薬を使わないトゥレット症候群(チック症)と強迫性障害の治療 §17

Kurikiメソッド(the first edition in 2007)はトゥレット症候群(チック症)および強迫性障害を薬を使わずに治すことを目的とした理論である。この理論はこれらの病気の構造についての推論と解釈に基づいている。精神分析医を読者と想定して書かれており、一般の読者には難解であり、誤読の危険性がある。したがって、Kurikiメソッドは患者が最寄りの精神分析医により治療を受けること、患者とKurikiメソッドの間には常に精神分析医が存在することを前提とする。感情的カタルシスの爆発は強い影響を伴うため、一週間に一度、三秒間のみの実施であり、そのペースを超えた場合は過失による一種の事故である。そのような事故による一時的な精神的沈下は感情的カタルシスに関し未熟な精神分析医の責任とする。また、論理的思考力に乏しい患者には、頭の中でのトラウマ・イメージの加害者と現実世界での人物との錯覚的混同による暴力的復讐感情に関して精神分析医による個人的な説明が不足してはならない。

 

薬を使わないトゥレット症候群(チック症)と強迫性障害の治療
§17

 

チック症における偽りの動機

チックの動作は100%随意運動であり、意識的な随意運動の属性として偽りの動機が必ず伴う。5歳以下の子供の場合は超自我は未発達であるから超自我によって動作形態が正当化されるための偽りの動機には妥当性は必要ない。
首の関節を鳴らすチックは、たとえば、「音がするということは、関節の位置がずれているということであり、もしも音がしないのならば、首を動かす運動は必要ないのだが」というような偽りの動機が意識に入る。
関節が鳴るのは位置がズレているのが矯正されるときの音ではなく、関節の中のガスの音である。舌打ちでも同じような音が出せる。関節が動くとき、少し横にズレるような動きを伴うのは当たり前。首の関節をポキポキと鳴らすのは、関節や腱、神経などを損傷する可能性があり、椎骨動脈解離の原因のひとつでもある。次に音が鳴るようになるまでの10分位の間に関節の位置が再びズレるというようなことではない。指の関節が鳴るのも、関節の位置に問題があるということではない。
関節チックの偽りの動機は、「関節が正しく組み合わされていない」というようなものであることが多いはずである。
偽りの動機とは科学的に間違った理由のことではなく、抑圧の仕組みを隠しているという意味。首関節のチックが抑圧するのは、上層部としては、たとえば、椅子が硬い、足が疲れたなどのさまざまな不定的身体感覚である。首関節のチックがひとつの抑圧機能であることを合理化が隠す。合理化は「葡萄は甘い」を隠すのではなく、「葡萄に届かない」を隠すのでもない。「劣等感を隠す」ことを隠す。もちろん、狐の頭の中、無意識と意識の間での話である。合理化の容易さ、すなわち任意的選択の容易さがチック症の《強迫性筋肉内感覚》が現れる随意筋のある運動単位の選択基準となる。症状は合理化の容易さで決まる。
チックの動作を強制するのは患者の意識の中ではチック症の《強迫性筋肉内感覚》であり、偽りの動機ではない。偽りの動機には絶対的な身体的強制力はない。強迫性障害においても、「考え」が行為を強制しているのではなく、患者の意識にとっては OCDのアドレナリン的な《強迫性身体感覚》が行為を強制している。それに対し、「絶対強制」は下層部も含めた病気全体の構造そのものであり、患者の意識の中にはない。「絶対強制」は患者には見えない。
チック症がひとつの神経症的な病気であるということは病的な構造要素があるということ。チック症の病的な構造を正しく治すのが当治療法である。読者は、このメソッドを奇異な理論であると思うかもしれないが、その奇異な理論構造こそがこの病気の理論的構造なのである。もしも、読者がチック症の理論的構造として全く正常な普通の健康な構造を期待するのであるなら、それはひとつの病気の構造ということにはならない。また、Kurikiメソッドにおけるチック症の構造は人間精神一般を記述しているものではなく、チック症を治すためだけのひとつの表現にすぎない。読者が今読んでいるのは「チック症を治す方法」である。
肩にするか、眼にするか、咳にするかなどが選択肢となるための条件、チックの動作形態の任意的選択(合理化)の容易さ。
(1) リビドーが知っている運動単位であること。
ボディビルディングをする人ならば全身の筋肉を知っているであろうが、一般的には独立した緊張収縮として身体が知っている筋肉は限られているはずである。
(2) 偽りの動機は、意識的な行為の無意識内任意選択(合理化)に先立つ。
超自我に正当とみなされ得る偽りの動機がひとつ以上あること。
「なぜなら、可動性を確認するためである」
「最後の一回」
このような偽りの動機はどの随意筋にも使える。
(3) チック症の《強迫性筋肉内感覚》の目的は意識の対象となることであるから、その筋肉はテーブルの塩入れを取るといったような実用性はない意識対象であること。意識の合理性とチックの動作形態の非合理性の間の衝突が抑圧の手段になる。意識がチックの動作形態の非合理性に同意するようではチックにならない。たとえば、朝、会った人に「おはよう」と言うのは汚言症にはなりえない。(診断上の意味ではなく、チックの動作の形成の条件としてである。)
チックの動作の分類は不必要であり、分類が不必要であるということを知ることがとても大切。また、チック症における偽りの動機の各々の内容は重要ではなく、チックの動作の合理化(任意選択)には何らかの偽りの動機が既に伴っているという構造の認識が重要である。偽りの動機はチックの動作の付随物であり、強制の力はない。
偽りの動機は個人的な問題であるので、ひとりひとり違う。
咳のチック症の《強迫性筋肉内感覚》は咳の運動単位の筋肉群に現れる。
「喉の中の異物の感覚があり、咳が必要だ」
音声チックは声のチックではなく、声帯の筋肉の中の《強迫性筋肉内感覚》であり、運動チックである。
「声は誰をも身体的に傷つけない」
「犬や鳥は、いつも鳴いている」
「咳払いの一種である」
「単語ではないので、喋っているのではない」
「汚言症ではない」
「今、考えていることに、その通りだと思うアイヅチである」
「いやな事を思い出した」
「これはチックではない」
「声が出るかどうかの確認だ」
など。
健康なまばたきは正常な小さな運動であるから、まばたきチックの超自我による正当化は極めて容易。
「目が疲れたので、まばたきが必要だ」
「これは健康なまばたきである」
眉のチックは額の《強迫性筋肉内感覚》であり、眉毛を動かしているのではない。
「これは表情だ」
肩のチックは首の関節のチックと同じ偽りの動機が可能である。
「関節が正しく組み合わされていない」

汚言症 (コプロラリア)
チック症の《強迫性筋肉内感覚》が単語の発音の精神的運動単位の筋肉に現れる。単語はチックの動作形態として正確に決定されている。汚言症の卑猥語や罵倒語は幼児語であり、意識の大きな対象となる。汚言症の単語は、辞書に卑猥語、罵倒語の代表として載っているとてもありふれた単語であり、大人のノノシリとは違う。使ってはいけませんよと幼稚園で教わる単語。語義は無視される。幼児語の幼児性は悪意がないので超自我の検閲を通過する。赤ちゃんや動物や物の真似は超自我の検閲を容易に通過する。5歳以下の子供になって超自我を通過するのはリビドーの作戦であり、大人の性的な行動にも適用される。偽りの動機は、幼児の単語を発音するという動作の偽りの動機である。外の世界に対する攻撃的動機がないからこそ汚言症は可能となる。汚言症は抑圧の道具であるから、精神的トラウマの内容とは無関係。
「ワルギはない」
「ワルギがあったらしないのだが」
悔いれば悔いるほど「ワルギはないのだ」という正当性が増す。ツバをかけるチックの偽りの動機としても可能。