薬を使わないトゥレット症候群(チック症)と強迫性障害の治療 §12

Kurikiメソッド(the first edition in 2007)はトゥレット症候群(チック症)および強迫性障害を薬を使わずに治すことを目的とした理論である。この理論はこれらの病気の構造についての推論と解釈に基づいている。精神分析医を読者と想定して書かれており、一般の読者には難解であり、誤読の危険性がある。したがって、Kurikiメソッドは患者が最寄りの精神分析医により治療を受けること、患者とKurikiメソッドの間には常に精神分析医が存在することを前提とする。感情的カタルシスの爆発は強い影響を伴うため、一週間に一度、三秒間のみの実施であり、そのペースを超えた場合は過失による一種の事故である。そのような事故による一時的な精神的沈下は感情的カタルシスに関し未熟な精神分析医の責任とする。また、論理的思考力に乏しい患者には、頭の中でのトラウマ・イメージの加害者と現実世界での人物との錯覚的混同による暴力的復讐感情に関して精神分析医による個人的な説明が不足してはならない。

 

薬を使わないトゥレット症候群(チック症)と強迫性障害の治療
§12

 

精神的運動単位

N.B.
このセクションでの運動とは運動チックの動作 (音声チックも含める) および汚言症での発音を問題とする。強迫性障害や Body-focused repetitive behavior (Trichotillomania, Onychophagia, Dermatillomania, etc.) などの「行為」については別のセクションでの説明となる。

また、このセクションでの精神的運動単位は、解剖学での運動単位 (ひとつのニューロンによる複数の筋繊維の支配) とは定義が異なる。たとえば、挙手をするための筋肉群は、三角筋とは単射的には対応しない。チック症はひとつの随意筋の存在を強迫観念とした神経症であるが、そのようなひとつの随意筋は解剖学的な見地でのひとつの随意筋であるとは限らない。

随意運動の 99% は意識されずになされている。さらに、ひとつの意識的な随意運動の場合でも、使う数個の筋肉のひとつひとつをどのように動かすかは意識されない。たとえば、階段を下りるとき、足の数個の筋肉のそれぞれの動きは直接的には意識の対象とはならない。さもないと、とても階段は降りていられない。字を書く場合も、書くという動作が意識的なのであり、数個の随意筋のそれぞれの動きは直接的には意識にはない。首のチックがある人でも、首の筋肉の複雑な構成を正確に知っている人は少ないはずである。チックの動作は筋肉を標的とする動作であるが、その筋肉は解剖学的に分割されたひとつの筋肉ではなく、感覚の局部的な位置としての筋肉であることが多いはずである。「ひとつの随意筋へのひとつの随意運動」という考えをより正確に定義する必要があるといえる。

チックの動作の随意運動は筋肉の中の不快感覚の排除のための筋肉の随意的な収縮であり、関節部分の筋肉の運動にもアンタゴニスト(拮抗筋)の動きは伴わない。意識は随意筋の収縮によって運動をスタートさせ、その同じ筋肉を瞬間的に硬直させることによってストップさせる。すなわち、チックの動作は正確な動作形態により随意筋を硬くする随意的な動作である。腹筋、鼻の筋肉、額の筋肉など、関節を伴わない随意筋の運動と、首や肩など、関節を伴う随意筋の運動は、アンタゴニスト(拮抗筋)の働きが伴わないという意味では同じである。

リビドーは解剖学を知らないので、ひとつの随意運動の随意筋群がリビドーにとっての随意筋の単位となる。リビドーとは神経症的な無意識の中の身体のことであり、快感原則を持つ。筋肉が意識されるような動作は、リビドーにとっての運動単位の随意筋群の局所化、局部化の基準となる。ひとつの運動単位の筋肉の存在としてすでに局所化、局部化されている随意筋肉群にチック症の《強迫性筋肉内感覚》が現れる。チックの動作が随意運動であることから、チック症の《強迫性筋肉内感覚》の現れる随意筋は解剖学的に細かく分けられて名称の付いた単位としてのひとつの筋肉ではなく、ひとつの随意運動に対応する複数の随意筋のまとまりである。鼻のチックなど、身体の左右対称軸上のチック症の《強迫性筋肉内感覚》は左の随意筋、右の随意筋に分かれることなく現れる。ジストニアや痙攣とは異なり、チックの動作はひとつの筋肉の不随意運動ではない。チックの動作は、ひとつの随意運動でまとめられた一単位での複数の随意筋によって限定される。随意筋の一単位によって限定されたチックの動作がチック症の《強迫性筋肉内感覚》に対応する。限定されている速さを別の速さで代理させることは勿論できない。なぜ汚言症 (コプロラリア) や人にツバをかけるチックのように、たくさんの筋肉を使うチックの動作が可能であるかの答えは、リビドーは解剖学を知らないからということである。リビドーにとってのひとつの筋肉は、たくさんの解剖学的筋肉でありえる。

感情のかたまりは意識の遮断により保存される。感情的カタルシスのみが治療となる。馬鹿々々しい強迫観念 (obsession) が意識の前景を支配する。
身体的な強迫観念の機能は、3 つのカテゴリーの身体的感覚を抑圧である。
– 原始的抑圧感覚、§26; 性器的、自慰的感覚の抑圧(すなわち、下着の中の性器の感覚の抑圧)。
– 不定的抑圧感覚、§27; 疲労、痛みなどの一般的な不快感の抑圧。
– 再帰的抑圧感覚、§28; 強迫性筋肉内感覚それ自体の抑圧。

汚言症におけるチック症の《強迫性筋肉内感覚》は、ひとつの単語を発音する随意筋群を一単位として現れる。汚言症の横隔膜から唇までの多くの筋肉もリビドーにとっては決して複雑ではない。「xxxx」という語の発音はオウムでもできるひとつの極めて容易な随意運動である。横隔膜にはチック症の《強迫性筋肉内感覚》は現れないが、横隔膜は上気道の筋肉に《強迫性筋肉内感覚》が現れるチックの動作にしばしば使われる。横隔膜のみによるチックの動作は存在しない。

これはジストニアが不随意であるという事実とも一貫性がある。チック症の《強迫性筋肉内感覚》が筋肉収縮のない筋肉収縮感であるのに対し、ジストニアは不随意な筋肉収縮である。ジストニアの筋肉収縮は精神的運動単位とは無関係に現れる。