薬を使わないトゥレット症候群(チック症)と強迫性障害の治療 §48

Kurikiメソッド(the first edition in 2007)はトゥレット症候群(チック症)および強迫性障害を薬を使わずに治すことを目的とした理論である。この理論はこれらの病気の構造についての推論と解釈に基づいている。精神分析医を読者と想定して書かれており、一般の読者には難解であり、誤読の危険性がある。したがって、Kurikiメソッドは患者が最寄りの精神分析医により治療を受けること、患者とKurikiメソッドの間には常に精神分析医が存在することを前提とする。感情的カタルシスの爆発は強い影響を伴うため、一週間に一度、三秒間のみの実施であり、そのペースを超えた場合は過失による一種の事故である。そのような事故による一時的な精神的沈下は感情的カタルシスに関し未熟な精神分析医の責任とする。また、論理的思考力に乏しい患者には、頭の中でのトラウマ・イメージの加害者と現実世界での人物との錯覚的混同による暴力的復讐感情に関して精神分析医による個人的な説明が不足してはならない。

 

薬を使わないトゥレット症候群(チック症)と強迫性障害の治療
§48

 

確実である事がらが強迫性障害の不合理な考えに屈する仕組み。
いかにして確認したものの確かさが再度の確認の必要性に屈しえるのか。
フロイトの精神分析学での合理化は無意識内の自我の平安を保つための策であったのに対し、Kurikiメソッドでの合理化はリビドーが超自我を通過するための正当性の任意な選択である。強迫性障害の合理化の産物は意識の中ではとても不合理な考えであり、それゆえに意識の前景での大きな対象となる。チックの動作が意識にとって不自然なものであることや、汚言症の単語が意識にとって迷惑な単語であることと同様である。神経症、すなわち抑圧手段は意識にとってナンセンスである必要がある。
チック症は三歳の子供から見られるので、フロイト的超自我の病気ではない。したがってフロイト的自我の病気ではない。また、強迫性障害や汚言症は幼児化の症状であるから、本物の幼児の年齢の患者はいない。これらの神経症の上層部は、KV、つまり身体的な不快感覚の身体的な抑圧の仕組みであり、そのKVの存在が下層部の抑圧手段である。
不合理な考えが強迫の中で行為として実行される際、合理的考えが屈するという事態が生じる。
たとえば、
不合理な考え、「数は3が良い」「ガスをもう一度確認」など。
合理的考え、「数は何でもいい」「ガスは、すでに一回の確認したのでOK」など。
不合理な考えと合理的考えが衝突する。
不合理な考えに続く行為には二つの場合がある。
1. 止まない衝突を終わらせるために行為を実行する場合。
2. 不合理な考えが意識対象として増幅し、増幅に耐えられずに行為を実行する場合。
いずれの場合も行為が実行される。

合理的な考えが不合理な考えに取って変わられるということはない。合理的考えは否定されるのではなく、弱まることもなく、正しい考えとしてそのまま残る。合理的考えが否定されずに存続するためには、不合理な考えが極めて幼稚である必要がある。不合理な考えと合理的考えの衝突の持続、そして行為の実行の循環が不快な身体的感覚の抑圧の手段となる。チックの動作のないチック症がないように、行為の実行のない強迫性障害もない。チックの現れは身体的感覚であり、OCDの現れも身体感覚である。さらに、チックの動作も含めたチック症、行為の実行も含めた強迫性障害は病気全体として身体的である。病気全体がリビドーレベルの勢力の中にある。
恐怖症
恐怖症は、引き金との接触の際のアドレナリン分泌による身体的変化に対する恐怖、つまり身体的恐怖への身体的恐怖である。恐怖症は抑圧型の神経症ではなく、感情のかたまりとは無関係である。恐怖症の治療は一発で終了するが、恐怖をもって当然なものへの恐怖は治らない。
一方、強迫性障害においては不安は身体的症状である。リビドーが身体にアドレナリン分泌感覚の模倣的感覚を作る。そして、意識がこの身体的感覚を不安な気持ちとして解釈する。