薬を使わないトゥレット症候群(チック症)と強迫性障害の治療 §33

Kurikiメソッド(the first edition in 2007)はトゥレット症候群(チック症)および強迫性障害を薬を使わずに治すことを目的とした理論である。この理論はこれらの病気の構造についての推論と解釈に基づいている。精神分析医を読者と想定して書かれており、一般の読者には難解であり、誤読の危険性がある。したがって、Kurikiメソッドは患者が最寄りの精神分析医により治療を受けること、患者とKurikiメソッドの間には常に精神分析医が存在することを前提とする。感情的カタルシスの爆発は強い影響を伴うため、一週間に一度、三秒間のみの実施であり、そのペースを超えた場合は過失による一種の事故である。そのような事故による一時的な精神的沈下は感情的カタルシスに関し未熟な精神分析医の責任とする。また、論理的思考力に乏しい患者には、頭の中でのトラウマ・イメージの加害者と現実世界での人物との錯覚的混同による暴力的復讐感情に関して精神分析医による個人的な説明が不足してはならない。

 

薬を使わないトゥレット症候群(チック症)と強迫性障害の治療
§33

 

ひとつのことに関する否定的判断が凍結された場合、その判断は意識内で感情という手段で表現されず、ポテンシャル感情として抑圧される。この不快判断の抑圧は Kurikiメソッドの基本的な概念のひとつであり、その理解は感情的カタルシスについての正しい理解につながる。感情は意識内におけるはっきりとした判断表現の身体的手段である。凍結とは、ひとつのイメージに対する否定的な判断が意識化される前に、そのイメージが中性化された状態である。イメージに続いて当然なされるべき反応への流れが阻止されている状態である。
子供にとって自分自身の性器の感覚は秘密であり、恥ずかしいことであり、ひとつの悪である。そして、他の人間の性器はとても汚らわしく、いやらしいものである。そのような判断はとても当たり前のことであり、とても健康なことである。チック症の原因としていろいろな抑圧が考えられるが、そのひとつの可能性として性器の感覚は悪いことであるということを抑圧する場合があるかもしれない。子供は「性器の感覚は悪いことである」という判断を抑圧するのであるから、「性器の感覚は悪いことである」とはまったく考えない。その結果、性器への罪悪感は無意識の中に蓄積する。ここで筆者が言いたいのは、子供は「性器の感覚は悪いことである」と思うべきだということである。性器への罪悪感をもつべきであると言いたいのである。宗教画でアダムとイブが性器をイチヂクの葉で隠しているのは精神的に健康な人間としてとても当たり前のことである。
性器を隠すということは、性器の感覚の猥褻さを前提としている。性器を隠さない行為は性器の感覚の猥褻さの抑圧である。性器の感覚それ自体は実際に意識されるので抑圧は不可能であるが、性器の感覚の猥褻さの判断が凍結する場合がある。すなわち性器の感覚に関して子供自身の頭の中で無頓着であり、性器を隠さず、性器の感覚に関する罪悪感が意識にない状態である。それを自然な振る舞いと解釈するのは間違い。子供が性器の感覚を猥褻であると認識する権利が与えられていない場合がある。それは、猥褻さという人間精神の否定的な属性の存在を頭の中で肯定する権利である。
同様に、他の人間の性器はきたないという当たり前の判断を抑圧した場合、子供の無意識の中で他の人間の性器はきたないという判断は凍結し、他の人間の性器のきたなさは無意識の中だけに蓄積する。
他の人間の身体はきたないという判断も人間として自然な考えである。小さな子供が不快判断を凍結しない権利、嫌悪の感情を抑圧しない権利が守られるべきである。
いやなことを抑圧している子供は楽しそうにしている。子供自身楽しく感じている。それを抑圧と呼ぶ。不快な判断を不快なままで感じることが健康な状態。不快な判断を他の人たちに向かって表現するかしないかは問題ではない。嫌悪が自分の頭の中でしっかりと表現されているかどうかが問題である。しかし、もし不快な判断が他の人たちの前で表現されているならば、当然自分の頭の中でも表現されていることにはなる。分かりやすいように誇張して言うならば、楽しそうな子供には要注意ということ。
トラウマは非常に嫌なものであるから、トラウマとは何かという記述も嫌な記述になる。神経症の治療に関する記述は嫌なことの記述になる。それは精神分析学という学問の宿命。人間精神において、同一のものに対して、否定的あるいは肯定的な、両極端の判断がなされる。たとえば、食べるということに関しての判断は不思議である。動物の死体は気持ち悪いが、牛などの死体は切って料理をして楽しく食べる。冷蔵庫の中にステーキ用の肉があっても汚いとは判断しない。食品は全て衛生的な物であるが、いったん口に入れて咀嚼した食べ物は自分の口の中であっても極めて汚い物と判断される。口の中の唾液を汚いと判断する。嚥下の際は口の中の物を汚いとは思わない。胃の中の物が最高に汚いことを知っているが、身体の中心部に極めて汚い物が入っていることは不快とは判断されない。食品との接触において、自分の指は汚くないが、自分の髪の毛は汚い物である。このような判断では両極端の中からひとつだけがはっきりと選ばれる。猥褻さに関しては、自分からの能動的な猥褻さは個人的なファンタズムの中で肯定的に判断される。カップルの相互的能動的猥褻さは肯定的に判断される。一方、同意のない、他者からの一方的な猥褻さ、受動的な猥褻さは極めて否定的に判断される。抑圧対象としての原始的身体感覚と抑圧対象としての精神的トラウマイメージは猥褻さの抑圧において結びついている。
抑圧される判断は性的な不快や性器的な不快が中心になる。チック症の大人が自分が子供であった頃のトラウマを探すとき、いやだったことがらを思い出してもその中には本当のトラウマはないかもしれない。楽しかったことの裏側かもしれない。思い出すことができない空白かもしれない。なぜそのことを思い出さないのだろうかというような明白な物かもしれない。あまりにも明白すぎて思いつかない物の場合も多いはずである。
本当のトラウマに当たった時は、それが怒りの感情の原因のトラウマの場合ならばイメージに対し拳を丸めて、よし怒ろうとして怒ると怒りが噴出するので明らかである。即座に怒りを中断する。トラウマの感情は怒り、恐怖、悲しみ、嫌悪など。