薬を使わないトゥレット症候群(チック症)と強迫性障害の治療 序論

チック症の治し方
強迫性障害の治し方

Kurikiメソッド(the first edition in 2007)はトゥレット症候群(チック症)および強迫性障害を薬を使わずに治すことを目的とした理論である。この理論はこれらの病気の構造についての推論と解釈に基づいている。精神分析医を読者と想定して書かれており、一般の読者には難解であり、誤読の危険性がある。したがって、Kurikiメソッドは患者が最寄りの精神分析医により治療を受けること、患者とKurikiメソッドの間には常に精神分析医が存在することを前提とする。感情的カタルシスの爆発は強い影響を伴うため、一週間に一度、三秒間のみの実施であり、そのペースを超えた場合は過失による一種の事故である。そのような事故による一時的な精神的沈下は感情的カタルシスに関し未熟な精神分析医の責任とする。また、論理的思考力に乏しい患者には、頭の中でのトラウマ・イメージの加害者と現実世界での人物との錯覚的混同による暴力的復讐感情に関して精神分析医による個人的な説明が不足してはならない。

 

薬を使わないトゥレット症候群(チック症)と強迫性障害の治療
序論

 

免責事項
· Kurikiメソッドは患者ひとりひとりの個人的考察のなかでのみ理解される。筆者の責任は記述の内容までであり、その記述の理解は患者の極めて個人的な問題である。
· あらゆる種類の普通のありふれた物質がしばしば蕁麻疹などのアレルゲンにもなりうることが理解できない人々が存在するのと同様、子供のトラウマのたわいのなさが理解できない人々が存在する。一例を挙げれば、大人との単なる皮膚接触が無意識内ではトラウマとなることもある、等々。また、初歩的な神経学で、随意運動と不随意運動の明確な区別が理解できない人々が存在する。
· もしも患者が精神分析医の補助なしに強すぎるカタルシスを行った場合は、その患者に対して筆者が全面的に責任を負うということはない。
· Kurikiメソッドを読んでいない人に対してKurikiメソッドの筆者が責任を負うことはない。
· 治療が患者にとって楽しいものであることは精神分析医の責任下にあるとする。

Kurikiメソッドでトゥレット症候群(チック症)と強迫性障害を治す。

・局所的な身体的不快感覚。(たとえば、椅子が硬い、脚が疲れた、など。)
・全身的な身体的不快感覚。(たとえば、冬の風が冷たい、など。)
・性器部分の身体的感覚。
このような不快な身体的感覚がひとつでもあるとき、抑圧の手段として、もうひとつ別の不快な身体的感覚が現れる。意識の志向性はこの第二の不快感覚のほうに逸らされ、馬鹿げた動作や馬鹿げた行為への強迫が意識の前景で増幅する。患者がこの意識の志向性の病的な KV の仕組みに気がついたとき、最寄りの精神分析医による神経症の長期的な治療が始まる。

トゥレット症候群(チック症)と強迫性障害の治療の理論、Kurikiメソッド

 

チック症の治し方
強迫性障害の治し方

 

Kurikiメソッドの理論
ジル・ド・ラ・トゥレット症候群(チック症)と強迫性障害を治す
KV (身体的抑圧)
強迫性を伴った KV による神経症
感情的カタルシスによる除反応

チック症
筆者は、かなり以前からチック症の治療理論に気がついていたのであるが、センテンスごとに七ヶ国語で書き進める作業の末、理論の構造がより明瞭なものとなった。しかしながら、チック症を治らない病気、不可解な病気とする読者にとって、ここでの記述のなかには依然として理解が困難な部分があることと思われる。

Kurikiメソッドの理解が困難となる理由のひとつとして、この《理論の構造》は神経症の《病気の構造》であるので、病的構造、正しくない構造の中での理解が読者に必要とされるということがある。正しくない構造についての正しい記述は正しくない記述にも見えるというパラドックスである。病的構造を健康な構造においてのみ考えようとしていることに気がつかない読者が理論の構造を正しくないものとみなすのである。さらに、もうひとつの理由として、病気の心の構造を表現した記述は論理的な記述ではなく、理論の証明もないということである。Kurikiメソッドの記述は不可知なものに関する読者のイマジネーションの中だけで読まれ、科学的な理解というものはない。

チック症の診断
もし小さな子供がチックの動作を始めた場合には、親は子供を医者に診せる前に Kurikiメソッドの50のセクションを、たとえ反論をもちながらでも、全部読む必要がある。勿論、読者には Kurikiメソッドに対し、読まずに反論をもつといったような気持ちもある。チック症は患者の無意識および親の無意識にとって「必要な」病気であるため、無意識は治療の企てに対し抵抗する。そして、その抵抗の裏にこそ病気の原因がある。Kurikiメソッドを読むことはチック症の抵抗によって無意識的に妨げられるはずである。Cf. 抵抗(精神分析学用語)
医者に診せる前にこのメソッドを読んでおくことの理由として、ひとつには、チックの動作の指摘はチック症を悪化させるため、医者に診せるという行為には子供のチック症を悪化させる可能性、一過性チック症を慢性化させる可能性があることを前もって承知しておくということ、もうひとつには、チックの動作自体は一目瞭然の随意運動であり、チック症の診断とは、強迫性障害(OCD)の有無は勿論のこと、ジストニアの有無、てんかん質の有無、自閉症スペクトラム障害(アスペルガー症候群)の有無、注意欠陥・多動性障害(ADHD)の有無といった大切な診断を意味することを親が知っておくということがある。

抽象概念の記述表現
このメソッドの目的は薬を使わずに健康な方法で安全にチック症や強迫性障害を治すことである。理論は筆者が言わんとしていることを理解したならば、いたって明瞭なものであり、筆者は可能な限り単純なかたちでそれを説明したつもりである。精神構造の記述は物体の記述では勿論なく、精神的機能のひとつひとつは筆者が治療法の考え方を説明するために用いた表現であり、それらは別のかたちで表現しようと思えばできたものである。電気回路がしばしば水流のアナロジーで説明されるのと同様、精神分析学用語は著者が病的な心の治療法を容易に記述することができるよう、また読者がそれを容易に理解することができるために用いられるのである。精神分析学用語は人間の心の不確定な構造を明らかに記述するものではない。

強迫性障害
トゥレット症候群と強迫性障害は、ほとんど同じ症状をもつ、ほとんど同じ病気である。ほとんど同じ症状とは、不快な身体感覚が現れるということ、および既に正確に決められている身体的行為を行うことの絶対的な必要性、すなわち身体的な強迫性である。違いは、強迫性障害での外的な物体は、チック症での筋肉の存在の感覚である。行為を強制する不快な身体感覚は我慢できないほど痛いものではない。身体的に強制される行為でありながら、強い痛みによる強制ではない。強迫の精神的に不快な気持ちは我慢できない嘔吐感のようなものではない。患者はチックの随意運動や強迫性障害の行為をしたくなくてもしなくてはならないのであるから、これらの神経症の運動や行為は、その度ごとに極度に意識的なものである。Kurikiメソッドではチックの動作や強迫性障害の行為を意識に強制している病的必要性を絶対強迫と名付ける。絶対強迫は出口がひとつのトンネルであり、その唯一の出口とは既に正確に様態が決められた身体的な行為をすることである。チック症の動作には患者は不快な身体感覚の強迫的な現れのみを意識するので、透明な絶対強迫の枠の存在を見ることがない。逆に強迫性障害の行為には患者は絶対強迫の枠の心的な力のみを意識するので強迫的な身体的感覚を知らない。そのため、神経症に関しての知識をもたない人には、チック症と強迫性障害があたかも全く異なる症状であるかのように見えてしまう。Kurikiメソッドは絶対強迫の病的な枠を取り除く方法である。

PTSD、すなわち心的外傷後ストレス障害の患者にも絶対強迫があるが、PTSD の患者は自分の病気の原因をはっきりすぎるほど知っている。PTSD の患者が強迫性障害やチック症をもっても、なぜなのかと問う人はいない。大事故など、PTSD の患者にはトラウマの出来事が明白であり、抑圧機能の対象は健康な抑圧の限界を超えている。それに対し、小さな子供のチック症や強迫性障害によってなされる抑圧の対象は日常的に繰り返されるような普通のありふれたことがらである可能性が高いと思われる。たとえば、親の裸体や皮膚接触は少しアスペルガー的な小さな子供の無意識には大きな負担となるかもしれない。

KV
Kurikiメソッドの理論は、KV の理論である。ある身体的に不快なものが意識対象とならないように、別の身体的に不快なものが意識内に現れてもっと強力な意識対象となる仕組み。この仕組みは先天的である。子供が神経症の支配下にある場合には、無意識内で、リビドー的なトラウマ・イメージは性器などのリビドー的な身体部分により象徴され、その身体部分は KV の仕組みのなかで抑圧される。KV は Kurikiメソッドの造語で、Körperliche Verdrängung の頭文字である。筆者は英語の単語を使いたかったのだが、その語はまったく別の分野に別の意味で既に存在していた。K は Körperlich、「身体的」という形容詞の頭文字、V は、Verdrängung、「抑圧」の頭文字であり、Kognitive Verhaltenstherapie ではない。この新しい名称はチック症と強迫性障害のどちらともなり得る先天的素因の名称として必要であった。チック症と強迫性障害の治療は KV の治療であり、したがって、それらはほぼ同じ方法で治療されるべきである。チック症は神経症的な KV の一種、強迫性障害も神経症的な KV の一種であり、Kuriki メソッドは KV の強迫性の治療法である。患者がチック症と強迫性障害の両方をもっている場合は、ふたつの病気の症状は治療により同時に消える。KV の自閉症的な仕組みは、抜毛癖や咬爪癖などの Body-Focused Repetitive Behavior (BFRB) やパニック障害 (phobophobia) なども引き起こす可能性がある。Kuriki メソッドの理論は、この KV の理論であり、先天的な KV から強迫性(病的抑圧の絶対的な必要性)を取り除く方法である。感情的カタルシスによる治療の後は KV は強迫性をもたない KV となり、無意識は KV を絶対的には必要としなくなる。

Kurikiメソッドでは、神経症は上層部と下層部の二つの層から形成されているものとみなされる。下層部は抑圧された不快感情の肥大したかたまり(病的な核)であり、上層部は KV (身体的不快感覚の抑圧をする身体的仕組み)である。神経症の構造のなかで、下層部の存在が上層部の存在によって抑圧される。自閉症スペクトラム障害において、感情のかたまりの自発的揮発は極めて少なく、機械的な密封により、肥大状態となる。

チック症や強迫性障害の患者は、毎日繰り返されたひとつの出来事に対する無意識内での不快な判断は自分の先天的な素因によるものであり、家族の人の行動それ自体によるものではないことを理解する必要がある。

(勿論、毎日、小さな子供に自分の性器を見せたり、子供の身体に性的に触ったりするような大人が家族内にいる場合は、まったく問題外である。Kuriki メソッドはこれらの犯罪行為に関しては言及しない。)

神経症は、ジークムント・フロイト、ジョルジュ·ジル・ド·ラ·トゥレット、ジャン·マルタン・シャルコー、オイゲン·ブロイラー、ピエール·ジャネ等の時代にはヒステリーと呼ばれていた。神経症の症状は身体的な症状であり、この病気の理解は身体と無意識が組み合わさった領域での推論である。

フロイトにはチック症は治せなかった。
フロイトは精神分析学用語としての抑圧という語を狭い意味で使っていた。無意識についての理論的構造において、エスと自我との衝突、および超自我と自我との衝突から自我が自我自身を防衛する機能がフロイトの言う抑圧である。フロイトの超自我は五歳ぐらいで形成されるので、しばしば三歳から始まることもあるチック症の構造の構成要素とはならない。三歳児の無意識の中には超自我とエスとの対立がないので理論的に自我も必要なく、したがって自我の機能としての抑圧はチック症の構造の構成要素とはならない。フロイトの精神分析学では、神経症は幼児期における固着への退行の現象であり、現時点での三歳である幼児の患者の退行はあまり理論的ではない。フロイトの抑圧は文学的であり、抑圧される対象が劇的である。

Kurikiメソッド
Kurikiメソッドでは抑圧という語の定義は広くなっている。抑圧は、精神活動の意識対象として選択されるべきでないものを選択しない機能である。アルペルガーの KV により、意識が感じたくない身体的感覚を意識が感じないためだけでなく、意識が感じたくない感情も意識が感じないための無意識の機能である。抑圧機能によって無意識の中の秩序が優先され、意識の対象が決められる。小さな子供のチック症の素因は抑圧の仕組みの異常であり、チック症によって抑圧されるトラウマの特異性が原因ではない。その理由は、チック症の自閉症的な素因 (KV) は遺伝的であり、したがって先天的であるからである。病因の観点からすれば、ヒステリーのメカニズムの存在は先天的素因であり、トラウマの内容よりも重要である。子供がヒステリーのメカニズムをもっている限り、意識内に不快な気持ちがない場合には嫌なことならば何でもその子供にとっての抑圧されたトラウマとなりえる。ヒステリーのメカニズムの存在がトラウマの内容に先立っている。ハチドリが空中で停止しているときに常に翼を動かしているように、抑圧機能は一日中、絶え間なく抑圧対象を抑圧し続けている。ヒステリー症状は身体感覚であり、チック症というヒステリー症状が抑圧の方法である。すなわち、《強迫性身体感覚》の現れ、および、その身体的解決(チックの随意運動)への絶対的強迫が抑圧の仕組みである。そして、強迫性障害は一種のチック症であり、《強迫性身体感覚》が筋肉内感覚ではないだけである。(皮膚感覚など)。治療は抑圧対象(感情のかたまり)の抽出であり、自閉症的な強い密閉性に対する感情的カタルシスの爆発によって行われる。