薬を使わないトゥレット症候群(チック症)と強迫性障害の治療 §10

Kurikiメソッド(the first edition in 2007)はトゥレット症候群(チック症)および強迫性障害を薬を使わずに治すことを目的とした理論である。この理論はこれらの病気の構造についての推論と解釈に基づいている。精神分析医を読者と想定して書かれており、一般の読者には難解であり、誤読の危険性がある。したがって、Kurikiメソッドは患者が最寄りの精神分析医により治療を受けること、患者とKurikiメソッドの間には常に精神分析医が存在することを前提とする。感情的カタルシスの爆発は強い影響を伴うため、一週間に一度、三秒間のみの実施であり、そのペースを超えた場合は過失による一種の事故である。そのような事故による一時的な精神的沈下は感情的カタルシスに関し未熟な精神分析医の責任とする。また、論理的思考力に乏しい患者には、頭の中でのトラウマ・イメージの加害者と現実世界での人物との錯覚的混同による暴力的復讐感情に関して精神分析医による個人的な説明が不足してはならない。

 

薬を使わないトゥレット症候群(チック症)と強迫性障害の治療
§10

 

チック症の強迫性

Kurikiメソッドでは、トゥレット症候群と強迫性障害については、どちらか一方が他方からの合併症ということではなく、二つは同じひとつの神経症の部分集合であると考える。トゥレット症候群と強迫性障害のもつそれぞれ固有の症状の相違には重要さはなく、二つの病気の治療は同一のものでなくてはならない。神経症に関して言えば、患者にとって観察可能な要素を症状と呼び、観察不可能な要素を原因と呼んでいるのであり、原因の治療が症状と同じレベルにあるとは限らないのである。

子供の神経症における神経症的原因と身体的症状と間にはレベルの違いがあり、トゥレット症候群の治療は神経症の下層部の治療、すなわち感情的カタルシスである。チック症の上層部の症状、すなわち《強迫性筋肉内感覚》を医者が薬、手術、練習などにより直接的に症状のレベルで消そうとする試みは神経症に関する無知の表れである。チックの動作を不随意運動と思い、症状のレベルで直接的にチックの動作をなくそうと試みる無知な医者も存在する。

強迫性のないチック
チックそのものは身体的不快感覚の抑圧機能として先天的に具わっているアスペルガー的な機能であり、チックの機能をなくすことはできない。健康なアスペルガー的な人が先天的にチックの機能をもっている場合、たとえば階段を上ると疲労という身体的不快感覚を抑圧するためにチックの動作をしたくなるかもしれない。このような一時的なチックは、強迫性がなく、身体的不快感覚の抑圧のためと知れば、しなくてもいられ、忘れ去られる。また100%完璧になくす必要もない。

強迫性を伴った一日中のチック、神経症化したチック、チック症
チックが神経症化し、ひとつの筋肉の存在が強迫観念となっている場合、彼の強迫的な動作は絶対的に必要であり、性器の感覚がある限り、一日中強制される。チック症患者は身体的疲労や身体的痛みなどがなくても、常時、特定の随意筋の筋肉的感覚が意識の志向性の対象となり、《強迫性筋肉内感覚》が増幅し、意識はチックの動作をすることを強制される。絶対強迫がチックの機能を利用して抑圧する身体部分はリビドー的な身体部分が疑われる。リビドー的な身体部分を抑圧する目的において、チックの機能を先天的にもたない人には、絶対強迫は強迫性障害やパニック障害など、他の神経症の身体的症状を利用するかもしれない。治療の標的は《強迫性》の消去にある。

チック症の上層部における症状。sensory phenomenon
犬の神経症の顕著な症状として、自分の尻尾の随意筋の存在が意識の強迫的な対象、強迫観念 obsession となることがある。自分の尻尾を噛むことが神経症の様態として選ばれた場合には、犬は自分の尻尾を追って、ぐるぐると独楽のように回転してしまう。
人のチック症では、ひとつの随意筋の存在の身体的感覚が強迫観念として決定され、その収縮運動がチックの動作様態となる。
絶対強迫の枠組みは意識を間接的に支配しており、意識は絶対強迫の構造を直接的に知覚することはできない。身体的不快感覚の強迫的増幅のみが知覚される。随意筋の存在の感覚は絶対強迫が意識を支配するためのインターフェイスである。絶対強迫の支配力は意識の中で身体的感覚としてのみ現れ、患者は自分の筋肉強迫 muscle-obsession を不可解な現象と考える。患者の意識は意識をひとつの随意筋の存在に集中させている外側からの力を知覚することはできない。すなわち、二重の枠における外側の枠は概念的にのみ理解され、感情的カタルシスの後、それが除去された状態が知覚される。

《強迫性筋肉内感覚》
《強迫性筋肉内感覚》は、増幅する不快な身体的感覚であり、その随意筋の存在が意識の強迫観念的な焦点となり、チックの動作の強迫性が増幅する。
チックの動作は 100% 随意運動であり、したがってチック症の患者は強迫に逆らって、たとえば十秒間ほどチックの動作を我慢することができる。その十秒間に随意筋の凝固的な身体的不快感覚の増幅、およびその随意筋に対する意識の志向性の増幅がある。増幅であるから、強迫は当然最初の一秒めは極めて弱く、そして指数関数的に強くなり、そして十秒で飽和する。通常、患者は飽和を待たず、チック症の随意運動は《強迫性筋肉内感覚》の知覚の最初の一秒め、増幅の弱いレベルの時に自動的になされる。《強迫性筋肉内感覚》は、ひとつの正確に決められた動作の様態を属性とし、その動作の実行が一時的解決となる。身体的感覚が身体的動作の正確な様態を属性としていることが、神経症の身体的感覚の特徴であり、汚言症における喉の随意筋の不快感覚はその顕著な例である。解決せずに《強迫性筋肉内感覚》を我慢し続けることは不可能である。患者には弱いレベルの身体的感覚のみが知覚されるが、同時に意識の焦点として強迫が増幅する。意識の焦点は随意筋の存在によって既に占領されているため、患者は焦点機能が強迫観念であることを認識できない。焦点対象が強迫観念なのではなく、何らかの対象への神経症的な焦点機能が強迫観念なのである。リビドー的身体部分は意識の外に置かれる。絶対強迫の構造の内部で、意識は身体的感覚というインターフェイスにより間接的に支配される。絶対強迫は、言わば透明であり、その支配は間接的である。意識は強迫観念の構造、無意識の枠を知覚できない。したがって患者の意識にとっては、症状とは、この不快な身体感覚の増幅への志向性の焦点であるところのチック症の《強迫性筋肉内感覚》のことのみである。チック症の随意運動を意識に強制しているのは強迫観念の構造、絶対強迫なのであるが、患者にはチック症は《強迫性筋肉内感覚》としてのみ知覚される。強迫性障害の行為が物の状態に対する強迫観念による強制としてのみ認識され、患者は病気の枠組みとしての絶対強迫の構造を見ることがないのと同様である。チック症と強迫性障害とでは、枠組みは同一であり、インターフェイスが異なる。強迫性障害のインターフェイスは不安の身体的感覚であるが、患者は不安が身体的感覚であることを知らない。病気の観察可能な要素をその症状と呼ぶならば、チック症の《強迫性筋肉内感覚》がチック症の症状である。チック症の主症状はチックの動作ではなく、強迫性をもった身体感覚の焦点の現れである。「今、絶対にその動作をする必要がある」という身体的な強迫が病気であり、随意運動のチックの動作そのものは病気ではない。チックの動作様態をカテゴリー分けすることには、いかなる重要性もない。

premonitory urge という語が用いられる場合があるが、premonitory という語はチック症の症状に対する無理解を表している。この語は前兆という意味であり、たとえば “premonitory symptoms of an earthquake” などのように使う。随意運動であるチックの動作と他の病気における不随意な痙攣との混同である。premonitory という語は、不随意な痙攣の前触れと言う誤った意味である。
また、urge という語が使われるが、チックの動作は欲求による行為ではなく、欲求を終わらせるための行為である。手を洗うことへの OCD が強迫による行為ではなく、手を洗うというこの強迫に終止符を打つための行為であるのと同じである。
チック症治療の Kurikiメソッドでは、このような不適当な語を使って説明するわけにはいかないので、この身体的不快感覚をチック症の《強迫性筋肉内感覚》と呼ぶことにする。チック症の《強迫性筋肉内感覚》は、筋収縮を伴わない不快な筋収縮感覚であり、その目的は志向性の「おとり」となることである。それはリビドー的身体部分の感覚を意識外に置くためである。

チック症の《強迫性筋肉内感覚》
ひとつの随意筋の存在への強迫観念がチック症の主症状であることを知らない患者にとって、チック症の症状は、個人差はあるが、運動チック症の場合は随意筋の中にあたかも凝固するかのような身体的感覚が現れることである。ひとつの随意筋の存在の身体的感覚が意識の強迫観念の対象であり、意識は筋肉の速い収縮を解決として強いられる。音声チック症の場合は上気道の随意筋に不快な身体的感覚が現れる。筋肉が緊張するのではなく、固まるような感覚があり、意識がその身体部分に集中する。「随意筋を動かす時の感覚」とは逆の「随意筋を動かさない時の感覚」である。英語を話す子供たちは itchy という語で表現することが多いようであるが、これは皮膚的な痒みという意味ではなく、随意筋の中でムズムズするという意味で言っている。ひとつの随意筋を対象とする意識は動かす、動かさないの選択、あるいは可動性の確認でしかない。強迫性障害における意識(その行為をする、しない)やパニック障害における意識(その場所から出る、出ない)等も同様である。

意識が身体の不快な部分、あるいはリビドー的部分に向かうのを妨げるために、強迫観念 Obsession が別の部分の随意筋の上に置かれると、その随意筋の中に《強迫性筋肉内感覚》が現れる。

チック症の《強迫性筋肉内感覚》の増幅
強迫観念である随意筋において、チック症の《強迫性筋肉内感覚》の集中感覚は、チックの動作をしないと飽和状態まで増幅し、意識の前景に留まり続ける。チック症の原因は意識の外にあるが、増幅は意識の中でなされる。意識の力、意志でチックの《強迫性筋肉内感覚》をとめることはできない。逆に、意識は増幅の仕組みの一部分である。(§28)
治療後は強迫性が消える。

チックの動作
集中凝固感であるチック症の《強迫性筋肉内感覚》を一時的に消そうとする随意運動がチックの動作である。たとえば額の筋肉の中の集中凝固感は意識に額の筋肉を動かすことを強制する。結果としては眉を動かしているように見えるが、実際は意識は額の筋肉を動かしている。左肩の筋肉の中の集中凝固感は左肩の筋肉を動かすことを意識に強制する。結果としては左肩を動かしているように見えるが、実際は左肩の筋肉を動かしているのである。運動チック症は随意筋の感覚への強迫観念 obsession であり、身体部分の動作への強迫観念ではない。身体の不快な部分、あるいはリビドー的部分は、別の身体部分の最高に意識的な動作により、一時的に意識から抑圧される。神経症の知識のない観察者の目には、一箇所の突然の速い動き、不必要で、不自然な、無意味な動きは、あたかも痙攣などの不随意運動であるかのように見えてしまう。
チック症の《強迫性筋肉内感覚》は、感覚のある、あらゆる随意筋において可能である。汚言症(コプロラリア)、音声チック、スニッフィングチックなどの呼吸を伴うチック症の動作の《強迫性筋肉内感覚》は上気道の随意筋に現れるのであり、感覚のない横隔膜に現れるものではない。強迫観念をもった意識の集中の対象は身体部分の動作ではなく、チック症の《強迫性筋肉内感覚》の不快感覚やその随意筋の存在、収縮と弛緩、もしもそこに関節があれば、その関節の状態が対象となる。たとえば、眼球のチック症の場合は、眼の筋肉の存在とその筋肉の収縮と弛緩、不動状態に対する意識の集中であって、左を見る、右を見るという視線の動きへの意識ではない。運動チック症の動作の外見的様態には、いかなる精神分析学的意味はない。動作は強迫観念の筋肉の位置によって決定される。強迫観念の考えのような強迫観念の筋肉。無意識は不快感覚で筋肉を指し示す。ただし§12「運動単位」で述べるとおり、筋肉は解剖学的単位としてのひとつの筋肉ではなく、動作によってリビドーが知った筋肉群の単位である。過去において筋肉の緊張とともに身体的に印象的であった動作である。動作は筋肉によって限定されるが、筋肉は動作によって知ったものである。絶対強迫のインターフェイスとしての既知の動作の随意筋群に《強迫性筋肉内感覚》は現れる。チックの動作の正確な様態、汚言症の単語などが、既知の動作の運動単位に基づいて決定的に決められている。(§18)。長期の感情的カタルシスによるチック症の治療とともにチックの《強迫性筋肉内感覚》の強迫性が徐々に弱くなっていく。チック症の《強迫性筋肉内感覚》の強迫性がなくなった状態がチック症が治った状態である。

チックの様態
運動チック症の動作が速い理由
運動チックの動作が速い理由は汚言症の単語が患者にとって困る単語であることと同じ理由である。チック症の身体的症状は抑圧の手段である。不快な身体部分、リビドー的身体部分、あるいはトラウマ的イメージが、チック症の症状が意識の前景に置かれることにより抑圧される。
《チック(強迫行為 compulsion)が意識の前景に置かれる》
関節のない随意筋は音を出さないが、意識内では速い動作はあたかもパチリと音を出すかのような効果をもつ。音は意識の志向性を遮断する。チックの動作は極度に意識的である。ありふれた動作、通常の動作、自然な動作、曖昧な動作では患者の意識の邪魔にならない。何の役にも立たない動作や奇妙な動作など、ばかばかしい動作の強迫行為 compulsion が患者の意識の邪魔となる。この強迫行為が意識の前景に置かれ、患者の意識がこの強迫行為に煩わされているときに、疲れた足などの不快な身体的感覚、性器などのリビドー的身体部分、あるいは、トラウマ的イメージが意識に入らなくなる。ゆっくりの動作では、自然な動作になってしまう。ばかばかしい動作のみが患者の意識の対象となりえ、身体的抑圧に利用される。絶対強迫の構造の中で、チックの動作の奇妙な様態がランダムに決定される。動作の様態は無意味であり、馬鹿馬鹿しさや音的な要素のほかには、随意運動が速いことに意味はない。(cf, 合理化における偽りの動機)