薬を使わないトゥレット症候群(チック症)と強迫性障害の治療 §07

Kurikiメソッド(the first edition in 2007)はトゥレット症候群(チック症)および強迫性障害を薬を使わずに治すことを目的とした理論である。この理論はこれらの病気の構造についての推論と解釈に基づいている。精神分析医を読者と想定して書かれており、一般の読者には難解であり、誤読の危険性がある。したがって、Kurikiメソッドは患者が最寄りの精神分析医により治療を受けること、患者とKurikiメソッドの間には常に精神分析医が存在することを前提とする。感情的カタルシスの爆発は強い影響を伴うため、一週間に一度、三秒間のみの実施であり、そのペースを超えた場合は過失による一種の事故である。そのような事故による一時的な精神的沈下は感情的カタルシスに関し未熟な精神分析医の責任とする。また、論理的思考力に乏しい患者には、頭の中でのトラウマ・イメージの加害者と現実世界での人物との錯覚的混同による暴力的復讐感情に関して精神分析医による個人的な説明が不足してはならない。

 

薬を使わないトゥレット症候群(チック症)と強迫性障害の治療
§07

 

用語のリスト

「《感情のかたまり》などの形象的な用語が、はたして科学的であるのか」というような疑問における根本的な誤りについて。
人間が作った機械の仕組みは実際の物体の領域で記述されるが、人間が作ったものではないものの仕組みは機能の解釈のみが人間に理解できるような表現による抽象概念として記述される。それらの記述は通常、図式やイメージとともに簡素化され、理解される。
たとえば、電気回路の電流の計算は非常にしばしば水にたとえられて記述されるが、それに対し電気は水ではないとは誰も反論しない。
化学では、ひとつの分子は八個ずつのまとまりで数えた電子がそろっている状態で安定するものとしてルイス構造の図を描くが、勿論、実際は分子の構造などは紙の上に描けるようなものではない。化学式の理解の方法として、ルイス構造の図で分子の構造が概念的に表される。
精神分析学においても精神機能の記述は形象的な表現によるものとなる。精神的機能のひとつひとつが、しばしばあたかも物体、あるいは機械的な仕組みの部分のごとく表現されるが、精神は機械ではないので、実際には精神が機能の組み合わせのようには図式的には構成されていないのは誰もが知っていることである。精神分析学が神経症を治療するためだけの理論であることを理解している人はほとんどいない。精神分析学的な理論の記述には治療法の理解に役立つということ以外の配慮は必要ない。神経症の治療に関係のない人には、精神分析学用語が自分には全く意味をもたない語であるということが理解できないかもしれない。神経症治療に関係ない人は、健康な精神にとっては《無意識》《リビドー》《超自我》などの用語が無意味であることを知らず、これらの用語を人間精神一般に一般化してしまい、精神分析学と心理学との区別ができない。科学的な知識に欠けている人々は科学的な理論が形象的表現で説明されることを知らない。たとえば微積分のグラフの連続性も形象的表現による道具にすぎないことを知らない。連続した曲線グラフは紐にも見え、そもそも数の世界には存在せず、計算のための実用的な道具にすぎない。奇妙な記述表現には納得しにくいかもしれない。
精神分析学的な要素は神経症の病因ではない。「なぜならば無意識が存在するからであり、したがって」「なぜならばリビドーが存在するからであり、したがって」「なぜならば超自我が存在するからであり、したがって」ということではなく、精神分析学用語は神経症における心の病的な振る舞いの記述表現にすぎない。無意識を図式的に仮定すると神経症の治療方法が説明しやすいということである。「フロイトは無意識を発見した」というのは誤りであり、それはまるで「ゲオルク・ジーモン・オームは電流が水道管の中の水であることを発見した」「ライブニッツは顕微鏡で微分の dx を発見した」と言っているようなものである。
たとえば、宝くじを買うとする。当たる確率を一千万分の一とする。子供は宝くじの券を五枚買うと当たる確率が五倍になると思うかもしれない。ところが数学的には、そうは考えない。一千万分の一は、ほとんどゼロだから何枚買ってもほとんどゼロであり、違いはないのだというのが高校からの数学での基本的な考え方となる。五百万枚買ったら確率は五十パーセントではないのかということは、ここでの論点ではない。とても数学的な考え方は子供の算数で考えるとしばしば間違っているかのようにも見える。ゼロへの収束の考え方は、グラフによって視覚的に理解される。それは、何かあるものの量の対数的な変化は人間には数としては知覚的に認識できないからである。
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たとえば地球が四頭の巨大な象と一匹の巨大な海亀の上に乗っている古い絵などは、とても科学的な概念の表現として見ることもできるのであるが、子供には単にばかばかしい絵とだけ見えるかもしれない。象は抽象的概念としての空間、海亀は抽象的概念としての時間を表現していると考えられ、当然、それではその海亀はどこを泳いでいるのか、空間や時間は人間の頭の中の概念、我々の知覚の様式にすぎないのではないのか、などの問いを目的とした絵のはずである。それに対し「そんな大きな象や海亀がいるわけないよ」と子供が言うのならば、それは単に抽象的思考の貧しいだけの子供らしい反論と言える。なかには「昔の人々は馬鹿だったから四頭の巨大な象と巨大な海亀が地面の下にいると信じていたんだ」と本気で思う小さな子供たちもいるのかもしれない。そのような子供たちは表現されている概念を推量しない。表現を解釈されるべき表現として見ることができず、昔の人々が信じていた非科学的な馬鹿な想像であると子供たちは本気で思う。精神分析学的な記述を「フロイトは無意識を発見した」「精神分析学は無意識の存在を信じることである」などのように誤って読む人たちがいることは残念である。¤2desert

砂漠で交通ルールが無意味であるように、神経症のない健康な精神においては神経症治療の用語は無意味である。精神分析学的な要素の存在を証明することは、電流が水流であることを証明するのに等しい。電流は水流として仮定されたのではなく、記述表現なのである。同様に、無意識の存在は仮定されたのではなく、神経症の身体的症状の治療方法を説明するための記述表現なのである。

抽象的な概念を具象的に理解する
精神分析学での「無意識の中に《感情のかたまり》が存在する」というような記述に対する容易な反論が幼児的な反論であることを理解するのは難しいかもしれない。フロイトは馬鹿だから人間の心の中に無意識が存在すると信じていると言うのは、電気屋は馬鹿だから電流を水流であると信じていると言うのと同じである。一方、精神分析学自体がもちろん科学的、実証的になりえないことは誰でも知っている。無意識は顕微鏡で観察するこはできない。神経症の治療法の理解という唯一の目的において「無意識の存在」として記述表現される精神的領域を精神的機能あるいは精神的傾向として図式的に認識することが大切である。それと同時に、記述表現による認識を更に一歩進めて、あたかも無意識をどこか別な所》にとどまっている透明な一匹の動物であるかのごとく考えることができるならば、より治療的と言える。すなわち、抽象的な概念を具象的な想像とともに考えるということである。電流を水流とみなして計算するのと同じである。いずれにせよ、「無意識」「リビドー」「オイディプス・コンプレックス」などのフロイトの用語は精神分析学用語であり、神経症の身体症状の治療においてのみ意味をもつ語である。
(《どこか別な所》とは推論が不可能であるという意味である。「無意識」という語で記述表現された病的構造の概念を知らない神経症患者は抑圧機能の奴隷であるとも言える。)

用語
フロイトにはチック症は治すことはできなかったはずである。Kurikiメソッドのトゥレット症候群のセラピーの理論は大部分がフロイトと大きく異なっており、読む際に用語の定義の混乱が予期される。Kurikiメソッドは小さな理論であるから、そのような問題となりやすい注意すべき用語をあらかじめすべてここに列挙しておくことができる。Kurikiメソッドは先天的な強い身体的抑圧機能を前提としたチック症および強迫性障害の構造の推論である。以下のさまざまな用語は「病的な抑圧」というひとつの病的状態を表現し説明するためのものである。用語のそれぞれは別々に存在する機能としてではなく、ひとつの病的状態をそのさまざまな側面の記述によって表現するためのものとして理解される。Kurikiメソッドでのすべての用語はチック症および強迫性障害の患者を治すという特殊な目的のうちにのみ定義される。治療法の説明のための表現において、これらの単語はチック症や強迫性障害の構造の構成要素であり、誤って《心理学》として普通の健康な精神構造へ一般化された場合にはいかなる意味ももたない。

(a) Kurikiメソッドの理論における造語、新語
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チックの《強迫性筋肉内感覚》
ひとつの随意筋の中に、あるいは、随意筋群の一単位(§12)の中に「現れる」不快な身体的感覚。この随意筋の位置的な存在が意識内で志向性(フッサール)の対象となる。この身体的感覚をトリガーとして、「不動性の強迫観念」が意識内に増幅する。意識はチックの動作をすることを強制される。チックの動作は常に意識的な動作であり、勿論、随意運動である。
随意筋の中の、筋肉収縮のない筋肉収縮感。あるいは、この身体的感覚はとても局所的な筋肉疲労の感覚にも擬似的に似る可能性がある。
premonitory urge とも呼ばれるが、チックの動作は意識がどうしてもしなくてはならない、とても意識的な随意運動であるから、この不快な身体的感覚はチックの動作の premonitory 《前兆》ではない。また、この感覚は実際の局所的な身体的不快感覚であるから、urge ではない。
絶対的強迫が意識を間接的に支配下に置くとき、この身体感覚が意識のインターフェイスとなっている。
随意筋の中に局所的に現れるこの身体的感覚は意識内の錯覚ではない。この身体的感覚がなぜ錯覚でないかと言えば、あらゆる随意筋の位置的な存在は容易に意識対象となりえるからである。実は意識がこの筋肉を意識対象としているのであるが、あたかも筋肉の感覚が意識内に現れるかのように見えるのである。この身体的感覚は単なる随意筋の存在の意識にほかならない。ひとつの随意筋の存在の感覚の強迫観念である。この強迫観念の支配的な強さは絶対的である。

チック症の強迫観念「随意筋の不動性」
筋肉的感覚、チック症の (強迫性筋肉内感覚) から増幅される強迫観念(侵入思考)。強迫的なチックの動作は、チックの強迫性身体感覚の解決であると同時に、「この随意筋は、もう動かないのかもしれない」という馬鹿げた強迫観念の解決である。随意筋の随意的な可収縮性 contractibility の確認が意識に強制される。随意筋の随意的な可収縮性は他者の目にはその身体部分の可動性のようにも見え、「動作」として観察される。チック症は随意筋の身体的感覚によって位置を示された不動性を強迫観念とした強迫性障害である。したがってチック症と強迫性障害は同一の方法で治療されるはずである。

ばかばかしさ
チック症や強迫性障害の目的はトラウマ的感情の抑圧である。
意識の志向性はトラウマとは無関係な第二の対象に向かわせられる。その第二の対象は理性的な意識を邪魔するものであり、患者自身の意識を困らせるものがランダムに選ばれる。汚言症の単語の幼児性、チックの動作の無意味な速さ、など。
チック症や強迫性障害はトラウマ的感情に結び付いている身体部分の身体的抑圧である。リビドー的な身体部分を抑圧する目的で、リビドー的でない身体部分が合理化とともにランダムに選択されて意識対象となる。

OCDの《強迫性身体感覚》
強迫性障害の身体的行為への強迫観念のトリガーとなる不快な身体的感覚 (皮膚感覚など)。パニック障害のアドレナリン作用を模倣した感覚。意識内で強迫観念の強迫性が増幅する。
強迫性は抑圧の先天的機能であり、強迫性の強さは抑圧の強さに等しい。抑圧機能は治療することが不可能なので、強迫性はトラウマ・イメージの発見と感情的カタルシスによって治療される。
トラウマ・イメージは、抑圧の結果、楽しいイメージである。

KV
Körperliche Verdrängung, 身体的抑圧。
KV は患者の先天的な仕組みであり、Kurikiメソッドの理論は、この KV によって生じる神経症の理論である。治療方法が正しいならば、チック症と強迫性障害の両方をもっている患者はチック症が治る際に強迫性障害も同時に治るはずである。チック症が治るとはチックの強迫性筋肉内感覚から強迫性の増幅が消えるということであり、強迫性障害が治るとはOCDの強迫性身体感覚から強迫性の増幅が消えるということである。ひとりの少しアスペルガー的な人が KV をもっている場合は、その人の KV はチックの強迫性筋肉内感覚であったり、OCDの強迫性身体感覚であったり、両方であったりする。チック症における KV はチックの強迫性筋肉内感覚、強迫性障害における KV は OCD の強迫性身体感覚である。KV は先天的素因による抑圧の仕組みであり、すでに三歳ぐらいの幼児から機能が始まることがある。たとえば、先天的素因を原因とする肥満には、素質が治ることはないが、食事の制限や運動という解決方法が適用されるが、同様に、KV の仕組みは先天的素質であり、素質が治ることはないが、抑圧対象を感情的カタルシスにより外在化させることで神経症の身体的症状を消すことができる。無意識が意識に隠している対象(リビドー的トラウマ感情)がなくなれば、KV が使われる必要はなくなり、KV の強迫的な作動は終わる。患者は KV の仕組みの理解、および感情的カタルシスによる除反応で神経症の身体的症状を消すことができる。Kurikiメソッドとは、神経症的な KV から強迫性を除き、強迫性のない KV にするということである。治療後の KV は寒さや疲労などの直接的な身体的不快感 (不定的被抑圧感覚) の抑圧として強迫性なく現われるだけであり、トラウマ感情の抑圧という役割りは、なくなっている。アスペルガーなどで、KV を持っている人は感情的カタルシスを精神分析医とともに学習する必要がある。
¤4double_repression

KV の中で抑圧される身体的感覚の三種
· 原始的被抑圧感覚 §26
· 不定的被抑圧感覚 §27
· 再帰的被抑圧感覚 §28

KV の存在によって抑圧される対象
· 感情のかたまり
これは理論的な存在ではなく、実際に知覚可能な存在である。 感情的カタルシスによって感情に変換され、軽減されるものとして量的に知覚される。不快判断(何かを不快であると判断すること)が感情的に表現されず、すなわち身体的に意識内で表現されず、保留状態として凍結されつづけているポテンシャルエネルギー。トラウマ的イメージの裏のポテンシャルエネルギーが感情的カタルシスによって感情エネルギーに変換される。自閉症的な KV の素因をもつ人には、感情的カタルシスの試みなしではトラウマ的イメージと普通のイメージとの区別はつかない。もしも試みにおいて爆発したのならば、それはトラウマ的イメージである。

患者は神経症の症状が身体的抑圧であることを理解すれば、一、二週間後にトラウマ的イメージらしきイメージは朝、目覚めたときなどに頭に浮かぶであろう。

・絶縁体(もとは電気学用語)
感情のかたまりは、トラウマ的イメージ、絶縁体、ポテンシャル感情が玉ネギのように重なっている。ポテンシャル感情の層は絶縁体の層の裏に保存されている。感情的カタルシスに関する知識がなく、軽はずみに強すぎるカタルシスの爆発をしてしまった場合、10 分ぐらいまで「閉じる物」として知覚される。閉じるスピードは軟体動物的な遅さである。絶縁体は感情のかたまりの中でトラウマ的イメージの裏にあり、ポテンシャル感情を密閉する。(社会と個人との絶縁という意味ではない。)

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二重構造からなる抑圧
1. 上層部(KV)
KV は先天的であり、身体的不快感覚 (チックの強迫性筋肉内感覚、OCDの強迫性身体感覚) とそのための身体的動作・身体的行為による解決の組み合わせが普通の健康な身体的不快感覚を抑圧する仕組みである。KV は、それ自体においては神経症ではない。下層部(感情のかたまり)の存在により、KV は強迫性(絶対的な必要性)を帯びて神経症の上層部となる。神経症の治癒は強迫性が消えたことを意味する。¤6kv_tic_ocd

2. 下層部(感情のかたまり)
リビドー的不快判断が未表現であるため、大量のリビドー的不快感情が抑圧されたままである状態。上層部がせわしく活動しているということの煩わしさが意識の前景の対象となり、その結果として下層部が抑圧される。上層部の作動状態は下層部の抑圧のために絶対に必要とされ、絶対的強迫に支配され、神経症の症状となる。神経症の症状は抑圧の仕組みである。したがって、下層部の治療(感情的カタルシスの爆発)が上層部の強迫性を消すことになる。患者は KV は常にもつが、下層部の治療後には KV は強迫性を失う。KV は神経症の上層部である必要性を失う。

絶対的強迫
通常 compulsion という語は強迫性障害における強迫観念のひとつひとつのことであるが、Kurikiメソッドでの絶対的強迫は神経症の構造である。この構造は、神経症の身体的感覚、強迫観念の増幅、そして神経症の身体的行為、これらの頑固な連鎖で成り立っている。

精神的運動単位
チック症の構造において、筋肉の一単位とは解剖学的なひとつの筋肉ではなく、ひとつの運動に伴い身体的に知った随意筋のグループ、解剖学的には複数の随意筋を意味する。たとえば汚言症での「xxxx」という語の発音の運動は解剖学的には複雑であっても、精神的には単純な筋肉運動である。§12

(b) フロイトの用語でありながら定義が大きく異なる語

精神分析学用語は神経症の身体的症状の治療法の説明においてのみ意味をもつ。フロイトの単純な空想的理論は初期から変化することがなかった。1923年、フロイトは理論の記述表現をより容易なものに改めた。一般の人々がフロイトの本を読むときの問題は、多くの人々が神経症患者の身体的症状を知らないということである。彼らは精神分析学が神経症の身体的症状の治療方法の記述のみであることを理解しない。したがって健康な精神と神経症との混同、心理学と精神分析学の混同、知覚可能な実際の気持ちと純粋に理論的な要素の混同が起こる。健康な超自我、健康なエス、健康な自我、健康な無意識などという語は無意味であり、そのような精神的領域は存在しないということを一般の人々は理解しない。しばしば健康な一般読者は、それらを自分の健康な意識内の知覚可能な要素に当てはめて心理学的に理解しようとするため、大きな誤解が生じる。たとえば、未解決のエディプスコンプレックスは神経症治療おける無意識内の象徴的な三角形の未完成であり、健康な意識内の実際の父親と実際の母親と自分との三角関係ではない。無意識、自我、超自我、エス、リビドーなどは、まったく知覚不可能な理論的要素であり、神経症の身体的症状の治療のみに関する推論的な記述表現、治療の説明の仕方である。

超自我
チック症の症状は三歳ぐらいから現れる。フロイト的な超自我は五歳ぐらいから発達するとされているので、大人でも子供でも、チック症の治療ではフロイト的な超自我は中心的な問題ではない。無意識内の自我やエスもチック症や強迫性障害の構造の主な構成要素からは除外される。

抑圧
意識対象の阻止として身体的感覚も抑圧される。Kurikiメソッドでは自我によるエスへの抑圧という構造はない。

合理化 (§13 – §19)
Kurikiメソッドでは、合理化は神経症の身体的症状(すなわち、意識の対象)をトラウマの内容とは無関係にランダムに選択する病的機能。ひとつの症状だけが選択されるとは限らない。ランダムにとは、さいころを転がすように偶然的であるという意味。ただし、「確認のためだ」のように、合理化は正当化の可能なニセの動機を必ず必要とする。
(1)
KVの合理化機能は神経症の上層部(神経症になっているKV)のカテゴリーをひとつ、あるいは複数、ランダムに選択する。チック症か、強迫性障害か、パニック障害か、など。
(2)
チック症の合理化機能は、《随意運動》-《随意筋の位置的存在と非可動性の強迫観念》-《偽りの動機》の組み合わせをランダムに選択する。
強迫性障害の合理化機能は、《身体的行為》-《身体的不安感覚》-《偽りの動機》の組み合わせをランダムに選択する。
パニック障害の合理化機能は、《不可能な脱出》とともに、恐怖へのアドレナリン作用の身体的変化への《恐怖への恐怖》が正当化されるようなトリガーを選択する。

カタルシス
Kurikiメソッドでは、大人の神経症の治療としての感情的カタルシスの爆発こと。トラウマイメージの発見と言語化のみでは除反応として不充分。

¤7catharsis
リビドー
神経症の治療法の説明のための単語。神経症の構造におけるエネルギー的要素。神経症の治療以外では、「リビドー」という語はいかなる意味をももたない。

トラウマ
自閉症スペクトラム障害の子供にとっては、幼児的トラウマは大人の目には劇的なものである必要はない。なんでもない普通のことがらがトラウマとなることもある。たとえば、大人との皮膚的な接触が極度に不快であるのかもしれない、等々。すなわち、トラウマ的イメージは出来事の表示であるが、不快な対象は患者の身体的感覚である可能性もある。
不快判断が感情表現されず、凍結状態が保存される。この保存作業が症状である。

(c) その他

音声チック
音声チックの動作は声帯筋肉の中のチックの強迫性筋肉内感覚を解決するための動作であり、運動チックの部分集合である。音声チックの強制が音のショックとともに対象として意識の前景に置かれ、トラウマイメージへの意識の流れが妨げられる。チック症の様々な動作や強迫性障害の様々な行為は患者の無意識によってランダムに決定されているため、動作や行為を分類することは無意味であり、分類はむしろ病気に関する理解を妨げるものと言える。Kurikiメソッドでは動作や行為は分類されない。

汚言症
汚言症はチック症のひとつである。単語の選択における合理化において幼児性の要素が顕著である。

不快
不快な対象が無意識によって抑圧されたときは、実際は意識には不快ではない。もし抑圧されなかったのならば不快であるはずであったという意味である。
何かあるものが不快であるとき、「不快さ」はひとつの身体的感覚であり、その身体感覚が不快なのである。その身体感覚が抑圧作業の下にあるとき、出来事のイメージの不快さは抑圧される。抑圧は不快な出来事の抑圧ではない。抑圧は不快感情の抑圧である。

肉体的感覚と身体的感覚
Kurikiメソッドでは、精神的な感覚(気持ち、など)の反意語を肉体的感覚(痒み、など)とする。また、右腕の身体的感覚、左腕の身体的感覚など、身体部分の位置性や活動性が伴いうる肉体的感覚を身体的感覚とする。