薬を使わないトゥレット症候群(チック症)と強迫性障害の治療 §23

Kurikiメソッド(the first edition in 2007)はトゥレット症候群(チック症)および強迫性障害を薬を使わずに治すことを目的とした理論である。この理論はこれらの病気の構造についての推論と解釈に基づいている。精神分析医を読者と想定して書かれており、一般の読者には難解であり、誤読の危険性がある。したがって、Kurikiメソッドは患者が最寄りの精神分析医により治療を受けること、患者とKurikiメソッドの間には常に精神分析医が存在することを前提とする。感情的カタルシスの爆発は強い影響を伴うため、一週間に一度、三秒間のみの実施であり、そのペースを超えた場合は過失による一種の事故である。そのような事故による一時的な精神的沈下は感情的カタルシスに関し未熟な精神分析医の責任とする。また、論理的思考力に乏しい患者には、頭の中でのトラウマ・イメージの加害者と現実世界での人物との錯覚的混同による暴力的復讐感情に関して精神分析医による個人的な説明が不足してはならない。

 

薬を使わないトゥレット症候群(チック症)と強迫性障害の治療
§23

 


Kurikiメソッドにおける抑圧、リビドー、そして超自我の定義は、フロイトと大きく異なっている。定義は語の問題であり、詩的な問題である。患者ひとりひとりの個人的理解がその患者自身の治療手段となる。前にも述べたとおり、フロイトの自我は大部分が無意識の中にあることは一般には理解され難いので Kurikiメソッドでは自我という語は用いられない。また、チック症は2歳の幼児からも見られるので、5歳ぐらいから発達するフロイド的超自我も問題とはならない。チック症の原因にフロイト的超自我を含めるのは間違いである。フロイト的超自我がチック症の原因に含まれないことからして、そもそも Kurikiメソッドはフロイトの精神分析学とは大きな違いがあることを読者には認識してほしい。フロイトの精神分析学では、神経症は超自我とエスの間の自我の病気である。Kuriki メソッドでは、チック症は無意識による抑圧の方法である。フロイトの精神分析学においてエスの身体性、超自我の身体性、自我の身体性が神経症の理解の中心であるように、チック症の治療では無意識の身体性、すなわち抑圧機能の身体性が理解の中心となる。
強迫性障害が始まるのはチック症よりも遅く、非常に早くても7歳である。5歳以上の患者における超自我の定義がKVの解釈において必要である。超自我はKVの原因ではなく、合理化機能の要素である。チックの動作の合理化は非合理なものであるが、とくに5歳以下の合理化は、とても非合理である。非合理とは理由に理由がないということ。
· 抑圧
抑圧は無意識による意識対象の制限であり、身体感覚も含む。抑圧は抑圧状態ではなく、抑圧しようとする抑圧機能のこと。抑圧対象は必ずしも完全に抑圧されるとは限らない。たとえば、足の疲労感が実際に消えるわけではなくても、抑圧機能は足の疲労感を抑圧しようとする。
· リビドー
精神と身体の交叉領域におけるエネルギー。この語は精神の中の身体、および身体の中の精神を表す。絶対的強制の身体性は無意識と身体の直接的関係によるもの。
· 超自我
意識と無意識の境界でのリビドーに対する検閲。性欲のみが通過できる。超自我は常にリビドーとの関係において語られる。精神分析学は神経症の治療であるからである。神経症の身体的症状を語らずに超自我を云々しても意味がない。身体的症状のない健康な精神において超自我を云々することは無意味。
リビドーの現れが意識に入った場合が性欲。性欲はすでに意識の対象となっているので、性欲が抑圧されるということはない。性欲は身体的機能のひとつであり、もしも超自我によって性欲が抑圧されたら人類は滅びる。超自我は性欲以外のリビドーを通過させないとも言える。
超自我の検閲の門は、リビドーに対し上下に開閉するという表現が可能。小さな子供と小動物は容易に通過できるが、大人は身をかがめて子供にならないと通れない門である。リビドーが超自我を通過するためには5歳以下に幼児化する必要がある。愛の神、キューピッドが幼児の姿をしているのは、キューピッドが超自我の門を通過するためである。性的な行為には幼児的、乳児的な要素が多くある。若いカップルがディズニーランドに行ったりする。
強迫性障害での物を並べたり、数を数えたりなどの非合理な行為や汚言症の幼児語などに幼児化が見られる。眼球チックなど、0歳児の筋肉の発達時のような、随意筋への意識の志向性も幼児的である。