薬を使わないトゥレット症候群(チック症)と強迫性障害の治療 §08

Kurikiメソッド(the first edition in 2007)はトゥレット症候群(チック症)および強迫性障害を薬を使わずに治すことを目的とした理論である。この理論はこれらの病気の構造についての推論と解釈に基づいている。精神分析医を読者と想定して書かれており、一般の読者には難解であり、誤読の危険性がある。したがって、Kurikiメソッドは患者が最寄りの精神分析医により治療を受けること、患者とKurikiメソッドの間には常に精神分析医が存在することを前提とする。感情的カタルシスの爆発は強い影響を伴うため、一週間に一度、三秒間のみの実施であり、そのペースを超えた場合は過失による一種の事故である。そのような事故による一時的な精神的沈下は感情的カタルシスに関し未熟な精神分析医の責任とする。また、論理的思考力に乏しい患者には、頭の中でのトラウマ・イメージの加害者と現実世界での人物との錯覚的混同による暴力的復讐感情に関して精神分析医による個人的な説明が不足してはならない。

 

薬を使わないトゥレット症候群(チック症)と強迫性障害の治療
§08

 

· 無意識に関する図式的な理解、そして一匹の透明な動物としての無意識の空想へ。
· トラウマの出来事の加害者を許す。

チェスの駒の機能はチェスの盤の上でのみ意味をもつ。もしも馬の頭のついた駒があったとしても、白いテーブルの上ではナイトとしての意味はもたない。それゆえ、ナイトは白いテーブルの上には存在しない。同様に、精神分析学用語も物体ではなく、神経症の治療法を分かりやすく説明するために想定された機能の名称であり、健康な精神においては意味をもたない。神経症の治療中の患者ではない人には「無意識」はないのである。

Kurikiメソッドにおいて、神経症の構造の上層部が筆者独自の新しい理論であるのに対し、その下層部はフロイト的である。フロイトの精神分析学の概念は、Kurikiメソッドの一部分として適応できるように解釈されている。

神経症の身体的症状の治療における超自我、エス、自我
治療方法の記述表現のために、1923年、フロイトは三つの構成要素を無意識の領域で定義した。これはただ定義の問題ではあるのだが、いずれにせよ、超自我、エス、自我は病気の心の描写であるから健康な精神には無意味である。無意味であるということにおいて、健康な精神にはエスはなく、超自我もなく、自我もない。それらは記述の読みやすさを目的とし、図式的な説明のためにフロイトが用いた名称に過ぎないからである。抽象的な発想を読んで分かる記述するためには各要素に図式的な形と独自の名称を与える必要があった。フロイトは親切に、超自我は自我の「上に」あるなどの表現を用い、図を添えて、読者にできるだけ読みやすい記述となるよう気を配っている。神経症の身体的症状を理解のためにフロイトは読者に超自我、エス、自我などの要素を想像することを求めた。これは健康な精神は健康な超自我と健康なエスと健康な自我から成り立っているのだという話ではない。一般の読者において、神経症の治療法の記述表現を健康な精神の構造と混同し、「人間は皆、無意識を持ち、無意識の中には超自我とエスと自我がある」というように誤読されることも時々あるようだ。同様に 「無意識」や「リビドー」などの精神分析学用語も神経症の身体的症状をもつ患者の治療のための記述表現であり、これらの用語は健全な心においては定義されない。日曜大工で作る犬小屋の設計図とは違うのであり、あたかも超自我、エス、自我が人間一般の心の構造であるかのような初歩的な誤読は避けること。その一方、トゥレット症候群や強迫性障害など、神経症の身体的症状のある患者の治療の際には、特異な精神構造を想像し、特別な名称を付けながら記述することが必要となる。

ジークムント・フロイトの精神分析学は大人のための精神分析学であり、それは文学的なものである。彼はフロイトは抑圧をリビドー的快感に対する抑圧として定義した。超自我という要素があるとした場合、エスと超自我の関係としての自我において抑圧機能が記述される。フロイト的な超自我は五歳ぐらいから発達するが、チック症は三歳ぐらいの子供から始まることがあるので、フロイト的な超自我はチック症の構成要素ではないとされるべきである。
Kurikiメソッドでは、抑圧は不快判断の身体的表現の抑圧、すなわち不快感情の抑圧である。また、不快な身体感覚の抑圧でもある。KV のための共感覚的な身体感覚をもっていること、および身体的な感情表現の欠乏はアスペルガー症候群の特徴のうちに数えられる。(共感覚 synesthesia)。

超自我はエスの一部が拮抗的に変質したものであり、アスペルガー的な人の神経症では超自我のリビドー的要素が隠された状態となっている。

Kurikiメソッドの KV (身体的抑圧)とは、抑圧対象から意識を逸らせるために、ひとつの別の身体部分が意識の対象となり、意識が身体的行為をする仕組みのことである。

KVを持っている人が神経症でない場合、KVは不快な身体的感覚のみを抑圧し、KV に強迫性はない。

KVを持っている人が神経症である場合、KV はトラウマイメージの裏の感情のかたまりの抑圧し、一日中 KV に強迫性がある。トラウマの象徴としてのリビドー的身体部分が他の身体部分の方向への意識志向性により抑圧される。

身体的症状は身体的抑圧の手段であり、神経症は身体的抑圧を使っているのである。アスペルガー症候群の身体抑制機能は先天性であり、しばしば遺伝する。PTSD(Post Traumatic Stress Disorder 心的外傷後ストレス障害)のトラウマとはまったく異なり、不快な感情が抑圧されてトラウマとなる。トラウマが病的抑圧の原因ではなく、病的抑圧が不快なことがらを機械的にトラウマにしているのである。アスペルガー的な抑圧が感情のかたまりの形成の原因であり、トラウマ・イメージは感情のかたまりの表面にある見慣れたイメージである。KV が強迫性を帯びているとき、抑圧対象は象徴的であり、気づかぬうちに抑圧の蓋がきつく閉められている密閉状態といえる。強迫性を帯びた KV が自然な除反応を常に封鎖しているため、意図的な除反応のみが有効である。意図的な除反応は強すぎる抑圧をゆるめる練習にもなる。

フロイトは mirror-touch, ASMR, 共感覚 synesthesia などの特殊な神経学的現象を知らなかった。とても広い領域で定義される自閉症スペクトラムに見られるような随意筋のなかのチックの《強迫性筋肉内感覚》による身体的抑圧のメカニズム(KV)を推論することができなかった。フロイトは感情のかたまりの形成に関してリビドーと超自我の関係、すなわちトラウマの内容だけで想像するしかなかったと思われる。フロイト的トラウマは文学的であり、Kurikiメソッドの下層部の一部でしかない。超自我はトラウマの加害者をかばいながらトラウマの自然な除反応を妨げる要素のひとつとなる可能性はあるが、KV を使った感情のかたまりの形成の仕組みの要素ではない。自閉症スペクトラム障害における身体的感情表現の不十分さによって不快感情のかたまりが形成され、チック症、強迫性障害、パニック障害などの強迫的な KV の症状が不快感情のかたまりを抑圧する。抑圧は感情の抑圧である。感情は、意識の対象を身体的に表現することであるが、アスペルガーはそれを阻止する。感情のかたまりの形成の傾向、および身体的抑圧の仕組みは先天的素因である。治療は感情のかたまりの中の不快感情の摘出により、身体的抑圧の仕組みから強迫性を除去することにある。Kurikiメソッドは患者が最寄りの精神分析医により治療を受けること、患者とKurikiメソッドの間には常に精神分析医が存在することを前提とする。

フロイトの後期の記述では、神経症は超自我とエスの関係にあるとする。そこで、これらの二つの要素の「関係」として第三の要素が無意識の構造の中に理論的に必要となる。その第三の要素が「自我」である。図式的に、フロイトの自我はほとんど無意識の中、超自我とエスの間に広がっている。自我は純粋に理論的な要素であり、領域として、その大部分が無意識の中にあることに意味があるので、自我が意識の対象となることはない。

偽りの動機
「合理化」という語は、Kurikiメソッドでは神経症の身体的症状の様態をランダムに選択する機能を指す。偽りの動機の可能性が選択の条件となる。なぜならば、チックの動作および強迫性障害の行為は随意運動であり、意識が運動を行う際に必ず何らかの動機を伴うからである。狐は「ブドウの質が悪いから」という動機が既に可能であるので立ち去るという意識的行為が無意識内で選択されたのである。立ち去りながら動機をでっち上げたのではない。(Cf., §13)

汚言症の単語の「幼児化」は、幼児期の固着への退行ではなく、たとえば「幼児的な要素は悪意がないので許される」などの偽りの動機の可能性である。神経症の身体的症状の選択(=合理化)の際、リビドーが超自我の検閲を潜るために、幼児性が偽りの動機に使われることがある。

神経症の構造の下層部の説明に、Kurikiメソッドはフロイトの精神分析学用語を使っているが、それらの定義に大きな違いがある。
Kurikiメソッドはチック症や強迫性障害の病人のための治療理論であり、健康な人には理解できない。
健康な人にとって、この理論は何の役にも立たない。
これはひとつの治療方法の記述表現であり、理論の科学的妥当性は問題ではない。

チックの動作が100パーセント随意運動であることは明白であるのだが、そのような初歩的なことすら理解できていない人が少なからずいることは残念である。

· リビドー
感情的カタルシスの爆発を観察するとき、精神的エネルギーという要素なしに神経症を語ることができないことは明白であり、そして精神的エネルギーと身体との間にいろいろな閾があることが容易に想像される。リビドーの振る舞いを理解するとともに、リビドーを量的にも理解する必要がある。リビドーは量的に存在し、また、無意識と身体の交差部分としての領域でもある。リビドーの作用が意識によって性的と判断されたときは、その作用は「性欲」と呼ばれる。性的行為であれ、スポーツであれ、喜劇の演劇であれ、リビドーは、その作用が意識内に現れる際は幼児性により超自我を通過する。
しかし、それと同時に、逆に、神経症の治療においては、リビドーを中性化するのではなく、リビドー・イコール・性欲とみなすことが必要である。そして、トラウマ探しでは、患者の頭の中の世界において、他者のもつ身体的性欲が患者の身体に向けられた場合に対する患者の不快感を標的のひとつとする。少しアスペルガー的な子供は人からの身体的接触に対し強度の不快感を感じることがあり、そしてこれは性的な不快感である。

· エス
無意識内のエスそのものを意識内の幼児的な現われと混同してはいけない。精神分析学の素人愛好家のなかにはエスがそもそも幼児性をもっているものであるかのように勘違いする人もいるかもしれない。エスの活動は意識内に現れる際に幼児性を利用しているのであり、エスそれ自身は幼児的ではないということは、症状の理解のための基本である。

· 身体
チック症および強迫性障害は神経症であり、症状は常に身体的症状、すなわち強迫性筋肉内感覚と強迫行為である。KV は身体的感覚に対する抑圧の仕組みであり、同時に身体は神経症下層部(感情のかたまり)に対する抑圧の手段でもある。絶対強迫による支配のもとで患者の意識は何らかのとても特定された随意運動をすることを強制される。
たとえば、パニック障害の患者は身体的感覚の強迫とともに、その場から脱出するという身体的行為が強制される。パニック発作は身体的に脱出できない場所のみで起こるものであり、恐怖と呼ばれるところのアドレナリンの身体的感覚、身体の状態に関し、恐怖への恐怖により恐怖が増幅するというフォボフォビアの神経症である。

· 無意識
チック症や強迫性障害の治療には、無意識を底なしとする不必要な過大評価は邪魔となる。無意識を小さな閉じられた領域であるとはっきりと認識することがとても大切である。このことの理解は、チック症や強迫性障害の人達には難しいかもしれない。彼らの無意識は抑圧の機能を隠したいからである。神経症の治療の説明のために想像すべき無意識は、意識とは別の領域として、隣の部屋のように存在する。定義上の理由から言っても、瞑想によって無意識の中を見るというようなことはできない。無意識は目を閉じて探すものではなく、患者は無意識を抑圧機能とみなすべきである。
患者が自分の無意識をまったくコミュニケーションの取れない透明で馬鹿な猫と見なすことも得策である。

トラウマの加害者であるところの現実の人物を許す。
許しとは、除反応を迅速に完了するために、患者がトラウマの原因となった実在の人物に対し身体的暴力に訴えるべきではないことを意味する。トラウマは、無意識の観点において性的である。家庭内の人物による行為が性的に不快であるか、そうでないかは子供のアスペルガー的な傾向による。皮膚的な接触や性器を見せるなどの毎日の変態的な行為も、子供の意識内で不快ではない場合はトラウマとなる。子供の意識内で不快さが爆発的に感情表現されている場合は、それは抑圧されていないということであり、トラウマにはならない。通常、家族内にそのような変態性欲者はいないであろうから、子供の無意識の勘違いである可能性が高いと言える。一匹の猫が人間社会の中で何かを誤解したとしても、それはまわりの人々の責任ではない。猫は猫、人は人であり、たとえ人間の家にいても猫は猫の頭の中だけで生きているのである。通常、幼児期の精神的トラウマの形成は、いわば、無意識が一匹のバカな動物であるということによっているのである。大人の現実の人間社会と一匹の動物の錯覚を同じレベルで考えて、実在の人物を自分の神経症の原因であると攻撃してはいけない。すなわち、その人物が変態性欲者である場合は別として、一般的には、トラウマの形成の際、トラウマの無意識的部分は過失による事故であるということ。無意識を大事にしてはいけない、なぜならばトラウマ感情は無意識の思い出の中に含まれているからである。たとえ思い出は人ひとりひとりの人生の宝物であっても、無意識は目に見えない一匹のバカな動物である。トラウマ感情の抑圧は幼稚な無意識のおかしたバカな間違い。大人の人間社会の現実世界と子供の無意識の虚像の世界を混同してはいけない。不満足な日常生活の中に幸せを見い出だすのに知性が必要なように、チック症や強迫性障害を楽しく治すのにも知性が必要である。虚像の人物と実際の人物を区別できている状態が精神分析学を理解した人間の基本的な態度。感情的カタルシスの感情が怒りである場合、無意識の中のポテンシャルな怒りに意識の中での表現手段を与えるのと同時に、実在の人物を許すためには知性が必要である。トラウマの出来事が抑圧の原因ではなく、抑圧の素因(アスペルガー的な先天的傾向)がトラウマの形成の条件である。トラウマの虚像の加害者に対する怒りの感情の量的な燃焼がカタルシスであり、それがチック症や強迫性障害の治療となる。 虚像の人物に対して意識が怒ることが治療であり、虚像の人物と現実の人物を区別するには知性が必要である。