『失われた時を求めて』を読んでみる

マルセル・プルースト
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マルセル・プルーストの年譜
1871年7月10日 オトゥイユでマルセル・プルーストは生まれる。父親はフランス人で医大の教授であるアドリヤン・プルースト、母親はユダヤ人のジャンヌ・ヴェイユ。
1873年 弟のロベール・プルースト誕生。プルースト一家はパリ中心部のマルゼルブ通りに引越す。
1878年 毎年、夏のバカンスはパリの南西90kmにある村イリエで過ごすようになる。
1881年 最初の喘息の発作。
1882年 リセ・フォンタン(現在のリセ・コンドルセ)に入学。
1886年 フェリクス・フォールの娘、アントワネット・フォールの作ったアンケート遊びに答えたものが残っている。この夏でイリエでのバカンスは最後となる。
1888年 教師アルフォンス・ダルリュのクラスで哲学を学ぶ。リセ・コンドルセの友達と出版した「緑誌」と「リラ誌」に著作を載せる。
1889年 バカロレア。オルレアンの軍隊に入隊。
1892年 友達たちと「饗宴」誌を発刊。文学評論を載せる。アントワネット・フォールの二回目のアンケートに答える。
1893年 法学士号。「饗宴」誌の廃刊。「白誌」に多くの著作を載せる。ロベール・ド・モンテスキュー(シャルリュスのモデル)と知り合いになる。友人ウィリー・ヒース死去。
1894年 レイナルド・アーン(アルフォンス・ドーデの次男)と知り合う。ドレフュス事件が始まる。
1895年 文学士号。マザリーヌ図書館の無給司書になる。『ジャン・サントゥイユ』を書き始める。
1896年 『楽しみと日々』がカルマン=レヴィ社から出版される。
1897年 ジャン・ロランと決闘。『アルフォンス・ドーデへの告別』をラ・プレスに載せる。
1898年 ドレフュス事件に関係してのエミール・ゾラの裁判を傍聴。
1900年 『ジャン・サントゥイユ』の執筆を止める。イギリスの思想家ジョン・ラスキン(1819 – 1900)の研究を始める。
1902年 フェルメールの『デルフトの眺望」を見る。
1903年 父親アドリヤン・プルースト死去。ル・フィガロ紙でサロンについての欄を書き始める。
1904年 ジョン・ラスキンの『アミヤンの聖書』の翻訳を文芸誌メルキュール・ド・フランスに載せる。イギリスの芸術に関する評論をいくつか出版。
1905年 母親ジャンヌ・ヴェイユ死去。ブローニュ・シュール・セーヌのサナトリウムに入院。
1906年 ジョン・ラスキンの『胡麻と百合』の翻訳をメルキュール・ド・フランスに載せる。ヴェルサイユに滞在。オスマン大通りに引越す。
1907年 ル・フィガロ紙に度々記事を書く。この年からは毎年、夏には必ずカブールを訪れる。
1908年 ル・フィガロ紙に様々な作家の文体を真似て『ルモワーヌ事件』を載せる。のちに弟により『サント・ブーヴに反論する』と題されて出版されるノートを書き始める。これは『失われた時を求めて』の書き始めとも言えるであろう。
1909年 メルキュール・ド・フランス誌が『サント・ブーヴに反論する』の出版を拒否。
1911年 『失われた時を求めて』の前半のタイプでの清書ができる。
1912年 様々な出版社で『失われた時を求めて』の出版が拒否される。
1913年 グラッセ社で『失われた時を求めて』のプルーストの自費出版。運転手兼秘書のアルフレッド・アゴスチネリが逃走。
1914年 アルフレッド・アゴスチネリ死去。第一次世界大戦が始まったが、プルーストは兵役を免除される。セレスト・アルバレがプルーストの家政婦として住み込みを始める。カブールで夏を過ごすのはこの年が最後となる。
1916年 『失われた時を求めて』の出版はガリマール社からとなる。 グラッセ社は既に活字が組んであった第二冊目の『花咲く乙女たちのかげに』の出版すらしなかった。
1919年 アムラン通りに引越し。『失われた時を求めて』の再版。『花咲く乙女たちのかげに』が出版され、ゴングール賞を受賞。『模作と雑録』の出版。
1920年 『フローベールの文体について』が La NRF より出版。『ゲルマントのほう I』の出版。
1921年 『ゲルマントのほう II』および『ソドムとゴモラ I』の出版。La NRFより『ボードレールについて』が出版。
1922年 『ソドムとゴモラ II』出版。11月18日の午後4時過ぎ、マルセル・プルースト死去。享年51歳。
1923年 『囚われの女』および『消え去ったアルベルチーヌ』出版。
1927年 『見出された時』出版。
1954年 『サント・ブーヴに反論する』出版。

架空の村コンブレー
1971年4月8日、プルースト生誕100年記念の名目で、小説『失われた時を求めて』の第1篇『スワン家のほうへ』の舞台となる架空の村コンブレーにかこつけ、内務大臣がレイモン・マルセランであった頃、イリエの村長は村の観光を盛り上げるためか、村名をイリエ・コンブレーに変更した。小説のコンブレーがパリ近郊にあり、馬車で容易に行き来できる村であるのに対し、イリエはパリから南西の方向に 100km ほども離れたところにある。すなわち、イリエ・コンブレーをプルーストが小説の中でコンブレーと呼んだのではない。コンブレーと名付けられた村はプルーストのまったくの創作であり、プルーストの死後、五十年ほど後にイリエ村の村長がコンブレーの名をイリエにくっつけたのである。
イリエ村にはマルセル・プルーストの父親の姉エリザベート・プルーストの家があり、マルセル・プルーストは子供の頃に四回、あるいは五回、夏のバカンスをそこで過ごしている。その家は小説の中ではプルーストの母方の叔母さん、架空の人物、レオニー叔母さんの家となっている。この父方の叔母さんのエリザベートの家をイリエの村長は《レオニー叔母さんの家》《プルースト博物館》として観光の名所にし、プルーストの遺品の数々をパリから運び込んだ。イリエの《レオニー叔母さんの家》は、父方の子孫、実業家のフェリクス・アミヨとジェルメン・アミヨの尽力によって観光のために作ったもの。プルーストの箪笥などの大きな家具は依然としてパリのカルナバレ博物館に陳列されている。小説のコンブレーのレオニー叔母さんの家は大きく、ニ棟になっているが、イリエの《レオニー叔母さんの家》は二階建ての小さな一軒屋である。小説の中ではパリのシテ島に住むスワンが頻繁に夕食に来ているのであるが、その舞台をパリから 100km も離れたイリエのエリザベートの家に当てはめることはできない。古い家ならば、暖炉があり、ベッドがあり、階段があるのが普通であり、それらのひとつひとつをこれがプルーストの暖炉、これがプルーストのベッド、これがプルーストの階段などとする必要はない。教会も、村ならば、どこの村にも小さな教会がひとつ、同じようなものが建っている。文学研究としての作家自身の事実的背景の調査が文学的世界における作品の空想的解釈と文芸的鑑賞の妨げとならぬよう、注意すべきである。また、逆に、小説に書かれた「語り手」の人物像を実際の作家自身のほうに重ねるのも誤りである。プルースト自身がどのような子供であったかを小説の中に探し、プルーストのエディプス・コンプレックスが未解決の状態であったなどとするのは高倉健をヤクザだと思うに等しい。
勿論、フィクション小説といえども、登場人物、設定、出来事には作家の実生活からのイメージが空想の素材となって然るべきでもある。「ホラ吹き男爵の冒険」でも、素材は作者の身のまわりにあったのではないだろうか。プルーストには自伝的作品を書く意図がなかったことは、彼の死後に机の引き出しに発見され、『サント=ブーヴに反論する』と題されて出版された文学評論の一冊のノートからも明らかである。
そのノートには、子供の頃、夏のバカンスを父親の田舎であるイリエ村で過ごした時に父方のお祖父さんが硬いパンに紅茶を浸してくれたこと、そして、その情景がプルーストが大人になってから、冬、パリに雪が降り、凍えて帰宅した夜に老いた女中さん、セレスト・アルバレがめずらしく紅茶を勧め、トーストを添えて出してくれたときに突然思い出されて感動したことが記されている。プルーストは、それを甘いマドレーヌとチザンと母方の老叔母さんで脚色して小説の一場面とした。
架空の村コンブレーはパリ近郊なので夏は夜の十時ぐらいまで外はずっと明るいはずである。現在、毎年、カンヌ映画祭の後、五月末に開かれるテニスの全仏オープン、ローラン・ギャロスの頃は夜の九時を過ぎてもまだ青空で、ライトなしでテニスの試合をする。ところが、小説の中では、夕食前、皆は暑いので庭に出ているのであるが、蚊が来ないように庭の明かりは灯さずにいると、来客のための門の鈴がなり、暗闇の中からスワンの姿が浮かび上がる場面がある。そこまで暗くなるためには十時を過ぎなければならない。
コンブレーの頃は語り手は幼児であり、ママがおやすみのキスをしに自分の部屋に上がって来るとか来ないとかが大問題となるのであるが、同時に家族やスワンの大人の会話、サン・シモンの著作についての意見などがユダヤ人社会の微妙な人間関係とともに思い出されるのである。
馬車の中での高級売春婦の女性とスワンとの会話が、同乗していたわけでもない語り手に思い出されるのである。
実際に犯罪を犯した人の告白の本、社会的な成功者の書いた俺さまの自伝の数々は既に少なからず世に出ているので、小説『失われた時を求めて』を私小説的とか自伝的などと考える必要はない。『失われた時を求めて』において架空の人物「私」が直接的に見たもの、彼が直接的に知りえた事柄のみで表現している箇所は僅かである。イリエ村の教会の写真を見て、これが「語り手」が描写した教会の実際の外見かと思うのは誤りであり、作者自身はそのようなことを読者に要求してはいない。勿論、文芸が、一般において、そもそも読者が作者と同じ国に住んでいることを前提としているのは事実ではあり、フランス国内の村の教会はどれも同じようなものであるのだが。

テレビドラマ「おしん」は、その全体の設定が年老いた主人公の回想になっている。が、奉公を許したのは若奥様ということにしておくと話し合う大人たちの場面がある。その場にいなかった主人公には回想されるはずもない。

マルセル・プルーストの母親、ジャンヌ=クレマンス=ベイユは、ユダヤ系の金持ちの娘であった。母方の叔父はアパートをいくつも所有していて、そのうちで当時はまだパリ市には含まれていなかったオートゥイユのアパートでマルセル・プルーストは生まれた。プルーストの家族は彼が二歳のときにパリの中心部にあるマルゼルブ通りに引っ越した。叔父はオートゥイユにアパートのほかに別荘も持っていて、プルーストの家族は夏はその別荘で過ごした。小説のなかのコンブレーの家はオートゥイユの別荘とイリエ村のエリザベートの家をプルーストの空想の中で足して二で割ったようなものである。
プルーストの父親は有名な医者。国立医学アカデミーに属し、大学教授で、ペスト、黄熱病、アジア・コレラに対する公衆衛生論の業績によりレジオン・ドヌール勲章が授与されている。プルーストの父親は、フロイトがパリにいた時期にノイローゼの身体的症状について説いていたことでも有名なジャン=マルタン・シャルコーとも親しかった。(ちなみに、シャルコーは解剖学的な神経学の大先生であり、神経学的な病気の専門家として国からお金をもらっていたのであるが、ノイローゼによる身体的症状は精神的な原因によるものであるから自分には治せないのだ、だから自分はヤブ医者ではないのだとの講義を頻繁にしていた。)

プルーストの文体の魅力
プルーストの文体は極めて簡潔であり、飾り気がない。セミコロンが頻繁に打たれおり、ピリオドからピリオドまでをセンテンスとして数えるならば長文が多いとも言える。セミコロンのない長文も、実質的には短文が関係代名詞などに続く関係節として並んでいるのであり、フランス人がフランス語で短文を並べてゆくならば、自然にそのような形での長文となる。フランス語の構造がそもそも長文になってしまう傾向にあるので、通常、意識的に努めて短い文で書いてゆくことが良い文章の作法とされている。小学校の理科で乾電池や豆電球などの直列や並列の接続を習うが、日本語の長文を接続詞による句の直列とすれば、フランス語の長文は関係詞による短文の並列である。プルーストは立体的な大構造の文を組み立てていたのではなく、フランス人がフランス語で考えるまま、短文を並べていたのである。したがって、プルーストの文を日本語に訳す場合には短文を順番通りに並べればそれでよい。その際、関係代名詞の代わりとして、その関係代名詞の先行詞を繰り返したり、省略することとなるはずである。また、表現においては、プルーストの作風では、できるだけ読者にとって読みやすい表現であることが優先されている。ことわざの半分だけなどの特別な言い回しの知識のない子供にも容易に読めるような字面である。では、なぜこのように長く連なる文章が構造的にも正確に緻密に書かれているのかといえば、それは彼がフランス人であるからだ。フランス人が心に浮かぶままの文を書くならば、正しいフランス語になるのは当たり前。フランス人の書いたフランス語の文章の正確さを日本人が感心する必要はない。プルーストは両親が金持ちであったので、両親の家に独身で住み続け、働いて生活費を稼ぐことが生涯なかったのであるが、彼のそのような気楽な生活がにじみ出ている文章、暇にあふれた生活の中での文章である。苦しみの中で綴られた、暗い、せっぱ詰まった文章では決してない。情景の記述が読み手に素直に伝わることが重要であり、文章の飾った言い回しに美しさを求めるようなことはなかったようだ。
留意すべき点として、『失われた時を求めて』は大長編小説であり、とくに最後の三冊などは作者の死後に出版されており、作品全体の筋に対して細部に見られる矛盾、文脈上の不明瞭さ、文法的な誤り、段落の順序などが、出版の際、あるいは改訂版の出版の際に他者により修正されている箇所が少なからずあるそうだ。したがって大量の紙片に書かれた、ごちゃごちゃの断片を箪笥の引き出しから一枚々々読むつもりで味わうのもまた楽しいかと思われる。たとえば、コンブレーの家のことを大叔母さんの家と言ったり、レオニー叔母さんの家と言ったり、(母方の)お祖父さん、お婆さんの家と言ったりしても、もちろん同じ家のことであり、フィクションなので、きっちりとは統一がなされていない部分もあると充分承知の上で読むということである。各冊の最後には編集者による50ページほど注釈の部分が付いている。さてこの段落はどこに挟もうか、捨てるわけにもいかないしと編集者が迷うことも少なくなかったようだ。段落に順番のない小説である。

小説のタイトル『失われた時を求めて』について
文学史において、フランス語の形容詞 perdu は génération perdue という語で、「おじゃんになった」foutu, fichu という意味で使われている。楽しいはずの人生、期待に胸ふくらむ若者の人生観が、ヘミングウェイの世代においては戦争を経験することにより腰くだけとなり、朝から酒をちびちび飲んでいるような、だらしのないものになってしまった。たとえて言えば、100メートル競争で、最初の20メートルほどのところで転倒したとしよう。起き上がったときには他の走者は既に遥か前方を走っており、もう勝負はついている。純真な小学生ならば、それでもまだ歯を食いしばり頑張って力一杯走るのかもしれないのだが、大人ならば「やーめた」と棄権こそせずとも、気は弛む。最初の20メートルの地点で既に負けている100メートル競争を苦笑いしながらゴールまで走る。転んで、起き上がったときには既にワクワク気分は終わっている。若い世代でありながら、戦場に赴き、大勢の人間どうしで殺し合い、手足を失うような負傷もし、祖国に帰り、ガックリと落ち込んだ世代。ヘミングウェイの小説で、戦場で負傷し、性器を失ってパリに戻ってきた若い男の話があった。日本では、失われた世代、迷える世代と訳されているが、どちらも意味をなさない誤訳である。ヘミングウェイの perdu は、若さが台無しになってしまった世代、もっと正確に言うならば、《若さ》という意味での《世代》が既に台無しになってしまっているのである。人生が台無しになってしまった若者たちの属する世代ではなく、《俺たちの世代》と誇らしげに呼ばれるべきものが既に台無しにされてしまったような人生をこれから歩んでいかなくてはならない若者たちのひとりひとりのことなのである。金魚すくいの薄い紙が水に浸けたとたんに既に破れてしまったならば C’est déjà perdu である。破れてドロドロになった膜がぶら下がった金魚すくいの輪を持って、これをどう楽しめというのか、とただ呆然と立っている少年の雰囲気である。
→ Ernest Hemingway, A Moveable Feast を読みたい人は、こちら。

一方、プルーストの perdu は意味が大きく異なる。プルーストの perdu は、子供の頃の情景が記憶の奥底に迷い込んでしまっており、何かの拍子に特別なトリガーに遭遇しないかぎり意識に浮かび上がることがないというもの。どこかに迷い込んでしまっているのは、幼い自分の意識であるところの「私」、その時にその場に流れていた時間である。recherche は、たとえば警察などによる捜索のような意であり、行方不明の迷子を捜索するような意味で使われる語である。前置詞 à の前は、ここでは être であり、Je suis à la recherche de… ということである。『サント=ブーヴに反論する』の最初の部分の記述にあるように、懐かしい情景の《あのときの時間》が物体の中に封じ込められており、何かの拍子にその物体に遭遇し、突如、その懐かしい情景の、あの時の世界が意識に現れて心が温まり、感動する。長い間、記憶の底に迷い込んでいた《あの時の私の意識としての、あの時の時間》、遠い懐かしい《あの時の自分》が、子供の細い手足の軽さの体感とともに、偶然に遭遇した物体から現在の自分の意識の中に解き放たれる。単に情景を映像的に、ことがらとしてのみ思い出すのではなく、記憶の底に迷い込んでしまっていた《あの時の時間》が実質的な身体的感覚、匂い、味、光、温度、痛み、疲労、音など、過去のその時、その場の臨場感とともに蘇った瞬間の感動。自分の脳は、その光景を何とこのような細部まで憶えていたのかという驚愕。その捜索である。

ウィリー・アシェスという人が作った『失われた時を求めて』の筋の年表がある。こういう年表を見るとコンブレーであまりモタモタしていられなくなる。
1879 語り手の両親の結婚。オデットがスワンの愛人になる。『スワン家のほうへ』
1880 サンテュヴェルト夫人の夜会。語り手の誕生。ジルベルトの誕生。
1895 暖かい季節には語り手はシャンゼリゼ通りでジルベルトとバールをして遊ぶ。
1896 語り手はしばしばスワン家の人たちとパリ市内をぶらつく。動物順化園でナポレオン一世の姪、マチルド妃と出会う。
1897 初めてバルベックで過ごす。(この年から五年間、ドレイフュス事件が続く。)
1898 語り手がヴィパリジ夫人の家を訪問する。お婆さんの死。ゲルマント侯爵夫人邸での夕食。1900 二回目のバルベック。
1901 バルベックの近く、ラ・ラスペリエールでのヴェルドュラン夫人の夜会。モレルに会えたシャルリュスと語り手との会話。春、アルベルチーヌがいなくなる。
1902 ヴェニスで過ごす。1903 サン・ルー夫人の誕生。
1909 ロシア・バレー団
1914 第一次世界大戦。戦争になってから初めて語り手はパリに戻る。
1916 二回目にパリに戻る。
1919 ゲルマント妃邸での朝食会。もう一人のゲルマント妃の夜会から、ちょうど二十年目であった。

『楽しみと日々』
プルーストの十四歳の頃からの書き物がキャルマン・レヴィーから1896年に出版されたもの。この題名は、ヘーシオドスの「仕事と日々」 ἔργα καὶ ἡμέραι のパロディー。当時とても人気のあった画家、マドレーヌ・ルメールによる挿絵も多く、豪華な製本であり、高価であったため、あまり売れなかったらしい。

『ジャン・サントゥイユ』
1895年、24歳のプルーストが、こっそりと書き始めてみた小説の断片。未完。プルーストの死後、30年ほど経ってから山高帽をしまう箱の中から発見され、ベルナール・ドゥ・ファロワによって出版される。原稿は無秩序なバラバラの断片の束であり、《ジャン・サントゥイユ》という題名も出版社が適当に考えて付けたもの。話の筋も、あってないようなものであり、場面の場所や登場人物の名前も辻褄が合っていない。主人公の名前すら、ページによって少々違っている。プルーストが真面目にストーリーを積み上げていったものではない。主人公のジャン・サントゥイユの物語を語り手「私」「C…」 が語っていく。『失われた時を求めて』に見られるネタであるところの、母親がキスをしに来てくれない、シャンゼリゼ通りで少女と遊ぶ場面、ドレフュス事件などがここでも使われている。

イリエの家のビデオ


Marcel Proust (1871-1922)
A la recherche du temps perdu
I. Du côté de chez Swann
A MONSIEUR GASTON CALMETTE
Comme un temoignage de profonde et affectueuse reconnaissance.
Premiere partie
COMBRAY
I

マルセル・プルースト
『失われた時を求めて』
スワン家の方へ、
第一部、
コンブレー

1913年の1月、プルーストは彼の小説を二冊に分かれた形で書こうとしていた。
一冊目のタイトルが『失われた時』 Le Temps Perdu、
二冊目が『見出された時』 Le Temps Retrouvé、
小説全体のタイトルが『心の間歇』 Les intermittences du cœur であった。
5月になって三冊にすることに決め、
一冊名のタイトルが『スワン家のほうへ』 Du côté de chez Swann、
二冊目が『ゲルマントのほう』 Le côté de Guermantes、
三冊目が『見出された時』 Le Temps Retrouvé、
小説全体のタイトルが『失われた時を求めて』 A la recherche du temps perdu となったのだそうだ。
|| Gaston Calmette フィガロ紙の編集長。この小説は書き始めの頃、フィガロ紙に少しずつ掲載されていたらしい。

Longtemps, je me suis couché de bonne heure.

|| 小説などの冒頭の文のことを l’incipit と呼ぶ。|| 《語り手の現在》。プルーストがペンを手にして原稿を書いているとき、書斎の机で書いているのか、サロンのテーブルに数枚の紙をばらばらと広げて書いているのか、一日のうちの何時頃に書いているのか、などという作者の作業が問題なのではない。問題は、このフィクション小説の内側での語り手「私」の現在である。文に述べられている行為が今日だけに限られた行為であるか、それとも毎日の習慣的行為であるかの区別は副詞によってなされる。ここではひとつだけ、ぽつんと置かれた「長い間」という簡素な副詞が毎日の習慣であることを示している。
こんなふうに、暗くなればさっさと寝てしまうようになってから、かれこれ百年になるかなあ。
動詞の現在形で je me couche とすると、パジャマに着替え、歯磨きをし、ベッドの毛布をめくって横になる動作になってしまうので不可。この文は語り手が既にベッドにぬくぬくと横になっている現在の状態の記述である。フランス語の初心者のなかには、この文の複合過去を過去の話と勘違いする人が稀にいるかもしれない。形容詞「だるさを感じる」を使った次の二つの文で、時の副詞句によって今日だけに限られた状態と毎日の習慣となっている状態とが区別されるところを見る。
Ce matin, je suis fatigué. 
今朝のみの問題であり、かつ、語り手の現在は、いまだに午前中である。語り手の現在が同じ日の午後になっているのならば動詞は半過去となる。
Tous les matins, je suis fatigué. 
時の副詞句が毎日の繰り返し、習慣を示している。そして語り手の現在のほうが毎日の朝の時間帯、語られている現在のほうに位置する。午後というものが文の概念にない。動詞の時の用法として、習慣的行為を表す直説法現在である。過去の習慣が直説法半過去になることと対応し、「水はH2Oである」など、常なる概念を表す直説法現在とは意味的に異なる。ただし、常なる概念も、それが従属節で語られている場合には、主節が過去ならば従属節は直説法半過去になるというフランス語の面白い時制の照応には注意が必要である。「当時、マゼランが地球を一周できたのも、地球が丸かったからだ」と直説法半過去で言っても、それは最近の地球は平らになっている意味ではない。
この小説の冒頭の文では、直説法複合過去により、早い時刻に床につくことが毎日の習慣となっていること、そして語り手の現在がベッドに横になっている状態であること、トイレに行きたけれぱ行き、またベッドに戻って横になるような状態であることが示されている。なぜならば、もしも語り手の現在が午前中でもありえるのならば
Longtemps, je me couche de bonne heure.
と直説法現在で書かれるはずであるからである。冒頭の文での語り手の現在がどうしてもベッドの中でなくてはならないがために直説法複合過去が使われているのであり、したがって、これに続く文章は、現在の頭のなかに思い出されることがらの記述として半過去が使われるのである。|| 舞台設定。この冒頭の一行により、語り手の現在の頭の中、枕の上の頭の中が小説『失われた時を求めて』の舞台となる。語り手の現在は外的な社会の時間から切り離されており、読者は現実世界から開放され、小説の世界に飛び込ませてもらえる。まことに有難いことである。今日の現実社会だけが、あなたの世界じゃないでしょ。ベッドに横になった状態で、語り手の思考が始まるという設定。ベッドに上向きに寝て、左手でノートを持ち、右手のペンで字を書くのは腕が疲れるし、ペンもペン先が上になるので書けなくなってしまう。翌朝、思い出しながら机で書き物をするということではなく、そもそもこれはフィクションであり、語り手自身がフィクションの中の登場人物である。フィクション性を知って知らないふりをすることは作者と読者の馴れ合いへの読者側の積極性に依っている。|| 日本の詩歌でもそうであるように、詩的な表現に使われている単語が、文そのものの概念から独立しているときがある。「月草に衣は摺らむ朝露に濡れての後はうつろひぬとも」などの類。あるいは、単語のほうが作者の創作作業に先立っており、その単語を使いたかったから一つの作品を創作してしまったというような場合もあるはずである。季語の五月雨《さみだれ》という粋な単語を使いたく、それが使えるような情景を空想するなど。たとえば、寺田寅彦の『青衣童女像』は最後の一行の表現をしたいばかりに書いたエッセイに違いない。サルヴァトール・アダモのヒット曲「雪が降る」Tombe la neige は「お墓」la tombe という語が心中の潜在的なイメージとなる。プルーストは、ここで bonne heure と bonheur を重ねている。se coucher avec bonheur という《心地よい幸せな気持ち》、そして longtemps 《いつまでも、ずっと、永遠に》ぬくぬくとベッドに深々と身を沈ませ、あゝ、らくちん、らくちん、頭の中で自分の文学的世界を自由に漂うという意味を、文そのものの概念とは別に、独立した意味での単語において表現している。詩歌の常套手段である。éternité と bonheur を直接には書かず、longtemps と bonne heure という語でそれらを詩的に響かせる意図で書かれた一行であることは明白である。「早い時刻に既に」de bonne heure という語の響きによって表現されている語り手の満足感 avec bonheur である。プルーストは『スワン家の方へ』の最初の部分と『失われた時を求めて』の最終章『見出された時』の最後の部分を同時に書いたとどこかで語っている。これをもってしても、冒頭の副詞 Longtemps が単独の単語として、文脈から独立して、二重、三重の意味をもっているであろうことが窺い知れる。永遠とも言えるような、悲しみの要素も勿論含んでいる、ゆったりとした雰囲気の漂う冒頭の一行を詩的に味わうとともに、作品の読まれる際のアンダンテのテンポも示されている。これが語り手の舞台設定のすべて。語り手の現在は過去と未来に挟まれた今この時としての現在であると同時に外の社会の時間を無視した、独立した永遠とも言えるような現在であり、個人の小さな至福がそこにある。

Parfois, à peine ma bougie éteinte, mes yeux se fermaient si vite que je n’avais pas le temps de me dire: «Je m’endors.» Et, une demi-heure après, la pensée qu’il était temps de chercher le sommeil m’éveillait; je voulais poser le volume que je croyais avoir encore dans les mains et souffler ma lumière; je n’avais pas cessé en dormant de faire des réflexions sur ce que je venais de lire, mais ces réflexions avaient pris un tour un peu particulier; il me semblait que j’étais moi-même ce dont parlait l’ouvrage: une église, un quatuor, la rivalité de François Ier et de Charles-Quint.

|| プルーストの文芸の世界には未来に向かっての投企はない。文芸的な思考は過去の回想であり、したがって半過去が時制の中心となる。半過去により頭の中の世界は外的な現在の束縛から開放され、純粋に過去の世界となり、そしてそれを楽しむ。一般に誰かの現実逃避の態度が批判される際、しばしば頭を砂の中に突っ込んだダチョウが引き合いに出される。作家プルーストの実生活での気弱な人間、うじうじした人間の印象が一般に固定化されている。ある映画にジャクリーヌ・ビセットが、あなたはプルーストみたいだとキャンディス・バーゲンを喧嘩腰で批判するシーンがあった。実際のプルーストは、まったく異なるタイプの人間だったのかもしれないが。|| 時況節 à peine…では、しばしば助動詞 être が省略される。ここでは属詞が女性形になっているので、うっかりすると過去分詞的な形容詞が受動的に見えてしまうかもしれないが、ロウソクの火は語り手が消したのではなく、小さかったロウソクがひとりでに燃え尽きて消えたのである。ma bougie était éteinte はロウソクが消えてしまっている状態を表す。もしも語り手がロウソクを消したのならば、よし、そろそろ寝るぞと思って消したはずであり、寝ようと思うすきもなくということと完全に矛盾してしまう。自分で消していないからこそ、次の文中で、明かりを吹き消さなくてはいけないという考えで目が覚めると続く。 || プルーストの好きな si…que という言い方が早速使われている。
|| 「時間がある」というときの temps の冠詞の用法。
・J’ai du temps. / Je n’ai pas de temps. バカンス中などで時間が余っている場合、暇であるという意味で部分冠詞が付く。忙しくて、他のことのために割く時間が絶対的にない場合は de 。ベッドで横になって昔を回想している人が忙しくて暇がないとは言わない。
・J’ai du temps pour faire qqch. / Je n’ai pas de temps pour faire qqch. 前置詞 pour では何のための時間であるかの限定が弱いようであり、部分冠詞であり、否定文においては冠詞なし。
・J’ai le temps de faire qqch. / Je n’ai pas le temps de faire qqch. 通常 ne pas avoir に続く名詞が de とともに用途で限定されている場合は定冠詞となる。否定においても、何々をする時間がないというかたちで限定され、定冠詞が付く。
|| 代名動詞 se dire は様々な意味をもちえる。ここの文の和訳の場合は、自分に言うのではなく、単に「・・・と思う」と訳されなくてはならないのだが、逆に、この直接話法で書かれた部分は次に続く文にある chercher le sommeil につながっているので、まるで台詞のような、意図的な不自然さによる面白さが和訳にも必要となるとも言える。|| 目が覚めた時は半過去、睡眠中に頭の中にあったことがらは大過去で書かれる。|| chercher le sommeil まだ眠くはないのだが、そろそろ寝なくてはならない時間なので、眠ろうと努力すること。不眠症の人は眠ろうとして薬を服用したりもする。|| en dormant ここでは夢という語の使用は故意に避けられ、夢とは正反対の意味をもつ考察 réflexions という語が用いられている。夢という語が使われるのは、しばらく後になる。意地悪なおじいさんに髪の毛を切られたら困るという恐怖の段落、そしてアダムとイブの段落。夢は目が覚める瞬間に蓋が閉じられ、目覚めた意識にはその内容は思い出すことができない。ここで語り手が読者に提案している回想の楽しみは充分に意識が伴うものであり、睡眠中の夢とはまったく異なる。小説の舞台がこのような回想の形式に設定されているのであるが、完全な睡眠中ではこのような回想は不可能であり、以下『失われた時を求めて』に書かれた回想は夢を記述したものではない。ベッドで中途半端に眠りながらの文学的な回想という設定は、浦島太郎が喋る亀の背に乗って海中に潜っていく設定と同じほどの作りごとである。プルースト自身もそのような朦朧とした意識の持ち主ではなかったはずだ。この設定は、むしろジークムント・フロイトが患者を横にならせて精神分析を進めた様子に近いものをプルーストはもくろんでいたのであろう。|| rivalité entre qqn. et qqn. のほうが言い方としては一般的。François Mignet (1796-1884)の著作に多分その本と思われるものがあるそうだ。二冊に分かれている。[ archive 1 ] . . . . . . . [ archive 2 ] || un peu particulier 自分が、本の中で記述されていたもの、物体や音楽や抽象概念、たとえば自分が教会の建物であったり、自分が四重奏、通常、四重奏と言えば弦楽四重奏の四人組、あるいは弦楽四重奏の楽曲、あるいは音として聞く弦楽四重奏の音楽のことであるが、自分がひとつの四重奏であったり、自分が二人の人間のライバル状態であったりするというのが文意だ。教会のイメージを見るだけではなく、自分が教会自体になることすらも可能であるような無制限な世界。パリの町の教会の壁の内側になり、薄暗い空間で祈る人々を見おろしているか、それとも田舎の広大な小麦畑の真ん中に建てられた教会となり、青空の下、風に吹かれながらカラスたちを地平線に見送っているか。あるいは、弦楽器の四声の音になり、サロンに聴きに来ている人々の座っている間をすり抜け、彼らの耳のかたわらをゆっくりと撫でるように流れ、口を開けたまま居眠りをしている人の顔を眺めたりする。感動している人は目に涙を浮かべて感謝とともに音楽である私に微笑みかけるのか。あるいは、私は «ライバル意識»それ自体となり、偉そうな服を着て立っている二人の人物の間に自分も立って、どちらの顔のほうを見ても怖い目で睨まれる。

Cette croyance survivait pendant quelques secondes à mon réveil; elle ne choquait pas ma raison, mais pesait comme des écailles sur mes yeux et les empêchait de se rendre compte que le bougeoir n’était pas allumé. Puis elle commençait à me devenir inintelligible, comme après la métempsycose les pensées d’une existence antérieure; le sujet du livre se détachait de moi, j’étais libre de m’y appliquer ou non; aussitôt je recouvrais la vue et j’étais bien étonné de trouver autour de moi une obscurité, douce et reposante pour mes yeux, mais peut-être plus encore pour mon esprit, à qui elle apparaissait comme une chose sans cause, incompréhensible, comme une chose vraiment obscure.

|| ここに使われている語は、新約聖書の使徒行録の第9章、サウロの改心のくだりによるものである。サウロとはパウロの前の名前。キリストが触れることにより、サウロの目を覆っていた他の宗教への信心 croyance がまるでウロコが剥がれるように落ち、盲目の暗闇からやっと抜け出ることができたのであるが、プルーストのほうは逆に寝ている間に見たイメージへの思い込み croyance がウロコのように目を覆い、周囲の暗さに気づかせず、そして、しばらくしてから周囲が真っ暗であることに気づく。
新約聖書使徒行録の第9章・サウロの改心
「サウロの改心」にある文 Il lui tomba des yeux comme des écailles. で、この動詞 tomber は常に自動詞であるが、この il は非人称の主語ではない。聖書のこの文を書き直すと次のようになる。(Son égotisme) est tombé des yeux de Saul comme des écailles.
|| les pensées 魂や霊ではなく、前世の意識内での精神活動の内容。|| 他動詞 recouvrer と recouvrir の一人称単数半過去はどちらも je recouvrais であるが、ここでは文脈より視力の回復。|| プルーストの文章は話の進み方がとても速く、しばしば気づかぬうちに前の部分がすでにすっかり終わっている。ここの文章でも、不注意に普通のスピードで読んでいると、語り手は単にウトウトとして、ぼけているだけのようにも読めてしまうのだが、実はそうではない。深い位置での精神の活発さと表面にある意識のぼけた様子の対比。これから寝るぞと思うすきもなく寝入ってしまう。三十分後に徐々に目が覚める。その三十分の間、精神はあれやこれやで大忙しだったのだ。広大で複雑な回想の世界を無制限に飛び回り、数多くの鮮明なイメージを見て、精神はそれらを深いところでさまざまに意味づけ、構造的な処理の作業をしていたのだ。今、いったん目が覚めて、部屋の暗闇に徐々に立ち戻り、意識は部屋の暗闇の中に現われ出で、精神は一休みする。黒一色で何の概念も持ち得ない単なる暗闇は深い精神にとっては「たぶん」 peut-être 休憩なのだろうと目覚めた表面的な意識は推測する。寝ている間の精神の世界での数々のイメージの意味の深さ、鮮明さ、組み合わせに較べると、目覚めたときの意識にとっての部屋の暗闇は単なる無意味な黒色でしかない。部屋の暗闇を得体の知れない神秘的な深淵として解釈してしまうと誤り。小学生用の折り紙のセットから黒い折り紙を一枚取り出して机の上に置いた感じだ。何の構造も、何の意味的価値も持たない、単なる黒い物。目覚めた意識は部屋の暗闇を精神にとっての一時休憩場として認識する。通常、我々は電気をパチンと消して、暗闇の中で、さあ、楽しい夢を見ようと思って寝るが、ここでの語り手は逆。いつの間にか始まった夢の活動、そして暗闇への方向で目が覚め、そこに目が覚めた状態がむしろ精神にとっての休息なのだ。

Je me demandais quelle heure il pouvait être; j’entendais le sifflement des trains qui, plus ou moins éloigné, comme le chant d’un oiseau dans une forêt, relevant les distances, me décrivait l’étendue de la campagne déserte où le voyageur se hâte vers la station prochaine; et le petit chemin qu’il suit va être gravé dans son souvenir par l’excitation qu’il doit à des lieux nouveaux, à des actes inaccoutumés, à la causerie récente et aux adieux sous la lampe étrangère qui le suivent encore dans le silence de la nuit, à la douceur prochaine du retour.

|| 目が覚めた状態で、次の連想がすぐに始まる。今度は、はっきりした意識での空想であり、夢の内容ではない。|| sifflement des trains 数両の車両をひとつながりにした列車の一本を un train と呼ぶ。ひとつひとつの車両は voiture 。列車が複数で書かれているが、この場面のイメージとは無関係であり、フランス語では汽車の汽笛のことを口笛などから区別して常にそのように言う。ここのイメージでの列車は一本のみが一回だけ汽笛を鳴らしながら遠くを通過したもの。関係代名詞 qui の先行詞は sifflement であり、éloigné は単数になっている。|| le sifflement この冠詞の部分は文脈上の意味においては単数の不定冠詞 un であるが、文法的に定冠詞が付いている。すなわち、 de + des (不定冠詞複数)で des trains となり、限定されているので不定冠詞を sifflement の前に付けることはできないのだ。le nom d’un homme のような形。しかし、意味的にはこれは、ポーッという、一回の汽笛の音。また、le chant も de + un (不定冠詞単数)で限定されているので不定冠詞を付けることはできない。こちらは一声だけというわけにはいかないが、一羽の鳥が寂しそうに鳴いている声のひとまとまりが意味的にはひとつと数えられる。|| plus ou moins éloigné この文脈では 1km 程度という意味であり、近かったり遠かったりという意味ではない。|| distances 複数の場合は、二点間の長さではなく、一点の周囲の空間に360度広がる距離、むしろ土地全体の平面図に広がる大きな円の面積のイメージである。|| 旅人に定冠詞が使われている。話に初めて登場した人物には不定冠詞を使うべきではないのかと思う読者も多いはずである。壁に一枚の荒れた田舎の風景画が掛かっているとすれば、その絵そのものは不定冠詞が付く。そこに中心的題材として描かれた一人の旅人、道を急ぐ一人の旅人はすでにその絵によって限定されていると考えるならば定冠詞となる。ひとつの背景によって既に限定されている旅人。たとえば富嶽三十六景の甲州石班澤という「一枚の」版画の「その」漁師には定冠詞が付いてもよい。 勿論、不定冠詞でも可; où il y avait un voyageur qui se hâtait || se hâte 主節の半過去に従い、旅人の動詞には半過去などが使われるべきところを、ここでは現在時制が使われ、セミコロンで次に続く文でも動詞は現在時制になっている。|| la station prochaine 距離的に近くにある駅、遠くの駅との比較において近い駅という意味であり、次の駅のことではない。ちなみに、この形容詞を最上級であることを強調して使うときは、la station la plus proche と言う。また、すでに電車に乗ってしまっている場合には、次の駅という意味で la prochaine station と言う。|| qu’il suit 余計な心配かもしれないが、suivre le chemin という固定された表現があるので、朗読の場合でも聴いている人には qui le suit と聞こえる心配はない。|| コンピューターで CD にデータを書き込むことを英語では焼く burn data to CD という動詞で表現するが、フランス語では彫り込むという動詞 graver を使っている。コンピューターの用語は新しい表現であるため、言い方は定まっておらず、目的語は un CD de données であったり、des données sur un CD / sur CD であったりする。野原の道のイメージが旅人の記憶に刻まれつつある時点が今、語り手に想起される。旅の記述が具体的な内容なく、順序通りの数行で終わる。|| 形容詞 étrange ならば「風変わり」などの意味だが、形容詞 étranger は「外国の」を意味する。|| 時間的にいよいよ近づくことにも同じ形容詞 prochain が使われる。映画館に行くと、映画が始まる前の別の映画の宣伝「近日上映迫る、乞うご期待」が Prochainement dans votre salle ! などとスクリーン上に斜めに大きく出る。|| retour は家に着いた状態の「やっと家に帰った」ではなく、ここでは家に帰るという行為とその時間、歩いて田舎の駅に着き、夜汽車に無事に乗車し、座席に着いてほっとひと安心するときの気持ち。「さあ、これから帰るぞ」が retour である。

J’appuyais tendrement mes joues contre les belles joues de l’oreiller qui, pleines et fraîches, sont comme les joues de notre enfance. Je frottais une allumette pour regarder ma montre. Bientôt minuit. C’est l’instant où le malade qui a été obligé de partir en voyage et a dû coucher dans un hôtel inconnu, réveillé par une crise, se réjouit en apercevant sous la porte une raie de jour. Quel bonheur! c’est déjà le matin! Dans un moment les domestiques seront levés, il pourra sonner, on viendra lui porter secours. L’espérance d’être soulagé lui donne du courage pour souffrir. Justement il a cru entendre des pas; les pas se rapprochent, puis s’éloignent. Et la raie de jour qui était sous sa porte a disparu. C’est minuit; on vient d’éteindre le gaz; le dernier domestique est parti et il faudra rester toute la nuit à souffrir sans remède.

|| 枕の表面を特に頬と呼ぶようなフランス語はなく、単にプルーストの勝手に思いついた隠喩である。自分の顔の頬とともに複数になっているが、うつ伏せになっていない限り、同時に両頬を枕の左右の膨らんだ表面への接触は不可能であるのだが、ここでは頬も二つ、枕の左右の膨らんだ表面も二つあるので複数になっている。「子供時代」の前に所有形容詞で「我々の」と付けるのはフランス語の口調では自然であり、大人から見た昔、子供の頃の期間としての意味が明らかとなる。日本語訳の場合に、いかにも所有形容詞として、日本語として不自然に「我々の」と付けるならば、むしろ誤りとなる。もしも定冠詞にしてしまうと、期間としての意が弱くなり、子供時代それ自体の頬といったような意味不明な表現ともなる。|| ここでもう一回、語り手の意識はベッドに戻っている。そして時刻を見ると即座に次の連想が続く。|| minuit は副詞ではなく、男性名詞であり、副詞 bientôt は、ここには書かれていない être を修飾する。前の文に続くとすれば半過去で Il était であり、次の文に続ける場合には現在時制の空想で Il est となるはずのものであるが、プルーストは時制の衝突を避け、誤魔化して省略している。まもなく深夜零時。|| une crise 作品中の架空の登場人物は作家自身からは独立しているのだが、プルーストは喘息に悩まされていたようなので、喘息の発作と想像するのが妥当。しかし、無名のプルーストがこの文章を書いていた頃は読者がこれだけで喘息の発作のことであると思うことは到底期待できないので、何の発作なのか知られず、曖昧すぎる。|| lui porter secours 薬を与えるだけではなく、もっとドタバタして介抱すること。|| le gaz これを気体のガスを燃料とした照明器具を思い浮かべると誤り。仕組みとしてはキャンプのテントなどに吊るす石油ランプと同じで、灯油を燃料とし、それに浸してある芯に炎が燃えるものを当時はギャーズと呼んでいたのだそうだ。昔、パリの街路の「ガス灯」と呼ばれていたものも仕組みは石油ランプだった。|| いずれにせよ、ホテルの人が足音を立てながら廊下の明かりを消しに来ているのであるから、ドアを開けて廊下に出て、「あの、ちょっとすみません。営業時間終了かもしれませんが、実は発作で死にそうなんです」と言ってその人を呼び止めることができるではないか。その人を呼び止めないのならば時刻が何時でも同じだとも思われるのだが、ここでは「ああ、行ってしまった」で終わっている。

Je me rendormais, et parfois je n’avais plus que de courts réveils d’un instant, le temps d’entendre les craquements organiques des boiseries, d’ouvrir les yeux pour fixer le kaléidoscope de l’obscurité, de goûter grâce à une lueur momentanée de conscience le sommeil où étaient plongés les meubles, la chambre, le tout dont je n’étais qu’une petite partie et à l’insensibilité duquel je retournais vite m’unir.

|| le temps は réveils の同格語であり、前にコンマが付いているので定冠詞 le はたとえ限定されていても文法的には必要ない。この故意に書かれた定冠詞 le により、読む際にトンという音が直接続くことが避けられ、一音節の語 temps が強調される。|| organique 生体のような、生き物のような || boiseries 戸や窓枠など、家のなかの木製の物 || fixer は万華鏡の回転をとめるという意味。暗闇は目を開けたときに見えるものであるから、暗闇の万華鏡の回転を止めるために目を開けるということではない。ここでは暗闇の万華鏡の回転を止めようとして、暗い部屋の中をじっと見つめる、目を凝らすという意味。|| conscience 意識には通常、定冠詞が付くが、微かな光に不定冠詞を付けて、光学的、物理的な光ではないことのために「意識の」という語で前置詞 de とともに修飾しているので無冠詞となる。たしかに、眠気は目が覚めているときに味わうものだ。|| 動詞 plonger は、自動詞ならば何かが水に潜ること、他動詞ならば何かを水に沈ませておくことであるが、ここでは他動詞であり、複数の受動態になっている。次に挙げられているものが眠りの中に沈まされていたのである。受動態の動作主は書かれていない。周囲に存在する物、「私」も含めてすべてが眠りの世界に吸い込まれ、そして目覚めとともに渦を巻きながら、もとの暗闇のなかに戻る。|| retournais vite m’unir のように身体位置の移動に関し pour などの前置詞をはさまずに移動の目的が不定詞でそのまま移動の動詞に続くことがしばしばある。aller chercher qqn., venir manger chez qqn. など。スペイン語やポルトガル語では前置詞なしで動詞が並ぶことが簡潔で美しいと感じられるようで、しばしば動詞と続く不定詞の間に de や a は置かれない。(英語にも go get something などがあるが、これは and の省略と見ることができる。ちなみに、go get は、主語が三人称単数であったり、過去であったりしたときに二つ目の動詞も同様に変化させる人と不定詞のままで言う人がいるようだ。)

Ou bien en dormant j’avais rejoint sans effort un âge à jamais révolu de ma vie primitive, retrouvé telle de mes terreurs enfantines comme celle que mon grand-oncle me tirât par mes boucles et qu’avait dissipée le jour — date pour moi d’une ère nouvelle — où on les avait coupées. J’avais oublié cet événement pendant mon sommeil, j’en retrouvais le souvenir aussitôt que j’avais réussi à m’éveiller pour échapper aux mains de mon grand-oncle, mais par mesure de précaution j’entourais complètement ma tête de mon oreiller avant de retourner dans le monde des rêves.

|| à jamais révolu とっくの昔に終わって、もう二度と帰ることのない。révolu は過去分詞からの形容詞であるが、もとの動詞はラテン語の revolvere レウオルウエレ。ぐるりと回ってもとの位置に戻るという意味で、惑星や年月がぐるりと回って振り出しに戻った、一回転が完了したという意味から、ひとつの期間が完全に終了したという意味になるようだ。一年ならば、一年が完全に終わって、元旦に「戻った」という言い方だ。気取った形容詞なので、日常会話では使われない。|| telle de この tel (telle) は文法的に難解かもしれないが、avoir une de ces faims などの un(e) と同じであると私は思う。気持ちを伴った不定代名詞。このような使い方での tel は非常にめずらしく、日常会話では絶対に使われない。|| il tirât 接続法半過去なので、年寄りの叔父が髪の毛を引っ張ったことは実際は一度もなかったのであり、そうされはしないかという子供っぽい不安のこと。おじいさんが髪の毛を引っ張ったことを思い出した、引っ張ろうとしたことを思い出したなどと読むと誤読となる。|| date この語は前の le jour の同格語であり、したがって冠詞は付かない。新時代を画する。|| cet événement 髪を切ったこと。眠っている間は髪の毛が既に切られていたことを忘れていた。おじいさんから逃れるために、からくも目を覚ますことができたときは、髪が短いことを直ちに思い出してほっとする。日常会話において、しまった、うっかり忘れていたことに今、気づいたという場合には、現在の会話でも大過去で ”J’avais oublié” と言うので、過去の話の文脈の中で「忘れていた」と言う場合には大大過去になりそうであるが、フランス語には大大過去なるものは存在しない。|| par mesure de précaution は par mesure de sécurité とともに日常会話でも頻繁に使われる言い回し。|| 動詞 entourer の手段には必ず de 何々を使う。avec は間違い。|| プルーストは、ここでやっと夢という語を用いた。意識内に回想される過去のイメージ、はっきりと意識的に想像したイメージ、睡眠中の夢のイメージが区別されずにフィクション小説の文章のなかで自由に錯綜する。夢と回想の区別がないことも留意すべきかもしれない。

Quelquefois, comme Ève naquit d’une côte d’Adam, une femme naissait pendant mon sommeil d’une fausse position de ma cuisse. Formée du plaisir que j’étais sur le point de goûter, je m’imaginais que c’était elle qui me l’offrait. Mon corps qui sentait dans le sien ma propre chaleur voulait s’y rejoindre, je m’éveillais. Le reste des humains m’apparaissait comme bien lointain auprès de cette femme que j’avais quittée, il y avait quelques moments à peine; ma joue était chaude encore de son baiser, mon corps courbaturé par le poids de sa taille. Si, comme il arrivait quelquefois, elle avait les traits d’une femme que j’avais connue dans la vie, j’allais me donner tout à ce but: la retrouver, comme ceux qui partent en voyage pour voir de leurs yeux une cité désirée et s’imaginent qu’on peut goûter dans une réalité le charme du songe. Peu à peu son souvenir s’évanouissait, j’avais oublié la fille de mon rêve.

|| fausse position 楽器を演奏していてところどころ音をはずした場合は J’ai fait quelques fausses notes と言うが、faux は偽造の、贋物のという意味のほかに、正しくない、決められた通りではないという意味でも使われる。注意すべきは、イヴもアダムの子宮から生まれたわけではないので、イヴも正しくは子宮から生まれるべきところを違う場所から生まれたと言っているのであり、アダムの肋骨を正しい場所と言っているのではないということだ。訳せば、アダムがイヴを肋骨という間違った場所から産んだように comme、私もひとりの女を大腿部という間違った場所から産んだという意味。勿論、そもそも男性が女性を出産することへの異常の意も含んでいる。position は endroit の意。|| フランス語の Adam はアドンのように発音される。|| je m’imaginais que ind. この再帰代名詞 me には意味がなく、j’imaginais que ind. とほぼ同じ意味と考えてよいのだが、je m’imaginais que には期待の気持ちが含まれる。|| taille には、ウエストという意味もあるが、イヴのイメージがあり、段落の最後には fille という語もあるので、お腹の周りの重さの下敷きになって自分の身体がガチガチになるというのも文脈にそぐわない。女性の全身の軽い重さと解すべきと思われる。しかし、私は若くてもウエストが太い女性は fille ではないと言っているのではない。|| 二つ以上の文を et を用いずに、コンマでつなげることができる。この部分では、それが多用されている。|| mon corps courbaturé 独立名詞節ではなく、ここでは était の繰り返しが避けられているだけである。|| traits 顔の容姿のことであるが、親子や兄弟姉妹が似ている場合、誰かを見ると他の誰かを連想するような場合などに、avoir les mêmes traits que と言う。|| ceux qui s’imaginent qu’on peut goûter… この on は広く人間一般を意味しており、on peut で可能性の有無を表現しているのであり、特に on がここで限定されている人々としての ceux qui をその代名詞として受けているわけではない。|| songe、夢のことであるが、とくに実現の可能性のまったくない、はかない夢のこと。 || son souvenir、名詞 souvenir の前に所有形容詞がある場合は、その所有形容詞は記憶の内容の人や物を意味する。「あなたのインド旅行の思い出を話して下さい」と言おうとして、 “Racontez-moi votre souvenir de l’Inde” と言ったら間違い。正しくは、”Racontez-moi le souvenir de l’Inde que vous avez.” 誰かに関して私がもっている思い出は、son souvenir que j’ai。これを mon souvenir de lui とすると間違いで、逆に彼がもっているところの私に関する思い出という意味になってしまう。

Un homme qui dort tient en cercle autour de lui le fil des heures, l’ordre des années et des mondes. Il les consulte d’instinct en s’éveillant, et y lit en une seconde le point de la terre qu’il occupe, le temps qui s’est écoulé jusqu’à son réveil; mais leurs rangs peuvent se mêler, se rompre.

|| 現在時制の文になる。|| この un homme には文意では女性も含まれるので、人間と訳したいところだが、この部分には何やらラテン語で書かれた古い書物のような雰囲気があり、男性優位のなかでの文章表現とみるならば、日本語訳には男と訳すのが好ましいような気もする。しかし、男と訳すと、それならば女はどうなのだということにもなりかねない。子供の場合も含まれるのかというようなことを云々すべきところではない。|| le fil、とても細い糸。しかし、フランス語では連続するもののつながり、流れというような意味でしばしば使われ、この文では l’ordre という抽象的な語と組みになっているので、物としての糸という本来的な意味よりも抽象的なイメージがあるのだが、抽象的な概念でとらえると文芸としての面白味が削がれるので、やはり糸として読むべきものとも思われ、さらに秩序、あるいは順序といった抽象的な語にも具象的なイメージを与えるに至っているとも言える。|| les mondes と複数になっているが、すぐ後に le point de la terre という語があるので、地球上の大きな区分としての地域、アフリカ、アジア、南アメリカなどの地域や国という意味。文脈上、目が覚めたときにおける自分の時空的位置の認識を述べているので、この語は地球上の位置を意味すると考えればよい。プルーストは、家の中の位置ではなく、世界地図上の位置というイメージをもつものとして、この語を使っている。|| 24 時間や地球上の地域を環状にすることはできるが、年代は一直線であるから輪になってもとに戻ることはないのだが、単なるイメージ的な表現なのであまり固いことは言わない。いずれにせよ、ひとつの秩序として年代と地域の属性をもっているのであり、年代の秩序と地域の秩序が別々に存在しているのではない。もしも別々であるのならば、l’ordre des années et celui des mondes あるいは les ordres des années et des mondes と書いたはずだ。つまり、環状の 24 時間の糸 fil が一本、そして年代と地域の秩序 ordre が環状に一本あるというふうに読む。|| d’instinct これは言い回しが固定されており、de l’instinct にはならない。|| leurs rangs peuvent se mêler, se rompre、一つの文で se が再帰的用法と相互的用法の両方に使われることはないであろうから、ここでは再帰的用法として読むのが妥当である。つまり、 se mêler は複数の糸が互いにごちゃごちゃになるのではなく、それぞれの糸が各々において、もつれたり切れたりすると言う意味。「糸がもつれる」と言うときの糸は、裁縫をしているときの一本の糸がもつれているのである。|| この辺の文章は、何やら十六世紀ごろのラテン語の文のもつ魅力的な「ぎこちなさ」があるように私には思える。話し言葉とは掛け離れた不自然な単語が不器用に並べられているところに妙に快さがある。プルーストが文章で表現した美しさは、けっして美文と呼ばれるような類のものではなく、素朴な短文が思いつくままに並べられていくなかで自然に生まれてくるものである。当然のこととして、文は長文になるのだが、読者にとって簡潔で読みやすい文にしたいというプルーストの配慮が窺われる。読みやすい文を書こうとする、考えるままに書こうとすると自然にピリオドまでが長くなるのである。

Que vers le matin, après quelque insomnie, le sommeil le prenne en train de lire, dans une posture trop différente de celle où il dort habituellement, il suffit de son bras soulevé pour arrêter et faire reculer le soleil, et à la première minute de son réveil, il ne saura plus l’heure, il estimera qu’il vient à peine de se coucher.

|| vers le matin 夜明けが近づいてはいるが、まだ暗い時刻 || Que le sommeil le prenne、この que は supposé que(+接続法)などの意。|| 授業中に手を上げる動作は lever la main である。soulever le bras は下に垂らした腕をまっすぐなまま、肩の筋肉で水平になるぐらいまで浮かせることを意味する。「まあ、待て、待て」と人を制する動作。|| faire reculer 自分のほうにゆっくり向かって来るものをあとずさりさせることであり、サーカスの猛獣使いが鞭でライオンをあとずさりさせるような意味。夜、あまり良くは眠れなかったようなときの明け方、椅子に座って本を読んでいるとやおら眠気が感じられてくる。そのようなときには地平線の下のあたりにいる、これから昇ろうとしている太陽に「今から一眠りするから、もうちょっと待ってくれ」と軽く合図をするだけで彼にとって朝はないものとなる。次に目が覚めたときには時間の感覚は、まるでトンチンカンになっている。

Que s’il s’assoupit dans une position encore plus déplacée et divergente, par exemple après dîner assis dans un fauteuil, alors le bouleversement sera complet dans les mondes désorbités, le fauteuil magique le fera voyager à toute vitesse dans le temps et dans l’espace, et au moment d’ouvrir les paupières, il se croira couché quelques mois plus tôt dans une autre contrée.

|| Que si… は Si… と同じであるが、もったいぶった言い方であり、日常会話では使われない。|| この position は自分がいる場所のことであり、encore plus déplacée は寝室ではなく、もっと別な場所という意味。この position déplacée という語を endroit déplacé に書き換えることはできない。自分がどこで寝るかをひとつの場所から別の場所に移すことはできるが、場所そのものを移動させることはできないからだ。たとえば、ひとりの野球選手の守備のポジションをライトからセンターに移すことはできるが、グラウンドのライトの地面をセンターに移動させるすることはできない。|| fauteuil 金持ちの家に置いてある肘掛け椅子は、安楽椅子と呼ばれるような、ふかふかのゆったりと大きなものではなく、とても軽く簡単で背筋も垂直になるような華奢なもの。坐る部分や背の部分の布には刺繍が施してある。脚は、ぐにゃぐにゃした模様が彫ってあり、曲線的。|| この文の趣旨は、違う場所で眠くなってしまうと、眠っている間に時空の感覚が狂うということであろうが、そういう人もいるのかもしれないが、そんな人はいないと言ってしまうこともできる。テレビもインターネットもラジオすらもなかった時代、夕食後、ひとりでただ椅子に座っている人も馬鹿みたいだ。冒頭の文も「かなり以前から、晩は早めに床についてしまうことにしている。テレビがないから起きていてもしょうがないからだ。アスピーだから人と話をするのは苦手だ」ということかもしれない。頭の中での回想、連想、空想は精神分析学的であるばかりか、ひとつの楽しみにもなりえる。プルーストが読者にこの小説の設定を正確に伝えようと努力している部分である。|| 不注意に読んでいると、目覚めたときに寝た場所とは違う場所で目が覚めたように思えるという意味に受け取ってしまうかもしれないが、 il se croira couché と書いてあるので、寝入った時点での時と場所について完全に誤った考えをもつと書いてある。il se croira réveillé とは、多少意味が異なる。たとえば、引っ越しの前に住んでいた家であり、窓の位置が違うなど。

Mais il suffisait que, dans mon lit même, mon sommeil fût profond et détendît entièrement mon esprit; alors celui-ci lâchait le plan du lieu où je m’étais endormi, et quand je m’éveillais au milieu de la nuit, comme j’ignorais où je me trouvais, je ne savais même pas au premier instant qui j’étais; j’avais seulement dans sa simplicité première le sentiment de l’existence comme il peut frémir au fond d’un animal; j’étais plus dénué que l’homme des cavernes; mais alors le souvenir — non encore du lieu où j’étais, mais de quelques-uns de ceux que j’avais habités et où j’aurais pu être — venait à moi comme un secours d’en haut pour me tirer du néant d’où je n’aurais pu sortir tout seul; je passais en une seconde par-dessus des siècles de civilisation, et l’image confusément entrevue de lampes à pétrole, puis de chemises à col rabattu, recomposaient peu à peu les traits originaux de mon moi.

|| détendre は自動詞にはならない。因みに、リラックスして下さいは Détendez-vous. となる。|| il suffit que(+接続法)。通常、後に pour… があって何々のためには何々で充分だという文になるのだが、ここにはそれがなく、代わりに alors… 「そうすれば」で始まる文が書かれている。|| celui-ci lâchait… この celui-ci は mon esprit のこと。|| le plan du lieu、 実際にいる場所の平面図、地図。因みに、パリのメトロの各駅の内部に掲示されているこの界隈の地図は le plan du quartie である。|| dans sa simplicité première、この所有形容詞 sa は後に続く du sentiment de l’existence の意であり、先行して置かれている。形容詞 premier は名詞の後に置かれて、ここでは、最も基礎的な、土台として必要となる一次的要素としての、といった意味。|| l’homme des cavernes、原始人、穴居人。|| non encore…mais 自分が今どこにいるのだろうかということの漠然とした思いが頭に浮かぶのだが、それは残念ながらまだ実際に現在時点で自分がいる場所の正しい把握にはなっておらず、以前住んでいた別の場所なのだ。|| le lieu où j’aurais pu être、 条件法過去は過去の反実仮想、もしかしたら、そこにいると思われることになっていたかもしれなかった場所。現在住んでいる場所が認識されていないことを前提として、もしもその後の引っ越しをしていなかったのならば、いまだに住んでいたであろう所。|| tirer du néant インターネットでこの熟語を検索すると、これをヒントとするクロスワードパズルの四文字、五文字などの文字数での解答例が沢山出てくる。どれもゼロの状態から何かを創造する、あるいは、隠されていたものを明るみに出す、という意味である。しかし、ここではそれらとは異なり、むしろ蜘蛛の糸のようなイメージで、虚空に落ちた自分を引っ張り上げて助けてくれるという意味。|| l’image de lampes à pétrole 石油ランプの光によって見えるひとつのイメージではなく、昔風の古臭い石油ランプ自体が見えているということ。|| chemises à col rabattu、十七世紀の貴族が着用していたもの。襟が肩まで広がっていた。|| 動詞 recomposaient は folio の1982年版p.14では半過去の三人称単数、1993年版p.6では複数になっている。単数ならば主語は l’image、複数ならば指示代名詞の省略を仮定して l’image … puis (celle) de … 。もしも複数で les images としてしまうと移り変わっていく様子が表現されないことを鑑みるならば、旧版のように動詞を単数のままにしておくほうが私には妥当と思われる。

Peut-être l’immobilité des choses autour de nous leur est-elle imposée par notre certitude que ce sont elles et non pas d’autres, par l’immobilité de notre pensée en face d’elles. Toujours est-il que, quand je me réveillais ainsi, mon esprit s’agitant pour chercher, sans y réussir, à savoir où j’étais, tout tournait autour de moi dans l’obscurité, les choses, les pays, les années.

|| 小説『失われた時を求めて』の設定が語り手の頭の中の世界を舞台とし、世界の中心であり、外界は本質的ではないことがここで表現されている。||朝、目が覚めたときに、むかし住んでいた家の部屋と何となく混同し、なかなか正解が得られないような瞬間。|| 書き言葉では peut-être という語の後は倒置される。倒置は主語が代名詞でない文では、主語名詞、動詞、ハイフン、代名詞、の順になる。|| 因みに、フランス人はめずらしい単語や人名のスペリングを言う épeler ときには、ハイフンは冠詞なしで tiret チレと呼び、trait d’union と呼ぶことは絶対にない。trait d’union は比喩的表現として、二者の親密な関係をつなぐ橋渡しという意味でのみ使われる。また、単語と単語の間の一文字ぶんの隙間は、plus loin と副詞的に言う。ここの冒頭の文の綴りを言うとすれば、p, e, u, t, tiret, e accent circonflexe (子供っぽく e accent chapeau と呼ぶこともある), t, r, e, plus loin, l, apostrophe, i, deux [リエゾン z] m, o, b, i, l, i, t, é, と読む。é は文を読むときのとおり「エ」と発音するか、あるいは e accent と言い、e accent aigu とまでは当たり前なので言わない。フランス人は電話などで自分の名前や住んでいる通りの名の綴りを言うときにはとても速いので、私は、まず聞こえる通りにカタカナで書いてしまい、即座に多分こう書くのだろうという綴りで書いてしまってから、Comment ça s’écit? と聞いて、相手のいう綴りを子音と母音を組にした音節の単位で聞いて「確かめる」ようにしている。相手が単語を発音した瞬間にどう書くのかと聞いてしまうと追いつかない。アルファべのひとつひとつを聞きながら書こうとすると絶対に追いつかない。|| en face de ここでは、話の内容が物の位置に関することであるからこのような言い方も面白いのだが、通常は vis-à-vis d’elles と言う。|| toujours est-il que(+直接法)。ひとまとまりで接続詞のように使われ、「しかしながら」「ところが」「にもかかわらず」という逆接のフレーズであり、「いつも」「常に」という意味ではない。続く補足節が過去の話であるときも無変化であり、Toujours était-il que などというフレーズは存在しない。|| mon esprit s’agitant pour chercher, sans y réussir, à savoir où j’étais, この独立分詞節は avec を付けて解釈できる。現在分詞の用法であり、ジェロンディフではない。à savoir は、chercher à savoir であり、「つまり」ではない。sans y réussir の人称代名詞 y は réussir à savoir où j’étais のこと。二つの動詞、chercher, réussir がともに前置詞 à を介して不定詞をとるので面白い文になる。勿論、語り手は目が覚めたときに自分がどこにいるのかが分からないのではなく、目覚めの瞬間、即座には精神は場所を認識できないという意味。|| tout tournait autour de moi、「トゥ」という音が三つ続く。この tout は不定代名詞であり、que に続く補足節の主語である。物、国、年は、代名詞 tout に意味的に含まれるが、同格語ではない。

Mon corps, trop engourdi pour remuer, cherchait, d’après la forme de sa fatigue, à repérer la position de ses membres pour en induire la direction du mur, la place des meubles, pour reconstruire et pour nommer la demeure où il se trouvait. Sa mémoire, la mémoire de ses côtes, de ses genoux, de ses épaules, lui présentait successivement plusieurs des chambres où il avait dormi, tandis qu’autour de lui les murs invisibles, changeant de place selon la forme de la pièce imaginée, tourbillonnaient dans les ténèbres. Et avant même que ma pensée, qui hésitait au seuil des temps et des formes, eût identifié le logis en rapprochant les circonstances, lui, — mon corps, — se rappelait pour chacun le genre du lit, la place des portes, la prise de jour des fenêtres, l’existence d’un couloir, avec la pensée que j’avais en m’y endormant et que je retrouvais au réveil.

|| Mon corps,… プルーストは、このように名詞を冒頭に置いて、それを代名詞などで受けながら文を続けるのが好きだ。文中の所有形容詞や代名詞が文頭の名詞を意味する。主語はあくまでも身体であるのが解釈のためにとても重要である。この他人事のような代名詞 il は身体 mon corps であり、これを「目覚めた男は」の意味で一般化して解釈すると誤読となる。所有形容詞も同様である。所有代名詞 mon は、「私の」という個人的な意味ではなく、名詞 corps に身体に、より具体性を与えるためのものであり、そもそも、その意味で corps には所有代名詞がつくことになっているとも言える。|| 目が覚める際、意識が部屋を認識するよりも遅く、身体が身体的記憶と身体感覚のみで徐々に現在の部屋に戻っていく。意識は現在の部屋をすでに認識していても、身体はまだどの部屋なのかがよく分かっていないのではないのかという状態だ。昔住んでいた家での自分のベッドと窓の関係などを身体的に思い出し、いや、あそこではないなどと身体は判断したりしている。|| d’après la forme de sa fatigue、これは、ベッドを新しいものと替えなくてはダメ。フランスでは、昔はベッドのマットの中身は綿か何かで、その厚いマットがグニャグニャになって、中央が凹んだりしていてもそのまま使ったりするので、寝ていると腰や背中が痛くなり、それでこのようなことを言うのだ。一日中、ごろごろしているから、目が覚めたときの身体部分の形は疲労の形に等しいのだ。|| nommer ここでは承認することであり、名前を付けることではない。|| changer de place、この動詞の主語は壁であり、壁が様々に動いて配置を変えること。|| avant que 接続法。|| 単数名詞 pensée は、もったいぶった言い方をすれば私という存在の意識のような意味であり、日本語の「考え」という語で安易に訳してしまうと、特に文末において、文の解釈ができなくなる。プルーストの文芸における回想は、その場面における自身の意識存在の重さ、「私という気持ちの存在」、つまり、「そのときの心というものの存在の回想」であるからだ。私の精神的存在としての意識といったような意味でこの平易な語が用いられている。この語は小説の冒頭のページにも同じ意味で使われていた。après la métempsycose les pensées d’une existence antérieure || les temps 複数で書いてあるので、時間ではなく、昔のあの頃、また別のあの頃といったような、自分の過去の様々な日々のこと。|| les formes 暗い空間としての部屋の内部にある物体の幾何学的な形。|| rapprocher は他動詞で、複数の物を互いに近づける、ここでは情報を集めて関係を組み立てるというような意味。|| lui se rappelait 動詞の主語が人称代名詞強勢形である。書きことばにおいてのみ、人称代名詞強勢形は三人称単数 lui と三人称複数 eux のみが主語として動詞をとることが許される。女性の強勢形は同形なので云々しようがない。|| pour chacun、この chacun は文に前出の複数の男性名詞を必要としているはずであるが、前には複数の男性名詞はない。les temps があるが、文脈の中で語として抽象的すぎる。plusieurs des chambres ならば pour chacune でなくてはならない。文脈から、chacun des loges と解釈するしかない。同文に使われている y も同様である。これは厳密な意味ではプルーストのミスとも言えるかもしれない。|| 意識が実際の部屋を正しく認識するのに手間取っているときに、身体は過去の様々な部屋のそれぞれを、その頃の意識とともに思い出しているのであろう。|| 意識といっても意識と無意識の対照ではなく、精神と身体の対照で語られている。

Mon côté ankylosé, cherchant à deviner son orientation, s’imaginait, par exemple, allongé face au mur dans un grand lit à baldaquin, et aussitôt je me disais: «Tiens, j’ai fini par m’endormir quoique maman ne soit pas venue me dire bonsoir», j’étais à la campagne chez mon grand-père, mort depuis bien des années; et mon corps, le côté sur lequel je reposais, gardiens fidèles d’un passé que mon esprit n’aurait jamais dû oublier, me rappelaient la flamme de la veilleuse de verre de Bohême, en forme d’urne, suspendue au plafond par des chaînettes, la cheminée en marbre de Sienne, dans ma chambre à coucher de Combray, chez mes grands-parents, en des jours lointains qu’en ce moment je me figurais actuels sans me les représenter exactement, et que je reverrais mieux tout à l’heure quand je serais tout à fait éveillé.

|| ここでの côté は身体の片側のこと。|| ankylosé 事実上、使われない語。なぜならば、誰でもすぐに悪い語が頭に浮かぶからである。それは enculer という語。|| この台詞は小さな子供の台詞としては文体が凝りすぎている。子供が本当にこのような言い回しを用いたとするならば、アスペルガーかもしれない。|| フィクションの小説をプルースト自身の生い立ちと重ねることには反対であるが、その場合には、お祖父さんの家とはオトゥーユの家に相当するのかもしれない。実際のオトゥーユの家はプルーストの母方の叔父さんの家である。|| コンブレーの家は架空の家、語り手の母方の祖父母がいるレオニー叔母さんの家である。||ここの文脈では、身体はいろいろな家のベッドを思い出しているということなので、二つの異なる家について書いているはずである。眠る前に母親が来てくれない云々は、どの家で寝るときでもそうだったようなので、前の文の母親が来てくれないという台詞をコンブレーとして読むと話が変になる。コンブレーの家での登場人物は、このページの下の方に載せた図のようなものであろうが、私が作った図なので間違っているかもしれない。|| et mon corps, le côté sur lequel je reposais、誤読せぬよう、注意が必要なフレーズだ。「私の身体」は、この文の中では独立した語として置かれており、二十行ほど前に文頭に置かれ、十行ほどまえにチレの間に書かれている、言わばリフレインのような語である。後に続く文の前で「私の身体」という名詞句は単独に置かれ、読者に喚起される。その後で、le côté から文が始まる。le côté の同格語 gardiens をあとに続く文の主語にするためにこのような語順になっているが、je を主語とした短いセンテンスに変えると次のようになる。Je reposais sur ce côté. 動詞 reposer 自動詞。関係代名詞 sur lequel は、sur ce côté である。sur le côté duquel で mon corps を先行詞とするのとは違う。|| gardiens fidèles d’un passé que mon esprit n’aurait jamais dû oublier, 関係代名詞 que の先行詞は un passé である。このように不定冠詞 un が付くと、ひとつの特別な思い出という意味になる。守護神は ange gardien だが、ここでは守護神ではなく、忠実な番人を意味する。冠詞をつけたくなるが、同格の名詞はコンマのあとで無冠詞。番人は le côté と同格なので単数にもしたくなるが、あとに続く文章の主語の番人のせっかくの面白いイメージが複数の主語と動詞の複数形でそのまま続くよう強調されている。番人を単数で書くと、読み手のイメージのなかでは動詞の主語が le côté に戻ってしまう可能性がある。下になっている側は、決して忘れることのない出来事を常に守っている番人である。忘れさせない番人であり、思い出させないための番人ではない。Cf., “Le rêve est le gardien du sommeil” (Sigmund Freud)

||”on n’aurait jamais dû+不定詞” は、(1)「何々すべきではなかったのに」という実際にしてしまったことへの後悔を表す場合が特に多い。そして、(2)本来ならば何々するということがないのが当然であるという意味と、(3)その派生として、珍事が実際に起こった驚きを表現する場合とがある。ここでは(2)の意味である。
(1) Même si on en avait eu envie, on n’aurait jamais dû caresser ce pitbull. しかし、撫でてしまったので、噛まれた。
(2) Même si on avait eu une amnésie, on n’aurait jamais dû oublier cet événement. もし仮に記憶喪失だったとしても、その出来事を忘れるということはないであろう。
(3) Même si on avait acheté mille bulletins, on n’aurait jamais dû toucher dix millions d’euros au loto. しかし、当たった。
|| en des jours lointains、この前置詞 en の使い方は、”en 2015″ などと同じではあるが、何となく違和感があるかもしれない。 || je reverrais mieux tout à l’heure quand je serais tout à fait éveillé. 過去における未来は接続法であるが、さらに、この場合はとくに物語的な未来の使い方である。フランス語では会話においてもしばしば未来が「可能」の意味で用いられる。可能を表す未来が過去の話において接続法で書かれている。「後で完全に目が覚めた時に、もっと鮮明に思い出すことができる」という可能の意味であり、実際に思い出すということではない。

Puis renaissait le souvenir d’une nouvelle attitude; le mur filait dans une autre direction: j’étais dans ma chambre chez Mme de Saint-Loup, à la campagne. Mon Dieu! Il est au moins dix heures, on doit avoir fini de dîner! J’aurai trop prolongé la sieste que je fais tous les soirs en rentrant de ma promenade avec Mme de Saint-Loup, avant d’endosser mon habit. Car bien des années ont passé depuis Combray, où, dans nos retours les plus tardifs, c’étaient les reflets rouges du couchant que je voyais sur le vitrage de ma fenêtre. C’est un autre genre de vie qu’on mène à Tansonville, chez Mme de Saint-Loup, un autre genre de plaisir que je trouve à ne sortir qu’à la nuit, à suivre au clair de lune ces chemins où je jouais jadis au soleil; et la chambre où je me serai endormi au lieu de m’habiller pour le dîner, de loin je l’aperçois, quand nous rentrons, traversée par les feux de la lampe, seul phare dans la nuit.

|| puis 通常、この接続詞のあとは書きことばでも倒置はないのであるが、ここでは倒置がなされている。|| attitude 普通の意味では態度、振る舞いであるが、ここでは文脈より寝ているときの姿勢の意味。私の使用している仏和辞典でも姿勢という訳語が態度よりも先に書かれている。現代のフランス語では姿勢の意味でこの語が使われることはない。ちなみに、態度という意味では、この語と comportement はほとんど同義であり、違いと言えば、私には前者は人間関係において内心に反する、かなり作為的な振る舞いであり、後者は礼儀を無視して内心を表してしまう、しばしば失礼な振る舞いのことではないかと思われる。|| 壁が定冠詞が付いた単数になっているので、コンブレーの部屋のベッドの横の壁であったものを意味する。filer は、ある程度のスピードで一直線に移動すること。|| コンブレーの近く、シャルル・スワンの館のあるトンソンヴィル村。これも架空の地名。小説の筋が進むとスワン家の娘はサン・ルー家の息子と結婚することになるらしい。1971年、プルースト生誕100年にかこつけて、観光を狙ったイリエ村の村長はフランス内務大臣のレイモン・マルスランの許しで村名をイリエ・コンブレーに変更し、ついでに勢いが余って、村の中の一本の通りに Rue de Tansonville という名も付けてしまった。もしも観光でイリエ・コンブレー村を訪れることがあったとして、トンソンヴィルという所を見つけて、「おお、ここがトンソンビルか」とうっかり喜んだら村長の思う壺だ。|| しつこく何度も述べるが、緯度が高いので夏は夜の九時頃でも青空であり、日が暮れ始めるのは夜の十時頃である。ここに述べられている夕暮れの美しい情景は季節による日没時間の違いを一切無視したフィクションなので、そのつもりで読まなくてはならない。|| すなわち、フィクションの小説の世界において、語り手はとても小さかったときにバカンスはパリ郊外のコンブレーで過ごし、その数年後にはバカンスは同じくパリ郊外のトンソンヴィル村で過ごしたということのようだ。コンブレーの家にいるときには、散歩は夕方、六時頃であり、夕焼けを眺めながら帰宅した。トンソンヴィル村のサン・ルー家で過ごしているときには、散歩は八時頃、暗くなってからであり、帰宅後にひと眠りしてから、きちんとした服に着替えて九時頃に夕食となったということのようだ。それが「しまった、寝過ごした」と叫んだ理由 Car…|| J’aurai trop prolongé la sieste この未来完了は、j’ai falli prolonger trop la sieste という意味のフレーズを反実未来にしたもの。もうちょっとですごく寝過ごしてしまうところだった。タイムマシンで過去に着いたら、ちょうど目が覚めた場面の子供の自分だったというような不如意な感じだ。シエスタは昼食後の昼寝であるが、時間的に随分ずれたシエスタである。これが適切な名詞といえるかどうかは、さだかではない。|| コンブレーでは、夕方の散歩から帰ってくるときに、外から自分の部屋を見ると窓ガラスに夕日が赤く反射していた。今、回想の中で、語り手はトンソンヴィルの少年になりきっているので現在時制で書かれ、時間的にさかのぼるコンブレーは半過去で書かれている。|| ここでの que は un autre に続く比較の接続詞の que ではなく、c’est に対応する que である。|| jadis 語尾のスを発音する。|| この seul phare は直前の la lampe の同格語であるのでコンマのあとで無冠詞である。feux 複数の場合は炎の意味はなく、光、明かりが照っている発光体という意味。phare は灯台。|| おそろしいテンポで画面が変わる話の展開だ。ひとつひとつのイメージが、ほとんど俳句の短さで書かれている。読者には知る由もない架空の地名や人名を無造作に並べるのは素人にはできない芸当であり、作品が長編になるかもしれない、後でこれらの固有名詞とともに話が展開するのであろうといった期待を読者に抱かせる。

Ces évocations tournoyantes et confuses ne duraient jamais que quelques secondes; souvent ma brève incertitude du lieu où je me trouvais ne distinguait pas mieux les unes des autres les diverses suppositions dont elle était faite, que nous n’isolons, en voyant un cheval courir, les positions successives que nous montre le kinétoscope. Mais j’avais revu tantôt l’une, tantôt l’autre, des chambres que j’avais habitées dans ma vie, et je finissais par me les rappeler toutes dans les longues rêveries qui suivaient mon réveil;

|| 馬が走っているように見える昔のオモチャのひとこまひとこま以上には、場所のひとつひとつは明瞭に独立しては頭に浮かばない。|| ある物の性質が抽象名詞で表されるとき、しばしば、その抽象名詞によってその物自体が指し示される場合がある。たとえば、事故で足にケガをしたとき、そのケガ自体を「事故」という名詞で指し示すことができる。冬になると三年前の事故が、まだときどきうずくんです。名詞 supposition には仮定、および推測の二つの意味がある。ところが、この文では、それらのどちらでもない。supposition = 寝室。すなわち推測の産物のことを言っているのである。また、動詞 distinguer の主語 incertitude du lieu ・・・は、「不確かさ」ではなく、「不確かな現在地」の意。曖昧な状態の現在地は、いい加減に推測された様々な寝室の寄せ集めであり、それら様々な寝室をはっきりとは区別していない。物を主語とした場合の distinguer の用法。例, La nature a distingué les différents êtres par des caractères particuliers. || pas mieux que 比較における不平等性が否定されている形では、比較節に虚辞の ne が入る。 || さて、一つのセンテンスとはピリオドからピリオドまでのことであると定義するならば、次に続くセンテンスは小説『失われた時を求めて』全体のうちで最も長いものとされるそうだ。本の一ページには収まらない。 “L’habitude!” の前までである。多くのセミコロンで区切られているので、センテンスが長いということには、さほどの意味はない。このようにピリオドの代わりにセミコロンを打っていくのならば、際限なく長くもなりえる。|| tantôt…tantôt… 私は音的にイタリア語の tanto…quanto… の量的な印象と混同してしまうのだが、ある時は何々だったり、またある時は何々だったりという時間的な意味をもつ。|| dans les longues rêveries シューマンのトロイメライはフランスでは通常 Rêverie と題されている。夢想を定冠詞付きの複数にし、目覚めに所有形容詞が付くのはフランス語独特の感覚として私にはもう一歩踏み込めないところだ。

chambres d’hiver où quand on est couché, on se blottit la tête dans un nid qu’on se tresse avec les choses les plus disparates: un coin de l’oreiller, le haut des couvertures, un bout de châle, le bord du lit, et un numéro des Débats roses, qu’on finit par cimenter ensemble selon la technique des oiseaux en s’y appuyant indéfiniment; où, par un temps glacial, le plaisir qu’on goûte est de se sentir séparé du dehors (comme l’hirondelle de mer qui a son nid au fond d’un souterrain dans la chaleur de la terre), et où, le feu étant entretenu toute la nuit dans la cheminée, on dort dans un grand manteau d’air chaud et fumeux, traversé des lueurs des tisons qui se rallument, sorte d’impalpable alcôve, de chaude caverne creusée au sein de la chambre même, zone ardente et mobile en ses contours thermiques, aérée de souffles qui nous rafraîchissent la figure et viennent des angles, des parties voisines de la fenêtre ou éloignées du foyer, et qui se sont refroidies;

|| où quand, この où と quand のあいだには、コンマは入らない。 || couverture 日本で言う毛布のこと。|| Journal des Débats という名の新聞で、紙の色がピンクだったそうだ。 numéro と、まるで月刊誌のような数え方がされている。普通、新聞は un exemplaire という語で数える。捨てずにとっておいたりする人はこのような数え方をするのかもしれない。|| indéfiniment 時間的に、ずっと押さえたままでいる。|| フランスでは、これを froid dehors, chaud dedans または、froid dehors, et chaud dedans と言う。昔、この文句で始まる歌があった。

この歌手の別れた二人目の夫は元サッカー選手のビシェンテ・リザラズ。叔母さんは女優の Marlène Jobert。このビデオのなかほどで雪の積もった坂道を手すりにつかまらずにスタスタと降りて行く場面があるが、ウソの雪とすぐに分かってしまう。本物の verglas 凍った地面は、とても危険だ。昔、私の住んでいたアパートの一つ上の階に住んでいた小説家のおじいさんは凍った道で滑って頭を打ち、五日後に死んだ。Emmanuel Roblès という名前で、ちょっと有名だった。エレベーターで一緒のときによく話をした。神戸の地震のとき、「私は前に神戸で講演をしたことがある」などと言うから、あなたは大学の先生ですかと聞くと、「作家だ」と言うので、変なことを言う人だと思っていたら、本物の作家だった。そのころはまだ小さかった私の娘にもやさしいおじいさんだった。死んだときには、テレビの夜のニュースのトップで顔写真が大写しになった。その後、遠藤周作の小説を読んでいたら、作家ロブレスの名前が出ているのを見つけて、これは上のおじいさんのことだと言って妻と喜んだ。ついでに、その私の住んでいたアパートの大家はフランソワ・モーリヤックの次女で、リュース・ル・レイという名のおばあさんだった。私にアパートを貸すと決めたときに家賃を安くしすぎて、その後15年間、彼女は我々が引っ越すまで、そのことを後悔しつづけた。|| コンマが多く使ってあるが、que や qui などの関係代名詞が控えめなところがいかにも言葉が並べられている感じで美しい。部屋の空間の中で、暖かい空気の部分が温度差で形を変えながら漂って浮いている状態が書かれている。|| le feu étant entretenu 動名詞の主語が主節の主語と異なる場合、このように動名詞の前に動詞の主語が置かれる。|| manteau 暖炉の前の部分。凱旋門のような形でサンタクロースが出入りする部分。暖炉の火が一晩中燃えているので、自分が寝ている所が暖炉のマントルピースの中であるかのように思えてくる。|| en ses contours thermiques 前置詞の使い方は、各動詞のひとつひとつに関し個々に憶えるものであり、規則を理解してそれを個々に当てはめるものではないと思うのだが、それにもかかわらず、これは私のまったくの印象であり、根拠となる文献もないのだが、「内部」を表す前置詞 dans と en の使い分けは、dans は表面の裏の内部であり、en は表面も含んでいるような気がする。未満と以下の違いのような気がする。en は、無冠詞で名詞が続き、表面の様子がそのものの全体の姿、存在方法であるような感じだ。dans は、冠詞が続き、表面とは異質のものが内部に入っている、隙間があってもよい、という意味で、容器などの中に入れるなど、動詞の行為やその結果としての状態を伴う。ちなみに、dans が時間的には「・・・後」を意味することに違和感があるかもしれない。これは、「待つ人の気持ち」を含んでおり、その時までには行為がなされるが、ただしその期限より前には期待しても無駄であるということ。dans trois jours とは、「あなたが待っているので三日以内にとは言っておくが、ただし明日、あさってとは思うなよ」ということで、しあさってを意味する。|| qui nous rafraîchissent la figure この段落は主語が不定代名詞 on で書かれている。文法的に on の補語代名詞は nous あるいは vous と決まっている。文意としては、この on は je であろう。on は大人が子供に語りかける際にも、しばしば用いられるのであり、ここでは作者の子供時代の思い出の描写にふさわしい用法と言える。

エルザを聞いたので、当時のライバルのヴァネサ・パラディの大ヒット曲も聞く。ほとんどモードとも言える循環コード。八小節のイントロの八小節めから歌が始まる。二つずつの小節の単位に対し、各フレーズがどのような拍で始まっているかに注意して聞く。追加的に入れている小節があり、それらは1小節、2.5小節、3小節、1小節。そのようなことが、けっしてぐちゃぐちゃにはならず、聞く側の人間にまったく気づかれないほど自然であるのがすごい。1:26 は、のちにダイアナ妃が亡くなった事故の起こるトンネル。広い通りは rue de Rivoli。ただしパリには、このような黄色いタクシーはない。

斬新なアイデアが気づかれないように使われている。たとえば、イントロでのサキソフォンのリードの高音とか。「Maj7と転調は使いません」みたいなこと。

— chambres d’été où l’on aime être uni à la nuit tiède, où le clair de lune appuyé aux volets entr’ouverts jette jusqu’au pied du lit son échelle enchantée, où on dort presque en plein air, comme la mésange balancée par la brise à la pointe d’un rayon;

|| tiède 昼間の暑さが弱まって。|| フランスの家は庇が張り出していないので外側の壁や窓が雨で直接濡れる。木製の窓枠は黴が生え、腐ってしまうので、窓の外側には必ずよろい戸がついている。それが左右に観音開きになる。冬は窓とよろい戸をしっかりと閉めて寝るのだが、夏場は風通しを良くするために少し開けたまま寝る。したがって夏の夜には、月の光が斜めに室内に差し込むことがある。それは月までとどく魔法の梯子のようだ。フランスのメルヘンには魔法の梯子で月まで登るというようなイメージがあるらしい。|| ベッドには枕のある方と人が寝たときの足がくる方があるが、pied は枕がない方を意味する。ベッドの下に付いている四本の脚のことではない。枕の方に月の光が射したら眩しくて寝られない。|| 小説の文章は意味内容の概念が伝わらなくてはならないのだが、伝え難いことがらを伝え難そうに長く書いて説明したのでは美しくならない。短い、的確な表現で書かれることは大切であるようだ。プルーストの書き方は、かなり短い表現が好んで用いられている。ほとんど、俳句の短さだ。その意味で、プルーストの文章をピリオドからピリオドまでということで判断して長文だと思う人は少し考えてほしい。それは、まったく逆である。chambre はベッドと一人用の机が置いてある一人用の部屋、つまり寝室を意味しており、居間 salon と区別される。関係副詞 où による短文が三つ続いている。|| comme une mésange としたいところだが定冠詞が付いている。先ほどの comme l’hirondelle de mer も同様だ。comme によって、「屋外で」ということのみが表現されているのであり、太陽光線とシジュウカラの位置関係とベッドに横たわる人間と月光の位置関係を比較して考える必要はない。

— parfois la chambre Louis XVI, si gaie que même le premier soir je n’y avais pas été trop malheureux, et où les colonnettes qui soutenaient légèrement le plafond s’écartaient avec tant de grâce pour montrer et réserver la place du lit;

|| ルイ 14 世風の部屋、 pas trop はフランス人の好きな口語的な言い方だ。口語的に ne を省略して例を挙げるならば、いやだ、という意味で J’aime pas trop. いまごろになってから、やっと、と言わずに C’est pas trop tôt. きれいな女性に関してきれいと言いだしたらフランスではきりがないので、Elle est pas trop moche. この言い方で、女性はとても褒められていることになる。実際には、かなり強い意味を婉曲に表現する言い方だ。部屋などが汚いという意味で C’est pas trop beau. など。強調には du tout を添える。したがって、pas trop malheureux は、楽しい気分のことであり、それほど悲しくはなかったと暗い感じで訳すと誤訳となる。|| réserver ひとつの部屋の中でベッドの場所は、いかにもベッドを置くための場所として柱の位置が設計されているように見えること。

parfois au contraire celle, petite et si élevée de plafond, creusée en forme de pyramide dans la hauteur de deux étages et partiellement revêtue d’acajou, où, dès la première seconde, j’avais été intoxiqué moralement par l’odeur inconnue du vétiver, convaincu de l’hostilité des rideaux violets et de l’insolente indifférence de la pendule qui jacassait tout haut comme si je n’eusse pas été là; — où une étrange et impitoyable glace à pieds quadrangulaire barrant obliquement un des angles de la pièce se creusait à vif dans la douce plénitude de mon champ visuel accoutumé un emplacement qui n’y était pas prévu; — où ma pensée, s’efforçant pendant des heures de se disloquer, de s’étirer en hauteur pour prendre exactement la forme de la chambre et arriver à remplir jusqu’en haut son gigantesque entonnoir, avait souffert bien de dures nuits, tandis que j’étais étendu dans mon lit, les yeux levés, l’oreille anxieuse, la narine rétive, le cœur battant; jusqu’à ce que l’habitude eût changé la couleur des rideaux, fait taire la pendule, enseigné la pitié à la glace oblique et cruelle, dissimulé, sinon chassé complètement, l’odeur du vétiver, et notablement diminué la hauteur apparente du plafond. L’habitude! aménageuse habile mais bien lente, et qui commence par laisser souffrir notre esprit pendant des semaines dans une installation provisoire; mais que malgré tout il est bien heureux de trouver, car sans l’habitude et réduit à ses seuls moyens, il serait impuissant à nous rendre un logis habitable.

|| revêtir re- は再びという意味があるが、フランス語の動詞のなかには、再びという意味がなくても re- がつくものが多くある。そのような単語では、再び、という意味にこだわってはいけない。|| tout haut 声や音が大きいこと。 過去における comme si のフレーズは書き言葉として接続法大過去を使っているが、ちなみに、話し言葉では過去に関する話の中での comme si は直説法大過去を使わなくてはいけない。jacassait comme si je n’avais pas été là。話しことばで、もしも現在のことであったとしたら半過去となる。jacasse comme si je n’étais pas là。ついでに、よく使う言い回しとして、Comme si de rien n’était. がある。あたかも何ごともないかのように。|| 嫌いな部屋の描写が続く。インターネット上の無料のテキストでは「四角形の」という形容詞は複数になっているので、鏡の脚を修飾していることになるが、Folio版では単数なので鏡が四角いことになる。鏡があると、その奥に別の空間が存在しているかのように見える。|| ギターを弾くときにフレット上で複数の弦を人差し指で押さえることをバレーと呼ぶが、これはフランス語であり、barré と書くので、ギターの用語として使う場合は正しくはバレであろう。|| pensée 部屋の空間を認識する意識をここではこう呼んでいる。se disloquer は本来は自分で関節をはずすという意味であるが、ここでは身体がベッドでじっとしているのに対して意識のみが身体の外に出て、身体から遊離して、部屋の空間の形に馴染もうとしている様子。 || bien de dures nuits の de は bien が souffrir を修飾する副詞ではなく、「沢山の」を意味する bien des nuits に形容詞がはさまって des が de になったもの。|| tandis que の s は発音されたり、されなかったりする。後に直接法が続く。|| 独立名詞句は avec を添えて考えることができる。(avec) les yeux levés, など。|| 目は複数だが、耳と鼻孔がそれぞれ聴覚と嗅覚の意味において単数で書かれている。|| 話し言葉では、過去の話でも jusqu’à ce que のあとは接続法現在が使われる。|| aménageur 部屋の内装工事の職人 || dans une installation provisoire 短期間しか住む予定のない住居でも、それにもかかわらず慣れるの数週間も費やす。「それにもかかわらず」という意は実際に文中で語で書かれているわけではない。|| souffrir は通常、自動詞として使われ、「(苦しみに)耐え続ける」という意味。 || trouver の直接目的語は、前にある関係代名詞 que。il があたかも形式的な非人称の il のように見えるが、続く文を読むと notre esprit の代名詞と分かる。続く ses や il serait も同様である。|| nous は動詞 rendre の間接目的語。(仮に habitable につく前置詞であったのならば pour nous となるはずである。) || à は impuissant à inf. の à 。|| ここで段落が終り、話は再び眠りから目が覚めたときのことに戻る。

Certes, j’étais bien éveillé maintenant: mon corps avait viré une dernière fois et le bon ange de la certitude avait tout arrêté autour de moi, m’avait couché sous mes couvertures, dans ma chambre, et avait mis approximativement à leur place dans l’obscurité ma commode, mon bureau, ma cheminée, la fenêtre sur la rue et les deux portes.

|| réveillé が朝、健康的に自然に目が覚めることを意味するのに対し、プルーストは混乱した眠りから現実に戻るという意味で éveillé を使った。|| virer 現代では、この動詞は自動車の運転で急にハンドルを切ってカーブを曲がることであり、また他動詞からの銀行振り込み virement も大切な語である。語り手は目が覚めてもすぐに元気に起きるというわけではないので、この自動詞 virer を、最後にもう一度の寝返りを打つと訳すと誤訳となる。この動詞は移動する方向が変わることであり、プルーストは身体がひとつの思い出のイメージから最後にもう一度、別方向に向かって進み、現実に戻ることをこの語で表現している。|| le bon ange de この語は、次に続く語と意味上は同格であり、擬人化を可能にする。日本語に訳すならば、「何々のための守り神は」ではなく、「守り神であるところの何々は」となる。|| approximativement この副詞は暗さの中で家具などが定位置に収まるときの動きを感じさせる効果をもつ。|| avait mis この過去分詞は単数形と複数形が同一であり、このようになるが、普通の動詞ならば文法的には複数形が書かれるところである。|| à leur place 文法的に重要なことがらとして、この語が単数であり、複数 à leurs places ではないということがある。 プルーストのこの文では la place が部屋全体を表しているのではない。箪笥は箪笥の場所、机は机の場所である。部屋の家具などをひとまとめにしているのではない。似たような言い方として、高級レストランに入る男性は “Ils doivent mettre une cravate” がある。五、六人の男性がひとかたまりになって一本のネクタイを輪にして首を束ねるのではなく、ひとりひとりが一本ずつという意味である。複数の人の各自に関して物がひとつずつの場合、結果的に複数の物が存在することになっても、ひとつという言い方をする。”Ils ont un chapeau” と言うのが正しいフランス語であり、人の数だけ帽子が存在することになるのだが、”Ils ont des chapeaux” とは言わない。”les remettre à leur place” で、それぞれの物がそれぞれの場所にという意味になる。”remettre ma commode à sa place” と “remettre mon bureau à sa place” を合わせると、”les remettre à leur place” となる。また、場所が一箇所のみの例として、厳しい母親が「ちらかしておかないで、オモチャはオモチャの箱の中に片付けておきなさい」と言った場合には、各オモチャのそれぞれの位置は問わないのであり、戦車は熊の右でも左でもよいのである。複数の物のために場所がひとつだけのときは必ず “les remettre à leur place” となる。場所が複数で、”les remettre à leurs places” と書くと、それぞれの物どうしのあいだで場所の交換が可能にもなる。折角、読んでいただいている方のために箇条書きにまとめる。
物がひとつならば、
・当然のこととして場所も一箇所。le remettre à sa place
物が複数ならば、
・場所が一箇所の場合。les remettre à leur place
・場所が複数。それぞれの物の位置が決まっている場合。les remettre à leur place。会話では複数か単数かの違いが音にならないので、les remettre chacun à sa place などのように言ったほうが明瞭に表現される。
・場所が複数。物どうしで位置の交換が可能。あるいは、物の相互間に目立った区別がない。les remettre à leurs places。この言い方が必要となる状況は稀であろう。

Mais j’avais beau savoir que je n’étais pas dans les demeures dont l’ignorance du réveil m’avait en un instant sinon présenté l’image distincte, du moins fait croire la présence possible, le branle était donné à ma mémoire; généralement je ne cherchais pas à me rendormir tout de suite; je passais la plus grande partie de la nuit à me rappeler notre vie d’autrefois à Combray chez ma grand’tante, à Balbec, à Paris, à Doncières, à Venise, ailleurs encore, à me rappeler les lieux, les personnes que j’y avais connues, ce que j’avais vu d’elles, ce qu’on m’en avait raconté.

|| avoir beau inf. たとえ何々したとしても結果は同じである。目が覚める瞬間に部屋を間違えていたのだが、それが間違えだったと分かっても、それはどうでもいいことだ。いずれにせよ、目が覚めたら覚めたで、昔の思い出の回想が起動するのだから。|| l’ignorance du réveil 明け方、目が覚める際の意識のボケ || en un instant 瞬時の間だけの || sinon…, du moins… 何々とまでは言わないにしても、少なくとも何々だとは言える。前の部分は否定表現での事実であり、仮定ではない。
|| 一般に donné を受動態で使う場合は、能動態の文の間接目的(受け取り人)「 à 誰々」を主語にしてしまわないように気をつける。次のようにすると間違い。
Ma mémoire était donnée le branle.
因みに、「私は何々をもらった」を次のような受動態で言うと間違い。もらった物だけが受動態の場合の主語になりえる。
J’ai été donné
|| chercher à 不定詞、何々しようとする。|| 前出の文章には Combray, chez mes grands-parents と書いてあったが、語り手の母方の親戚の人たちが住んでいる同じ家のこと。|| 列挙されている地名は、どれもこの小説『失われた時を求めて』で舞台となるものであると、本の最後の補注に書いてある。|| プルーストは既に半過去で書き続けることに決めているので、généralement 以下の部分でも現在時制にはならない。

À Combray, tous les jours dès la fin de l’après-midi, longtemps avant le moment où il faudrait me mettre au lit et rester, sans dormir, loin de ma mère et de ma grand’mère, ma chambre à coucher redevenait le point fixe et douloureux de mes préoccupations. On avait bien inventé, pour me distraire les soirs où on me trouvait l’air trop malheureux, de me donner une lanterne magique, dont, en attendant l’heure du dîner, on coiffait ma lampe; et, à l’instar des premiers architectes et maîtres verriers de l’âge gothique, elle substituait à l’opacité des murs d’impalpables irisations, de surnaturelles apparitions multicolores, où des légendes étaient dépeintes comme dans un vitrail vacillant et momentané.

À Combray, tous les jours…
|| il faudrait… 過去における未来としての条件法 || redevenait 滞在する家の自分の部屋に慣れるのに苦労するという前出の話に対応する。 || inventer de inf. ここでは、名案と思われるような、一風変わったことを思いつくという意味。|| on me trouvait l’air trop malheureux 動詞の直接目的補語が l’air 間接目的補語が me である。|| 前出のとおり、日課の上では子供は夕飯前に一眠りすることになっていたようだ。|| maîtres verriers は architectes の同格語であり、したがって冠詞は付かない。|| substituer X à Y 、この à を à la place de のように考えると分かり易い。 Y をやめて X を使うこと。プルーストは直接目的語を修飾する部分を付け加えたかったので文の成分の位置を交換し、à Y X という順番にした。通常、直接目的語 X が先であり、à Y のほうが後になる。|| opacité ここでは「暗さ」のこと || impalpables irisations 灯油のランタンの頼りない炎が光源であるため、壁に映る絵は極めて淡い、ぼんやりとした色彩であった || d’impalpables…, de surnaturelles… 名詞複数形に形容詞が付いている場合の不定冠詞複数形は de だけになる。substituer の手段となる物「何々によって」の前には de は置かれない。|| légende 絵に添えられている短い説明文のことではない。正しくは、物語の意。物語の絵が一枚ずつ映されることによってストーリーになるという意味。HTML には caption としての機能をもつ legend という tag があるが、そのような意味とは異なる。

Mais ma tristesse n’en était qu’accrue, parce que rien que le changement d’éclairage détruisait l’habitude que j’avais de ma chambre et grâce à quoi, sauf le supplice du coucher, elle m’était devenue supportable. Maintenant je ne la reconnaissais plus et j’y étais inquiet, comme dans une chambre d’hôtel ou de « chalet » où je fusse arrivé pour la première fois en descendant de chemin de fer.

|| n’en était qu’accrue この en は前出の単語に関する「 de 何々」の代名詞ではなく、「それによって」という意味で何かの変化を表す文に使われる。|| rien que は直後の名詞を修飾するのみであり、que が節を従えているのではない。|| grâce à quoi は、これでひとつの関係代名詞である。|| elle m’était devenue この主語の女性名詞は文脈から判断して「悲しみ」ではなく「部屋」のこと。大過去であり、折角、慣れによって部屋が我慢できるようになっていたのに、ランタンによって部屋の明かりが変わってしまい、慣れを破壊してしまったという意味。|| j’y étais inquiet この y は à のついた名詞のための代名詞ではなく、「そこで」という意味の場所を表す。|| « chalet » 引用符 guillemets がつけてあるのは、たぶん語り手が「スイスを旅行した際の」という意味であろう。 || je fusse arrivé は comme を comme si とした場合の条件法過去第ニ型。|| 普通は冠詞を付けて descendre du chemin de fer と言う。train の場合は、もちろん descendre du train となる。

Au pas saccadé de son cheval, Golo, plein d’un affreux dessein, sortait de la petite forêt triangulaire qui veloutait d’un vert sombre la pente d’une colline, et s’avançait en tressautant vers le château de la pauvre Geneviève de Brabant. Ce château était coupé selon une ligne courbe qui n’était guère que la limite d’un des ovales de verre ménagés dans le châssis qu’on glissait entre les coulisses de la lanterne. Ce n’était qu’un pan de château, et il avait devant lui une lande où rêvait Geneviève, qui portait une ceinture bleue.

|| マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』に登場するこの昔話、ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバンの物語。ラテン語を私が和訳したものはこちら
|| au pas saccadé 部屋の壁やカーテンに広がる絵の馬は不自然であり、その歩調は、なめらかなもののようには想像されない。また、saccade には馬の手綱が乗り手に引き寄せられて首が垂直になっているといった意味をある。|| dessein 企み || courbe 形容詞。|| 否定文では ne pas と同じ意味で ne guère が使われるが、後に que が続いている場合は意味がずいぶん異なってくる。ne pas que の pas が ne…que を否定し、何々だけではない、他にもある、という意味になるのに対し、ne guère que の guère は ne que の強調であり、何々だけである、何々に他ならない、という意味となる。|| ovale 男性名詞。スライドの絵は四角いがレンズは円くなっていた。bord や contour ではなく limite という語が使われている。|| ちなみに、もし日本の家屋での敷居をフランス語に訳すならば、障子や襖が滑る溝という意味で les coulisses になりそうだ。西洋の家の敷居は le seuil. || Ce n’était qu’un pan de château, フランス語の作文などでは、同じ語をすぐ後にまた使うのは美しくないという感覚があり、プルーストが上で ne guère que を使っておいたのは、そのような理由からであろう。また同時に、この「失われた時を求めて」の中ではプルーストはしばしば同じ語をその近くの文で違う意味で使うことも好きだった。|| il avait devant lui une lande… 動詞 avoir を使ったこのような簡素な表現はフランス人には何でもなく、すっと出るのだが、我々外国人にはなかなか思いつかない。il および lui は城の壁面のことであり、ゴロのこととして訳したら誤訳となる。|| ceinture 男性のズボンのベルトのことだけでなく、この名詞は女性の服飾において腰の部分に巻く帯状のものすべてを意味する。ここでは絵の鮮やかな色彩を読者に強調するためにプルーストはジュヌヴィエーヴに何らかの青いものをまとわせているのであろう。以下、様々な色名が文に書かれる。

Le château et la lande étaient jaunes, et je n’avais pas attendu de les voir pour connaître leur couleur, car, avant les verres du châssis, la sonorité mordorée du nom de Brabant me l’avait montrée avec évidence. Golo s’arrêtait un instant pour écouter avec tristesse le boniment lu à haute voix par ma grand’tante, et qu’il avait l’air de comprendre parfaitement, conformant son attitude, avec une docilité qui n’excluait pas une certaine majesté, aux indications du texte ; puis il s’éloignait du même pas saccadé.

|| avant les verres du châssis = avant que les verres du châssis ne fussent glissés en montrant leur couleur || 前に、を表す前置詞、または副詞として avant と devant があるが、avant は時間的順番としての前、devant は場所的空間的位置で前と考えていい。列をつくって順番を待つとき、前の人は空間的には devant moi であるが、時間的順番としては avant moi であり、これはどちらを使ってもよい。ちなみに、時間的前 avant moi に対し、時間的に後は après moi。空間的前 devant moi に対し、空間的なうしろは derrière moi である。(derrière の発音は、二音節ともすごい開母音)。それから arrière という語があるが、これは教室の中、映画館の中、自動車の中など、ひとつの閉じられた空間の中の後部。それに対し、閉じられた空間の前部は空間的であるにも関わらず avant であり、このへんが紛らわしい。arrière と avant の中間地点は au milieu。前に進むことは aller en avant, 後退するは、aller en arrière。自動詞 avancer と、自動詞 reculer に対応する。ちなみに、その場に止まっていることは Je reste où je suis. Vous restez où vous êtes. など。|| mordoré 公爵家の家名に関しての、古くなった金の鈍い色合い、革製の馬具の光沢などからのイメージではないだろうか。HTMLの色としては、下のようになる。

mordoré (#87591A)

|| le boniment 何やらごちゃごちゃ言っているというような意味。 || majesté 威厳。説明の文に素直に従っているのだが、決して威厳を損なうことはなく。 || conformant son attitude aux indications du texte ゴロは、大きな声で読まれている文のとおりにきちんと演じながら、という意味だが、故意に直訳するならば、ゴロは振る舞いを説明文に書かれている指示に一致させながらということになる。conformant 現在分詞は il avait l’air de comprendre parfaitement と語り手が想像のなかで判断する根拠であることを表す。étant donné qu’il conformait…

Et rien ne pouvait arrêter sa lente chevauchée. Si on bougeait la lanterne, je distinguais le cheval de Golo qui continuait à s’avancer sur les rideaux de la fenêtre, se bombant de leurs plis, descendant dans leurs fentes.

|| sa lente chevauchée この sa は馬ではなく、馬に乗ったゴロのこと。|| ここでの si は仮定の意味はなく、quand と同義。|| se bombant de leurs plis, この de は手段や材料を表す前置詞であり、布団が綿によって膨らむ、などと同じである。通常、plis は折り目の山だけでなく折り目の谷も意味するのであるが、ここでは折り目の山の意。pli saillant, pli rentrant。折り目は紙の場合は折り目の筋を意味するが、カーテンやスカートなどの場合は筋が通っていなくてもこの語が使われる。また、山地の起伏の意味もあり、日本語の「ひだ」という語にも対応する。|| distinguer 単に見えるという意味ではなく、ここではカーテンという現実の物体と物語上のゴロの馬の映像が別々に存在する様子をこの動詞で表現した。

Le corps de Golo lui-même, d’une essence aussi surnaturelle que celui de sa monture, s’arrangeait de tout obstacle matériel, de tout objet gênant qu’il rencontrait en le prenant comme ossature et en se le rendant intérieur, fût-ce le bouton de la porte sur lequel s’adaptait aussitôt et surnageait invinciblement sa robe rouge ou sa figure pâle toujours aussi noble et aussi mélancolique, mais qui ne laissait paraître aucun trouble de cette transvertébration.

|| essence これは極めて神学的な単語であり、したがって哲学での中心的な用語のひとつとなる。たとえば、正三角形は、まず定義的なプラトン的な「本質」があり、それに則して子供が紙の上にコンパスと定規と鉛筆を使って描くと紙の上の正三角形が「現実に存在」する。ゴロのスライドの絵が、まず本質としてあり、部屋の家具などの凸凹を取り込んで写り、現実存在する。matérialiser || s’arranger de… 何々を受け入れる || fût-ce 一見、文法的に面倒な語に見えるが、接続詞のように独立しているものとみなすことができる。副詞 même と同じように使える。|| s’adaptait および surnageait の主語は倒置された sa robe rouge ou sa figure pâle である。服と顔を複数で一緒にすることはせず、ou で並べることにより一個の物体の表面を映像の各部分が順番に移り進む様子が表現される。|| robe は現在の衣服では、女性のワンピースのことのみである。|| transvertébration プルーストの造語。脊椎が入れ替わること。

généalogie

プルースト失われた時を求めて