りというすでに正当な行動のなかで、家が水びたしにならないように水道の蛇口を確認する。正当な確認なのでリビドーが望むだけ何回でも超自我は許可する。意識の合理性と非合理的な繰り返しの衝突の持続が意識の対象となり、たとえば原始的感覚などが抑圧される。
4. 清潔なことは良いことなので手を洗うことは正当なことである。
「良い子は手をきれいに洗います」
という正当性が超自我を通過するのは簡単。良いことなので何回でもさせられる。
「手のバイキンは石鹸で消毒しましょう」
石鹸の匂いが別のものを抑圧する。バイキンの消毒ならば肛門を洗うべきであるが、肛門は原始的感覚であるので身体的抑圧の対象である。
5. 送る封筒の中身の確認を繰り返す強迫性障害
「一度閉じたら(あるいは、一度送ってしまったら)、もう確かめられなくなるから」
「確認を躊躇しているより、最後にもう一度、確認をしてしまったほうが早いから」
6. 収集癖(ごみ屋敷、Hoarding)は、ひとつの強迫性障害の症状である。ゴミを溜めるという可視的症状、およびゴミ溜めの偽りの動機、表面的動機には治療的な重要性はない。「なぜゴミを溜めるのか」ではなく、「なぜ神経症なのか」が治療の方向である。その患者は、もし収集癖でなかったのなら抜毛癖であったかもしれない。この症状の任意性が Kurikiメソッドにおける合理化である。収集癖は収集癖の絶対強迫のなかにある。収集癖の患者がゴミを溜めずにいることは呼吸を止めることのように不可能な筈である。
偽りの動機は幼児的である。
「なぜなら、まだ使うことがあるかもしれないから」
「なぜなら、もったいないから」
「物はだいじにします」
「物がかわいそう」
など。

5歳以下の子供になって、超自我を通過するのは、リビドーの方法である。この方法は大人の性的な行動にも適用される。
物の数を数えるのも子供の真似。
物を並べるのも積み木遊びの真似。
指しゃぶりは赤ちゃんの真似。
(フロイト的な精神分析における解釈では、幼児化は現実原則に対する自我の退行である。噛んだ爪を食べる人がいるが、何でも口に入れる赤ちゃんの頃、つまりトラウマ以前に戻るということ。抜毛癖の場合にも同じことがいえる。)