源氏物語
源氏物語の音読の仕方は、おおかた次の通り。
高低アクセントは関西弁に準ずる。
濁音は、文節の頭以外において、鼻音 ン を先行させて発音される。
「さ、し、す、せ、そ」
→「シャ、シ、シュ、シェ、ショ」
濁音「ジャ、ジ、ジュ、ジェ、ジョ」「ンジャ、ンジ、ンジュ、ンジェ、ンジョ」
(これらは、チャ、チ、チュ、チェ、チョの濁音としての、ンヂャ、ンヂ、ンヂュ、ンヂェ、ンヂョ、ではない。)
「は、ひ、ふ、へ、ほ」
→ 文節の頭「ファ、フィ、フ、フェ、フォ」
欧米の前歯が下唇に当たる f の音ではない。両唇は接触する。ギリシャ語には ph、両唇の狭い間での空気の摩擦音 φ がある。奈良時代はパピプペポのみであったが、その p が破裂しなくなったもの。
→ 源氏物語の音読におけるハ行転呼、文節の頭以外での「ウァ、ウィ、ウ、ウェ、ウォ」には諸説があるが、当サイトでは、独断的に、ハ行転呼は避け、ハ行はハ行で読む。ただし、助詞「は」「へ」に関してのみ「ウァ」「ウェ」と読む。
「た、ち、つ、て、と」
→「タ、ティ、トゥ、テ、ト」
濁音「ダ、ディ、ドゥ、デ、ド」「ンダ、ンディ、ンドゥ、ンデ、ンド」
「わ、ゐ、う、ゑ、を」
→「ウァ、ウィ、ウ、ウェ、ウォ」
「え」
→「イェ」
平安時代には「ん」の文字が存在していなかった。
「む」
文節の頭以外において、ん、あるいは唇を閉じる子音の前で m で発音される場合が多い。
撥音便無表記
「ん」を補って読む。
あなり、あめり、あべし、なめり、など。
あんなり、あんめり、あんべし、なんめり
拗音
小さな「ゃ、ゅ、ょ」(当時、そもそも拗音そのものが存在していなかった)
大きな「や、ゆ、よ」として、独立した音節で読む。
促音
当時、小さな「っ」は書かれなかった。
一音節の名詞
伸ばして読む。例、名「なあ」、歯「はあ」
帚木, ははきぎ
光る源氏 名のみことことしう 言ひ消たれたまふ咎多かなるに
いとど かかる好きごとどもを 末の世にも聞き伝へて 軽びたる名をや流さむと
忍びたまひける隠ろへごとをさへ 語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ
「ことことし」 仰々しい
「言ひ消つ」 いひけつ、非難する、
「咎多かなる」 とが、おほかなる
「いとど」 さらに、いっそう
「隠ろへごと」 かくろへごと、隠し事
「さがなさ」 意地の悪さ
さるは いといたく世を憚り まめだちたまひけるほど
なよびかにをかしきことはなくて
交野少将には笑はれたまひけむかし
「さるは」 さあるは、の約、そのことは実は
「まめだち」 真面目に振る舞う
「なよびか」 色っぽい
「交野少将」 かたののせうしゃう、色好みの昔話の人物
「かし」 終助詞、・・・ですよね。
まだ中将などにものしたまひし時は
内裏にのみさぶらひようしたまひて
大殿には絶え絶えまかでたまふ
忍ぶの乱れやと 疑ひきこゆることもありしかど
さしもあだめき目馴れたるうちつけの好き好きしさなどは好ましからぬ御本性にて
まれには あながちに引き違へ心尽くしなることを
御心に思しとどむる癖なむ
あやにくにて
さるまじき御振る舞ひもうち混じりける
「中将」 ちゅうじゃう
「大殿」 おほいどの、内裏の藤壺が目当てで、左大臣の家にはあまり帰宅しなかった
「忍ぶの乱れ」 不倫 (藤壺との関係)
「さしも」 そのように
「目馴る」 世間によくある、ありふれた
「うちつけ」 軽薄
「御本性」 ごほんじゃう
「あながち」 強ち、むやみ、一途
「引き違ふ」 ひきたがふ、常道からはずれる
「心尽くし」
「御心」 みこころ
「あやにく」 あいにく
長雨晴れ間なきころ
内裏の御物忌さし続きて
いとど長居さぶらひたまふを
大殿にはおぼつかなく恨めしく思したれど
よろづの御よそひ何くれとめづらしきさまに調じ出でたまひつつ
御息子の君たちただこの御宿直所の宮仕へを勤めたまふ
「御物忌」 おほんものいみ、
「長居」 ながゐ
「大殿にはおぼつかなく」 左大臣家では、光源氏にあえなく、待ち遠しく思っていたのだが
「よそひ」 装い
「何くれと」 何やかやと
「御息子の君たち」 左大臣の息子たち、光源氏と頭中将
「この御宿直所」 おほんとのゐどころ、桐壺、源氏の部屋
宮腹の中将は なかに親しく馴れきこえたまひて
遊び戯れをも人よりは心安く
なれなれしく振る舞ひたり
右大臣のいたはりかしづきたまふ住み処は この君もいともの憂くして 好きがましきあだ人なり
「宮腹」頭中将の母は帝の妹宮
「なかに」 とりわけ
「住み処」 すみか
「好きがましきあだ人」 好色
里にても
わが方のしつらひまばゆくして
君の出で入りしたまふにうち連れきこえたまひつつ
夜昼 学問をも遊びをももろともにして
をさをさ立ちおくれず
いづくにてもまつはれきこえたまふほどに
おのづからかしこまりもえおかず
心のうちに思ふことをも隠しあへずなむ
睦れきこえたまひける
「わが方のしつらひ」 頭中将自身の部屋の装飾
「君」 光源氏
「をさをさ」 めったに・・・せず
「睦る」 むつれ、仲が良い
つれづれと降り暮らして しめやかなる宵の雨に
殿上にもをさをさ人少なに
御宿直所も例よりはのどやかなる心地するに
大殿油近くて書どもなど見たまふ
「例よりは」 れいよりは、いつもより
「殿上」 てんじゃう、清涼殿の殿上人の詰め所
「御宿直所」 おほんとのゐどころ
「例よりは」れい、いつもよりは
「大殿油近くて」 おほとなぶら、燈火。て、接続助詞、連用修飾語につき状態を表す
「書」 ふみ
近き御厨子なる色々の紙なる文どもを引き出でて
中将わりなくゆかしがれば
「御厨子」 みづし、戸棚、恋文が詰まっていた
「ゆかしがる」 見たがる
さりぬべき すこしは見せむ
かたはなるべきもこそ
「ぬべき」 確述用法、準体法。見せても大丈夫なものに限って少しだけ見せてあげましょう
「かたは」 片端、体裁の悪い。見られたら困るものもありますから。
「もこそ」 悪い事態の予測、もこそあれ
と許したまはねば
そのうちとけてかたはらいたしと思されむこそゆかしけれ
おしなべたるおほかたのは 数ならねど 程々につけて 書き交はしつつも見はべりなむ
おのがじし 恨めしき折々
待ち顔ならむ夕暮れなどのこそ
見所はあらめ
「かたはらいたし」 きまりが悪い
「思されむ」 準体法
「おしなべて」 普通の
「おほかたの」 ありふれた
「数ならねど」 私(頭中将)のような詰まらない人間の場合でも
「程々につけて」 それはそれなりに、
「書き交はし」 かきかはし。私も書いたり、もらったりもした
「おのがじし」 (そんな詰まらないものではなく)、男と女が互いに恨めしく思ったり
「見所」 みどころ
と怨ずれば
やむごとなくせちに隠したまふべきなどは
かやうにおほぞうなる御厨子などにうち置き散らしたまふべくもあらず
深くとり置きたまふべかめれば
二の町の心安きなるべし
「怨ず」 ゑんず、恨み言をいう、愚痴をこぼす
「ば」 ・・・のであるが、それは、したがって、以下のようなことなのであろう。
「やむごとなく」 高貴な女性による
「せちに」 ひたすら
「おほぞうなる」 いいかげんな
「べかめれば」 大事なものならば、どこかにちゃんと隠しておくに違いないのだから、
「二の町」 二流の
片端づつ見るに
かくさまざまなる物どもこそはべりけれ とて 心あてに それか かれか など問ふなかに
言ひ当つるもあり
もて離れたることをも思ひ寄せて疑ふも をかしと思せど
言少なにてとかく紛らはしつつ とり隠したまひつ
「それか かれか」 これはあの女か、それからこちらはあの女か
「思ひ寄せて」 ぜんぜんはずれていることを憶測して
「をかしと思せど」 そのような頭中将を光源氏はにやにやしながら見ている
「言少なに」 ことすくなに
「とり隠し」 やっぱり見せるのをやめて、しまってしまう
そこにこそ多く集へたまふらめ
すこし見ばや
さてなむ この厨子も心よく開くべき
とのたまへば
「そこにこそ」 あなたのほうこそ
「ばや」 (光源氏の)願望
「さて」 条件、あなた(頭中将)のを見せてくれたら、私のも見せてあげましょう。
御覧じ所あらむこそ 難くはべらめ
など聞こえたまふついでに
「御覧じ所」 ごらんじどころ、見どころ、見て面白い
「難くはべらめ」 かたくはべらめ、ありません
「ついでに」 そのようなことを言った、そのついでに、
以下、頭中将の長い台詞が続く。
『雨夜の品定め』あまよのしなさだめ
女の これはしもと難つくまじきは 難くもあるかなと
やうやうなむ見たまへ知る
「しも」 下に打消の語を伴う、・・・でない
「難つくまじき」 なんつくまじき、悪い点がない人
「難くもある」 いない
「やうやう」 ようやく
ただうはべばかりの情けに
手走り書き をりふしの答へ心得てうちしなどばかりは
随分によろしきも多かりと見たまふれど
そもまことにその方を取り出でむ選びにかならず漏るまじきは いと難しや
「をりふしの答へ心得てうちし」 いらへ、その場に即した返答を上手にする
「随分に」 学んだ教養に従って
「そも」 それにしても
「その方」かた、選択の範疇。それに絶対漏れないという女はいない。
わが心得たることばかりを おのがじし心をやりて
人をば落としめなど
かたはらいたきこと多かり
「心得たる」 こころえたる、心得、こころう、素養がある
「心をやる」 得意になる
「かたはらいたし」 みっともない
親など立ち添ひもてあがめて 生ひ先籠れる窓の内なるほどは
ただ片かどを聞き伝へて 心を動かすこともあめり
「もて」 接頭語、強意
「あがむ」 大切に育てる
「生ひ先」 おひさき、将来
「籠れる窓の内」 箱入り娘
「片かど」 かたかど、ちょっとした取り柄、若い娘のちょっとした取り柄を聞きつけただけで、男は想像力から好意を寄せてしまう。
容貌をかしくうちおほどき 若やかにて紛るることなきほど
はかなきすさびをも
人まねに心を入るることもあるに おのづから一つゆゑづけてし出づることもあり
「容貌」 かたち
「おほどく」 おっとりしている
「紛るることなき」 まぎるることなき、家事などに忙しいということのない身分
「はかなきすさび」 たいしたことではない遊びごと
「心を入るる」 熱心にする
「ゆゑづく」 上手くなる

見る人 後れたる方をば言ひ隠し
さてありぬべき方をばつくろひて まねび出だすに
それ しかあらじ
と そらにいかがは推し量り思ひくたさむ
「見る人」 世話をする人
「後れたる方」 娘の劣っている部分に関しては
「さてありぬべき方」 そのままで良い部分をも、さらに盛って
「まねび出だす」 人に語る
「それ しかあらじ」 うそだろう
「そらに」 実際にその娘に会ったわけでもないのに
「思ひくたす」 思い腐す、悪く評価する
まことかと見もてゆくに 見劣りせぬやうは なくなむあるべき
「見もてゆく」もて、は接頭語。 その女と付き合い続けるうちに
「やう」 というような状態、というようなこと。
頭中将の長い台詞が終わる
と うめきたる気色も恥づかしげなれば
いとなべてはあらねど われ思し合はすることやあらむ
うちほほ笑みて
頭中将がそうは言いながらも恥ずかしそうにしているので、それに対し光源氏がうなづきながら思う
「いとなべてはあらねど」 すべての女がそうだというわけではないが
その 片かどもなき人は あらむや
とのたまへば
「片かどもなき人」 ちょっとした取り柄すら全然ない女が果たして存在するだろうか。光源氏が問う。
いと さばかりならむあたりには 誰れかはすかされ寄りはべらむ
取るかたなく口惜しき際と
優なりとおぼゆばかりすぐれたるとは
数等しくこそはべらめ
人の品高く生まれぬれば 人にもてかしづかれて 隠るること多く 自然にそのけはひこよなかるべし
中の品になむ 人の心々 おのがじしの立てたるおもむきも見えて 分かるべきことかたがた多かるべき
下のきざみといふ際になれば ことに耳たたずかし
頭中将が答える
「さばかり」 そのような、何の取り柄もない女
「すかす」 だます
「取るかたなく口惜しき際」 くちをしき、なんのとりえもないつまらない身分の低い女
「優」 いう、素晴らしい
「品」 しな、家柄、身分
「こよなし」 素晴らしい
「中の品」 なかのしな
「心々」 こころごころ、人それぞれの心
「おのがじしの立てたるおもむき」 個性
「分かるべきこと」 特徴
「かたがた」 各自
「下のきざみ」 しも、下層階級
「耳たつ」 興味をもつ
とて いと隈なげなる気色なるも ゆかしくて
「隈なげなる気色」 くま、けしき、頭中将のいかにも何でも知っているような様子
「ゆかし」 光源氏は興味をもった。以下は光源氏の台詞。
その品々や いかに
いづれを三つの品に置きてか分くべき
元の品高く生まれながら 身は沈み 位みじかくて人げなき
また直人の上達部などまでなり上り 我は顔にて家の内を飾り 人に劣らじと思へる
そのけぢめをば いかが分くべき
「その品々」 女を家柄、身分で範疇に分けるときの基準についての質問
「三つの品」 みつのしな、 上の品、かみのしな、中の品、なかのしな、下のきざみ、しものきざみ
「身は沈み」 窮地
「位みじかくて人げなき」くらゐ、落ちぶれて、みじめな暮らし
「直人」 なほびと、普通の身分の人
「我は顔」 ドヤ顔
と問ひたまふほどに 左馬頭 藤式部丞 御物忌に籠もらむとて参れり
世の好き者にて物よく言ひとほれるを 中将待ちとりて この品々をわきまへ定め争ふ
いと聞きにくきこと多かり
「左馬頭 藤式部丞」 ひだりのむまのかみ、とうしきぶのじょう
「御物忌」 おほんものいみ
「言ひとほれる」 詳しくペラペラと喋る
「わきまへ」 分類し議論する
なり上れども もとよりさるべき筋ならぬは
世人の思へることも さは言へど なほことなり
また 元はやむごとなき筋なれど 世に経るたづき少なく 時世に移ろひて おぼえ衰へぬれば
心は心としてこと足らず 悪ろびたることども出でくるわざなめれば
とりどりにことわりて 中の品にぞ置くべき
《独自の解釈、ここで登場した多弁な左馬頭の長い台詞と思われる。》
「なり上れども」 なりのぼれども
「世人」 よひと
「なほことなり」 (女についての話をしているのではあるが、この部分では家柄を世間の人たちがどう見ているかを述べている。)世間は上流の家柄とは見ない。
「世に経るたづき」よにふる、世渡りの上手さ
「時世」 ときよ、時勢の流れに追いつけずに
「おぼえ」 評判
「心は心として」 いくら気高い気持ちは持っていても、それはさておき。
「悪ろびたる」 わろびたる、体裁の悪いこと
「とりどりにことわりて」 個別的に評価して
受領と言ひて 人の国のことにかかづらひ営みて 品定まりたる中にも
またきざみきざみありて 中の品のけしうはあらぬ 選り出でつべきころほひなり
なまなまの上達部よりも非参議の四位どもの 世のおぼえ口惜しからず
もとの根ざし卑しからぬ やすらかに身をもてなしふるまひたる いとかはらかなりや
「受領」 ずりゃう、地方に赴任した国司
「きざみきざみ」 さらに細かい階級
「けしうはあらぬ」 準体法、悪くないもの
「ころほひ」 今の時世
「なまなま」 中途半端
「非参議の四位」ひさんぎのしゐ、三位以上の参議の役割をしている四位の役人
「口惜しからず」くちをしからず、悪くない
「かはらか」 かわらか、さっぱりしている
家の内に足らぬことなどはたなかめるままに 省かずまばゆきまでもてかしづける女などの
おとしめがたく生ひ出づるもあまたあるべし
宮仕へに出で立ちて 思ひかけぬ幸ひ とり出づる例ども多かりかし
など言へば
「はたなかめるまま」 なかんめる、金があるので、何も不足せず、なに不自由なく、甘やかされて育った娘
「おとしめがたく」 良い子に育った娘
すべて にぎははしきによるべきななり
とて 笑ひたまふを
(光源氏の台詞)
「にぎははし」 金持ち
異人の言はむやうに 心得ず仰せらる
と 中将憎む
「異人」 ことひと、まるでだれかあなたとは別の人間が
元の品 時世のおぼえうち合ひ やむごとなきあたりの
内々のもてなし けはひ 後れたらむは さらにも言はず
何をしてかく生ひ出でけむと 言ふかひなくおぼゆべし
うち合ひてすぐれたらむもことわり これこそはさるべきこととおぼえて めづらかなることと心も驚くまじ
なにがしが及ぶべきほどならねば 上が上はうちおきはべりぬ
(左馬頭の長い台詞が始まる。「さははべらぬか」まで、紫式部の筆は止まらない。どういう女を妻とするのが良いかについて左馬頭が実利的に延々と訓たれるのであるが、それとは対照的に、光源氏は美しい藤壺、見たことのない母によく似ていると言われる藤壺を心の底から密かに恋しく思っている。)
「時世」 ときよ
「うち合ひ」 良い評判が、もともとの立派な階級に相応していて
「あたり」 家
「内々のもてなし」 私的な場面での振る舞い
「後れたらむ」 ひどい
「うち合ひて」 立派な家柄と娘の振る舞いに矛盾がなく、
「ことわり」 それは当然だ。めずらしくも、なんともない。
「なにがし」 私(左馬頭)のような下級の人間には無縁な、最上級の家の最上級の女については語れません。
さて 世にありと人に知られず
さびしくあばれたらむ葎の門に
思ひの外にらうたげならむ人の閉ぢられたらむこそ 限りなくめづらしくはおぼえめ
いかで はたかかりけむと 思ふより違へることなむ あやしく心とまるわざなる
「世にありと人に知られず」 その存在が世間に知られていないような
「あばれたらむ葎の門」 むぐらのかど、荒れ果てた貧しい家
「らうたげ」可愛い
「かかりけむ」 かくありけむ
「より」 予想していたことは異なる
「あやしく心とまる」 不思議に心が惹きつけられる
父の年老い ものむつかしげに太りすぎ
兄の顔憎げに
思ひやりことなることなき閨の内に
いといたく思ひあがり
はかなくし出でたることわざも ゆゑなからず見えたらむ
片かどにても いかが思ひの外にをかしからざらむ
「ものむつかしげに」 むさくるしく
「閨」 ねや、女性の居室としての奥深い部屋。想像したとおりの貧しい家の奥のほうで
「思ひあがり」 気品のある
「はかなく」 ほんの少しだけ
「ことわざ」 芸
「ゆゑなからず」 趣がないわけではない
「片かど」 かたかど、 わずかな才芸
すぐれて疵なき方の選びにこそ及ばざらめ さる方にて捨てがたきものをは
「選び」 範疇。完全な女の範疇には入らないのではあるが
「さる方にて」 かた、それはそれで
「を」 間投詞、強調
「は」 係助詞
とて 式部を見やれば
わが妹どものよろしき聞こえあるを思ひてのたまふにや
とや心得らむ
ものも言はず
(左馬頭、ひだりのむまのかみ、から見た藤式部丞、とうしきぶのじょう、の様子)
「わが妹ども」 (藤式部丞の)評判の良い可愛い妹たちは、憎々しい兄のいる貧しい家の奥に住んでいる、ということなのかと。
いでや 上の品と思ふにだに難げなる世を
と 君は思すべし
白き御衣どものなよらかなるに 直衣ばかりを しどけなく着なしたまひて
紐などもうち捨てて 添ひ臥したまへる御火影
いとめでたく 女にて見たてまつらまほし
この御ためには上が上を選り出でても、なほ飽くまじく見えたまふ。
「いでや」 否定的な感動詞
「難げ」 かたげ、 上級の家でも良い女性はなかなか存在していないのに、と光源氏は思った
「世」 男女の仲
「御衣」 おほんぞ、光源氏の白い着物
「直衣」 なほし
「しどけなし」 きちんとではなく
「添ひ臥す」 ものに寄りかかって横になる
「御火影」 おほんほかげ、燈火に照らされた姿
「上が上」 かみがかみ
「飽く」 充分
さまざまの人の上どもを語り合はせつつ、
「上ども」 うへども、いろいろな女についての議論が続くなかで。
おほかたの世につけて見るには咎なきも
わがものとうち頼むべきを選らむに
多かる中にも えなむ思ひ定むまじかりける
お喋りな左馬頭のとても長い台詞が始まる。
「おほかたの」 軽い気持ちでの付き合い、遊びとしての付き合い
「見る」 異性と交わる
「咎」 とが、欠点
男の朝廷に仕うまつり はかばかしき世のかためとなるべきも まことの器ものとなるべきを取り出ださむには かたかるべしかし
「男」 をのこ
「朝廷」 おほやけ
「はかばかしき世のかため」 しっかりとした政治家
「器もの」 うつはもの、手腕のある人物
されど 賢しとても 一人二人世の中をまつりごちしるべきならねば
上は下に輔けられ 下は上になびきて 事広きにゆづらふらむ
「一人二人」 ひとりふたり、一人や二人だけで
「まつりごちしる」 政ごち領る、政治を行う。べし、可能(べき、連体形)。なり、断定(なら、未然形)。ず、打消(ね、已然形)。ば、接続助詞
「上は下に輔けられ」 かみはしもにたすけられ
「事広きに」 政治は事の範囲が広いので
「譲らふ」ゆずりあう
狭き家の内の主人とすべき人一人を思ひめぐらすに
足らはで悪しかるべき大事どもなむ かたがた多かる
「狭き家の内の主人人一人」 せばきいへのうちのあるじひとひとり、正妻
「足らはで悪しかるべき」 主婦として、できなくては困ること
「かたがた」 あれやこれや
とあればかかり あふさきるさにて
なのめにさてもありぬべき人の少なきを
好き好きしき心のすさびにて 人のありさまをあまた見合はせむの好みならねど
ひとへに思ひ定むべきよるべとすばかりに
同じくは わが力入りをし 直しひきつくろふべき所なく
心にかなふやうにもやと
選りそめつる人の、定まりがたきなるべし。
「とあればかかり」 連語、とあればかくあり、 一方が良いと他方が悪く
「あふさきるさ」逢離、 逢ふ時、来る時、ああも思い、こうも思う
「なのめに」 斜めに、まあまあ、ひととおり
「すさび」 いい加減な思いつきで
「人」 女
「思ひ定むべきよるべ」 正妻
「同じくは」 どうせなら、同じことなら、むしろ
「力入り」 努力
「ひきつくろふ」 引き繕ふ、欠点を直す
「そむ」 初む、・・・し始める、女をいろいろと選び始めた男は
かならずしもわが思ふにかなはねど 見そめつる契りばかりを捨てがたく思ひとまる人は
ものまめやかなりと見え
さて 保たるる女のためも 心にくく推し量らるるなり
「心にくし」 きっと素晴らしいところがある女なのだろうと推測される
されど 何か
世のありさまを見たまへ集むるままに 心に及ばずいとゆかしきこともなしや。
君達の上なき御選びには まして いかばかりの人かは足らひたまはむ
「何か」 いやいや
「世」 男女の仲
「ままに」 ・・・していると
「心に及ばず」 想像できないほどの
「ゆかし」 心が惹かれる
「君達」 きんだち
「上なし」 かみなし、 最上の
「人」 女
「足らひ」 たらふ
容貌きたなげなく 若やかなるほどの
おのがじしは塵もつかじと身をもてなし
文を書けど おほどかに言選りをし
墨つきほのかに心もとなく思はせつつ
また さやかにも見てしがなと すべなく待たせ
わづかなる声聞くばかり言ひ寄れど
息の下にひき入れ言少ななるが
いとよくもて隠すなりけり
「容貌」 かたち
「おのがじしは」 わたくしにはホコリもついていません、というように振る舞い
「おほどかに言選りをし」 ことえり、ゆったりとした語を選び
「心もとなし」 じれったい
「さやか」 分明、はっきりと(顔を)
「てしがな」 終助詞、・・・したいものだなあ
「言少な」 ことずくな
「もて隠す」 (欠点を)
なよびかに女しと見れば あまり情けにひきこめられて
とりなせば
あだめく
これをはじめの難とすべし
「女し」 をんなし
「とりなす」 男が女に調子を合わせる
「あだめく」 女はうわつく
事が中に なのめなるまじき人の後見の方は もののあはれ知り過ぐし
はかなきついでの情けあり
をかしきに進める方なくてもよかるべしと見えたるに
「事」 家事
「なのめなるまじき」 いいかげんにしてはいけない
「後見の方」 世話に関して
「知り過ぐし」 意識しすぎて、気にかけすぎて
「はかなし」 どうでもいいような
「情け」 風流
「をかしき」 いちいち趣のあるなしにこだわる必要があるのか
また まめまめしき筋を立てて耳はさみがちに美さうなき家刀自の
ひとへにうちとけたる後見ばかりをして
「また」 そうかといって、しかしながら
「まめまめし」 実直、実用的
「筋」 すぢ、 動作、振る舞い
「耳はさみがち」 品位なく、なりふりかまわず立ち働くときに額髪を耳のうしろにかきやること
「美さう」 びさう 美相 美しさ
「家刀自」 いへとうじ 主婦
「うちとく」 気を許す
「後見」 世話
朝夕の出で入りにつけても
公私の人のたたずまひ 善き悪しきことの 目にも耳にもとまるありさまを
疎き人に わざとうちまねばむやは
近くて見む人の 聞きわき思ひ知るべからむに
語りも合はせばやと
うちも笑まれ 涙もさしぐみ
もしは あやなきおほやけ腹立たしく 心ひとつに思ひあまることなど多かるを
何にかは聞かせむと思へば
うちそむかれて
人知れぬ思ひ出で笑ひもせられ
あはれ とも うち独りごたるるに
何ごとぞ など あはつかにさし仰ぎゐたらむは
いかがは口惜しからぬ
(夫の人間関係などに疎く、夫がそれらを語っても、妻がちんぷんかんぷんだったら、話にならない。)
「出で入り」 いでいり、勤めに出たり、帰宅したりするときに
「公私の」 おほやけわたくしの、社会的および個人的
「疎き人」 赤の他人
「まねぶ」 あった事をその通り語り伝える
「やは」 はたして・・・であろうか、反語。(親しい妻だからこそ、そのようなことも話したりするのだ。ところが、)
「近くて見む人」 妻
「べからむ」 ・・・することができるだろう。わかってもらえるだろうという期待があればこそ、
「ばや」 終助詞、自己の願望
「うちも」 自然に
「あやなし」 不条理
「何にかは聞かせむ」 ところが、もし、あんな妻には話しても無駄だというような状態だったら
「そむかれ」「せられ」「るる」 自発、動作主は夫
「何ごとぞ」 あら、なにかしら
「あはつかに」 間抜けっぽく
「さし仰ぐ」 さしあふぐ、上の方を仰ぎ見る
ただひたぶるに子めきて柔らかならむ人を
とかくひきつくろひてはなどか見ざらむ
心もとなくとも 直し所ある心地すべし
げに さし向ひて見むほどは さてもらうたき方に罪ゆるし見るべきを
立ち離れて さるべきことをも言ひやり
をりふしにし出でむわざのあだ事にもまめ事にも
わが心と思ひ得ることなく深きいたりなからむは いと口惜しく頼もしげなき咎や なほ苦しからむ
常はすこしそばそばしく心づきなき人の をりふしにつけて出でばえするやうもありかし
「ひたぶるに」 一向に、ひたすら、一途に
「子めく」 子供のように
「柔らか」 やはらか、従順、すなお
「ひきつくろふ」 欠点を直す
「などか見ざらむ」 どうして妻とせずにいられようか
「直し所ある」 なほしどころ、直す甲斐がある
「さし向ふ」 さしむかふ、 一緒に生活する
「らうたし」 可愛い
「さるべきこと」 家での然るべき用事、
「をりふしにし出でむわざ」 行事
「あだ事にもまめ事にも」 ちょっとした事にも大事な事にも
「わが心と思ひ得ることなく」 おもひうる、 妻が自分一人では判断ができず
「咎」 とが、欠点
「そばそばし」 かどかどしい、よそよそしい
など 隈なきもの言ひも 定めかねて いたくうち嘆く
この一行は左馬頭の長い台詞の合間の地の文
「隈なき」 (左馬頭の)何でも知っていて、よく喋る様子
「定めかねて」 考えがまとまらず
今は ただ 品にもよらじ
容貌をばさらにも言はじ
いと口惜しくねぢけがましきおぼえだになくは ただひとへにものまめやかに
静かなる心のおもむきならむよるべをぞ、つひの頼み所には思ひおくべかりける
「ねぢけがまし」 ひねくれた
「だになくは」 さえなけりば
「ものまめやか」 真面目
「よるべ」 妻
あまりのゆゑよし心ばせうち添へたらむをば よろこびに思ひ
すこし後れたる方あらむをも あながちに求め加へじ
うしろやすくのどけき所だに強くは うはべの情けは おのづからもてつけつべきわざをや
「あまりの」 必要以上の
「ゆゑよし」 趣を解する洗練された教養
「心ばせ」 情操
「後る」 劣る
「あながちに」 強ちに、強引に、無理矢理
「うしろやすし」 これから先も安心できる
「情け」 なさけ、風流なことの理解
「もてつく」 身にそなわるようになる
艶にもの恥ぢして 恨み言ふべきことをも見知らぬさまに忍びて
上はつれなくみさをつくり
心一つに思ひあまる時は 言はむかたなくすごき言の葉 あはれなる歌を詠みおき
しのばるべき形見をとどめて 深き山里 世離れたる海づらなどにはひ隠れぬるをり
(夫の浮気に関して)
「艶に」 えんに、(女が)しとやかそうな様子ぶること、
「上は」 うへは、うわべは
「つれなし」 平気
「みさをつくる」 操作る、平気な様子をする
「心一つに思ひあまる」 堪忍袋の緒が切れる。
「あはれなる歌」 人の心に訴えかけるような歌
「世離る」 よばなる
「はひ隠る」 這ひ隠る
「ぬる」準体法、「をり」 居り
童にはべりし時 女房などの物語読みしを聞きて
いとあはれに悲しく 心深きことかなと
涙をさへなむ落としはべりし
今思ふには いと軽々しく ことさらびたることなり
「ことさらぶ」 殊更ぶ、わざとらしい、あてつけがましい
心ざし深からむ男をおきて
見る目の前につらきことありとも
人の心を見知らぬやうに逃げ隠れて
人をまどはし
心を見むとするほどに
長き世のもの思ひになる
いとあぢきなきことなり
「人をまどはす」 夫をまごつかせる
「心を見む」 わざと姿を消して、夫の気持ちを試す
「長き世」 残りの一生
「もの思ひ」 後悔
心深しや など ほめたてられて あはれ進みぬれば やがて尼になりぬかし
思ひ立つほどは いと心澄めるやうにて 世に返り見すべくも思へらず
いで あな悲し かくはた思しなりにけるよ
などやうに あひ知れる人来とぶらひ
ひたすらに憂しとも思ひ離れぬ男 聞きつけて涙落とせば
使ふ人 古御達など
君の御心は あはれなりけるものを あたら御身を
など言ふ
みづから額髪をかきさぐりて あへなく心細ければ うちひそみぬかし
忍ぶれど涙こぼれそめぬれば 折々ごとにえ念じえず 悔しきこと多かめるに
仏もなかなか心ぎたなしと 見たまひつべし
濁りにしめるほどよりも なま浮かびにては かへりて悪しき道にも漂ひぬべくぞおぼゆる
(調子に乗って尼になってしまった妻の後悔。藤原道綱母、ふじわらのみちつなのはは、『蜻蛉日記 かげろうにっき』より)
「かし」 終助詞、強く念を押す
「世に返り見」かへりみ、顧み、出家前のことをあれこれ思い返すことも、もうきっぱりとしない
「いで」 感動詞
「はた」 そうは言うものの
「とぶらふ」 訪ふ
「ひたすらに憂し」 夫のことが100パーセント嫌いになったというわけでもない、「ぬ」ず。
「古御達」 ふるごたち、歳をとった女房たち
「君」 だんな様
「あはれ」 愛着
「あたら」 惜、 感動詞
「額髪」 ひたひがみ、当時の尼は髪をそいでいた
「うちひそむ」 顔をしかめて、泣き顔になる
「念ず」 こらえる
「心ぎたなし」 仏が尼のことを未練がましい女、思い切りが悪い女と思う
「しむ」 染む、俗世に生きる
「なま浮かび」 出家していても、悟りきれていない状態
「」ゐゑろロー心頃色労所
絶えぬ宿世浅からで
尼にもなさで 尋ね取りたらむも
やがてあひ添ひて
とあらむ折も かからむきざみをも
見過ぐしたらむ仲こそ 契り深くあはれならめ
我も人も うしろめたく心おかれじやは
「宿世」 すくせ、前世からの因縁
「で」 接続助詞。未然形+、・・・しないで、・・・ではなくて。
「尋ね取る」 たづねとる、(出ていった妻を夫が)捜し出して迎える。尼にならずにすんだ場合。
「やがて」 そのまま
「とある」 ちょっとした
「かかる」 かくある、こんな
「きざみ」 おり
「見過ぐす」 見のがす
「我も人も」 夫も妻も
「やは」 否定+やは、・・・せずにはいられようか。
「心おく」 心置く、思いを残す、気を使う。いずれにせよ大騒ぎしたことはあとあとまで後悔するであろう。
また なのめに移ろふ方あらむ人を恨みて 気色ばみ背かむ
はたをこがましかりなむ
心は移ろふ方ありとも 見そめし心ざしいとほしく思はば
さる方のよすがに思ひてもありぬべきに
さやうならむたぢろきに 絶えぬべきわざなり。
「なのめに移ろふ方」 別な女
「をこがまし」 馬鹿に見える
「見そめし心ざし」 結婚当初の愛情
「さる方のよすがに」 そのような縁、夫が妻を前世からの縁として長いスパンで認識している場合もあるだろうに
「たぢろき」 進み得ないでぐずぐすすること
「絶ゆ」 離縁する
すべて よろづのことなだらかに
怨ずべきことをば見知れるさまにほのめかし
恨むべからむふしをも憎からずかすめなさば
それにつけて あはれもまさりぬべし
多くは わが心も見る人からをさまりもすべし
あまりむげにうちゆるべ 見放ちたるも 心安く らうたきやうなれど
おのづから軽き方にぞおぼえはべるかし
繋がぬ舟の浮きたる例も、げにあやなし
さははべらぬか
「なだらかに」 かどが立たないように
「怨ず」 ゑんず
「わが心」 夫の浮気心
「見る人」 妻。妻の態度次第で夫の浮気心も消えていく
「ゆるぶ」 監視をゆるめる
「例」 ためし
「も あやなし」 そのような喩えもあるので、放任主義は正しくない
「さははべらぬか」 そうではありませんか、と問い、左馬頭のレクチャーは終わる。
と言へば 中将うなづく
さしあたりて
をかしとも あはれとも 心に入らむ人の
頼もしげなき疑ひあらむこそ 大事なるべけれ
わが心あやまちなくて 見過ぐさば さし直しても などか見ざらむとおぼえたれど それさしもあらじ
ともかくも 違ふべきふしあらむを のどやかに見忍ばむよりほかに ますことあるまじかりけり
(頭中将の台詞)
「心に入らむ人」 好きになった妻が
「頼もしげなき」 不安な。(もしかしたら妻は浮気をしているのかもしれない)
「わが心あやまちなくて」 夫のほうには、とがはなく
「さし直す」 さしなほす、妻を教育してでも
「などか見ざらむ」 勿論、これからもつきあいは続くにきまっているはずだ
「それさしもあらじ」 そう上手くはいかないようだ
「違ふ」 たがふ、夫婦の仲が上手くいかない
「ますこと」 まさること、じっと大目に見ることが最良の策
と言ひて わが妹の姫君は この定めにかなひたまへりと思へば
君のうちねぶりて言葉まぜたまはぬを さうざうしく心やましと思ふ
馬頭 物定めの博士になりて ひひらきゐたり
中将は このことわり聞き果てむと 心入れて あへしらひゐたまへり。
(地の文)
「わが妹の姫君」 頭中将の妹の葵上
「定め」 頭中将の考えるところの良い妻としての理想的な振る舞い
「君」 光源氏
「うちねぶる」 打ち眠る
「さうざうし」 「心やまし」物足りない、不満
「物定め」 物事の良し悪しの判定
「ひひらく」 べらべら喋る
「果つ」 補助動詞、最後まで完全に・・・する
「あへしらふ」 応答する
よろづのことによそへて思せ
木の道の匠のよろづの物を心にまかせて作り出だすも
臨時のもてあそび物の その物と跡も定まらぬは
そばつきざればみたるも げにかうもしつべかりけりと
時につけつつ さまを変へて
今めかしきに目移りて をかしきもあり
(再び左馬頭が長々と喋り始める。「好き好きしくとも申しはべらむ」まで。)
「よそふ」 寄そふ、関係づける、比べる、なぞらえる、たとえる
「木の道の匠」 指物師
「心にまかせて」 心に自由にゆだねて、
「もてあそび物」 おもちゃ、飾り、など
「その物と跡も定まらぬ」 これはこういう物といった型
「そばつき」 側つき、かたわらから見た様子
「ざればむ」 戯ればむ、洒落た感じがする
「べかり」 べし、可能。このようなものも作れるのだなあ
「をかしき」 準体法
大事として
まことにうるはしき人の調度の飾りとする
定まれるやうある物を難なくし出づることなむ
なほまことの物の上手は さまことに見え分かれはべる
「大事」 だいじ、大切なもの
「うるはしき人」 立派な人
「調度」 てうど、日常の道具
「やう」 様、形式、模範
「上手」 じゃうず、名人
「ことに」 異に
また絵所に上手多かれど
墨がきに選ばれて 次々に さらに 劣りまさるけぢめ ふとしも見え分かれず
かかれど 人の見及ばぬ蓬莱の山 荒海の怒れる魚の姿 唐国のはげしき獣の形 目に見えぬ鬼の顔などの
おどろおどろしく作りたる物は
心にまかせてひときは目驚かして
実には似ざらめど さてありぬべし
「絵所」 ゑどころ、宮中で絵画を担当
「墨がき」 構図、下絵を決める、ひとりの一番偉い人
「さらに」+否定、 まったく・・・できない
「けぢめ」 優劣の区別
「ふとしも」 全然・・・できない
「魚」 いを
「唐国のはげしき獣」 からこく、けだもの
「実」 じち
「さて」 そのような状態で。それで構わない。
世の常の山のたたずまひ
水の流れ 目に近き人の家居ありさま げにと見え
なつかしくやはらいだる形などを静かに描きまぜて
すくよかならぬ山の景色 木深く世離れて畳みなし
け近き籬の内をば
その心しらひおきてなどをなむ
上手はいと勢ひことに
悪ろ者は及ばぬ所多かめる。
「目に近し」 見慣れた
「人の家居」 ひとのいへゐ
「げに」 実際にこのようなものである
「木深く」 こぶかく
「け近き籬」 けぢかき。まがき、竹・柴などであらく編んだ垣
「心しらひ」 細かな趣
「おきて」 掟、手法、技法
「勢ひことに」 いきほい異に
手を書きたるにも 深きことはなくて
ここかしこの 点長に走り書き
そこはかとなく気色ばめるは うち見るにかどかどしく気色だちたれど
なほまことの筋をこまやかに書き得たるは
うはべの筆消えて見ゆれど
今ひとたびとり並べて見れば なほ実になむよりける。
「点長」 てんなが、書道で、達筆めかして、ずらずらと長く引いて書くこと
「そこはかとなく」 なんとなく
「気色」 けしき、趣がある、気取り
「かどかどし」 才々し、いかにも才気があるように見える
「まことの筋」 正統的な技法
「なほ」 やはり
「よる」 寄る、心が惹かれる
はかなきことだにかくこそはべれ
まして人の心の 時にあたりて気色ばめらむ見る目の情けをば
え頼むまじく思うたまへ得てはべる
そのはじめのこと 好き好きしくとも申しはべらむ
「はかなきこと」 芸などの、どうでもよいこと
「見る目」 外見
「情け」 情愛
「頼む」 判断の基準とする
「はじめ」 左馬頭がある女性を好きになった当初の出来事、体験談
「好き好きし」 好色めいている
(左馬頭の長いレクチャーがやっと終わるかと思うと、ここから佳境に入るらしい。)
とて 近くゐ寄れば 君も目覚ましたまふ
中将いみじく信じて 頬杖をつきて向かひゐたまへり
法の師の世のことわり説き聞かせむ所の心地するも
かつはをかしけれど かかるついでは おのおの睦言もえ忍びとどめずなむありける。
「信ず」 左馬頭の話を真剣に聞く
「頬杖」 つらづえ
「法の師」 のりのし、僧侶
「かつは」 且つは、それと同時に、その一方
「をかし」 不真面目、おもしろ半分
「ついで」 ことの次第、機会
「睦言」 むつごと、むつまじく語り合う話
はやう まだいと下臈にはべりし時 あはれと思ふ人はべりき
聞こえさせつるやうに 容貌などいとまほにもはべらざりしかば
若きほどの好き心には この人をとまりにとも思ひとどめはべらず
よるべとは思ひながら さうざうしくて とかく紛れはべりしを
もの怨じをいたくしはべりしかば 心づきなく
いとかからで おいらかならましかばと思ひつつ
あまりいと許しなく疑ひはべりしもうるさくて
かく数ならぬ身を見も放たで などかくしも思ふらむと
心苦しき折々もはべりて 自然に心をさめらるるやうになむはべりし
(左馬頭のレクチャー)
「下臈」 げらふ、官位の低い者
「聞こえさず」 申し上げる
「まほ」 整っている
「とまり」 本妻
「よるべ」 妻
「さうざうし」 もの足りない
「紛る」 まぎる、浮気をする
「もの怨じ」 ものゑんじ、嫉妬
「心づきなし」 いとわしい
「かからで」 かくあらで、こんなふうではなくて
「おいらか」 おっとりしている
「かく数ならぬ身を」 (なぜこの女は私のような)このような無価値な男を、
「見放つ」 見捨てる
「などかくしも」 など、副詞、なぜ。しも、副助詞、強調
「自然に」 じねんに、浮気心が収まった
この女のあるやう
もとより思ひいたらざりけることにも いかでこの人のためにはと
なき手を出だし 後れたる筋の心をも なほ口惜しくは見えじと思ひはげみつつ
とにかくにつけて ものまめやかに後見 つゆにても心に違ふことはなくもがなと思へりしほどに
進める方と思ひしかど とかくになびきてなよびゆき
醜き容貌をも この人に見や疎まれむと わりなく思ひつくろひ
疎き人に見えば 面伏せにや思はむと 憚り恥ぢて
みさをにもてつけて見馴るるままに
心もけしうはあらずはべりしかど
ただこの憎き方一つなむ 心をさめずはべりし。
「あるやう」 ある様、人柄
「もとより」 元来、その女自身がそもそも気にかけていなかったような
「この人のため」 この男のため
「なき手を出だす」 無理な手段をめぐらす
「後れたる筋の心」 不得意なことに関しても
「口惜しく」 くちをし、劣っている
「進める方」 勝ち気な女
「わりなく」 無駄を承知で
「疎き人」 知らない人、 赤の他人
「見ゆ」 見せる、見られる
「面伏せ」 おもてぶせ、夫がそれが夫にとっての不名誉、恥と感じたら困る
「みさをに」 常に
「もてつけ」 そのままの形を保って
「見馴るる」 会い続ける、一緒に暮らす、なじむ
「けしうはあらず」 悪くはない
「憎き方一つ」 ただ一つの欠点、(嫉妬深さ)
そのかみ思ひはべりしやう
かうあながちに従ひ怖ぢたる人なめり
いかで懲るばかりのわざして おどして
この方もすこしよろしくもなり さがなさもやめむと思ひて
まことに憂しなども思ひて絶えぬべき気色ならば
かばかり我に従ふ心ならば思ひ懲りなむと思うたまへ得て
ことさらに情けなくつれなきさまを見せて
例の腹立ち怨ずるに
「そのかみ」 其の上、そのとき、その当時
「やう」 様、こと
「人」 女
「この方」 (嫉妬深さ)
「憂し」 うし、左馬頭がこの女に対し嫌気が差している様子をわざと見せてみれば
「絶ゆ」 離縁する
「例の」 れいの、例によって
「怨ず」 ゑんず、女が怒りをみせた折に
かくおぞましくは いみじき契り深くとも 絶えてまた見じ
限りと思はば かくわりなきもの疑ひはせよ
行く先長く見えむと思はば つらきことありとも 念じてなのめに思ひなりて
かかる心だに失せなば いとあはれとなむ思ふべき
人並々にもなり すこしおとなびむに添へて また並ぶ人なくあるべき
(左馬頭が女に向かって言った)
「また見じ」 離縁して、もう二度と合わないことにする。じ、打消し推量。○ ○ じ じ じ ○
「限りと思はば」 あなたがこれが別れでもよいと思うのならば
「わりなし」理不尽
「もの疑ひ」 嫉妬
「なのめ」 深刻にではなく
「かかる心」 このような嫉妬心
「思ふべき」 私(左馬頭)もあなたのことを可愛いと思うであろう
「人並々」 ひとなみなみ、 いつかは人並みに出世し
「おとなぶ」 大人ぶ
「添へて」 私が偉くなったその暁には
「並ぶ人なく」 正妻
やうなど
かしこく教へたつるかなと思ひたまへて
われたけく言ひそしはべるに
すこしうち笑ひて
「やうなど」 そのようなことなどを女に言ったら
「教へたつ」 をしへ立つ
「われたけし」 我猛し
「言ひそす」 度を過ごして言ってしまう
「うち笑ひて」 すると、女は微笑んで
よろづに見立てなく ものげなきほどを見過ぐして
人数なる世もやと待つ方は、いとのどかに思ひなされて 心やましくもあらず
つらき心を忍びて 思ひ直らむ折を見つけむと
年月を重ねむあいな頼みは いと苦しくなむあるべければ かたみに背きぬべききざみになむある
(女は答えて)
「見立てなし」 みだてなし、みすぼらしい、見栄えがしない
「ものげなきほど」 うだつが上がらない期間
「人数」 ひとかず、人並みに社会的に認められる
「世」 そのような身分になる折、機会が来ること
「待つ方は」 待つということは
「心やまし」 不満
「つらき心」 夫の浮気
「あいな頼み」 あいなだのみ、あてにならない期待
「かたみに」 私達ふたりが互いに
「背く」そむく、別れる
「きざみ」 刻み、時
(と、女は答えた。)
と ねたげに言ふに
腹立たしくなりて 憎げなることどもを言ひはげましはべるに
女もえをさめぬ筋にて 指ひとつを引き寄せて喰ひてはべりしを
おどろおどろしくかこちて、
「ねたげ」 憎しみを込めて
「言ひはげます」 言ひ励ます、 左馬頭が責め立てる
「喰ふ」 くふ、左馬頭の指に噛みつく
「かこつ」 左馬頭がそれに不平を言う
かかる疵さへつきぬれば いよいよ交じらひをすべきにもあらず
辱めたまふめる官位 いとどしく何につけてかは人めかむ
世を背きぬべき身なめり
など言ひ脅して
さらば 今日こそは限りなめれ
と この指をかがめてまかでぬ
「交じらひ」 朝廷での職務
「辱めたまふめる官位」 はづかしめ、つかさくらゐ、
「いとどしく」 ますますひどくなり
「つく」 応じる
「人めく」 一人前になる
「背く」 そむく、出家する
「指」 および
手を折りて あひ見しことを 数ふれば
これひとつやは 君が憂きふし
左馬頭の詠んだ歌
「手を折る」 てををる 指を折って数える
「あひ見る」 男女が関係を結ぶ
「やは」 係助詞、反語的疑問
「ふし」 節、箇所
えうらみじ
など言ひはべれば さすがにうち泣きて
憂きふしを 心ひとつに 数へきて
こや君が手を 別るべきをり
女の返歌
「憂きふし」 左馬頭の浮気癖
「心ひとつに 数へきて」 私の心のなかでずっと耐えてきましたが
「こ」 今回のこの指を噛んだ事件が
など、言ひしろひはべりしかど
まことには変るべきこととも思ひたまへずながら
日ごろ経るまで消息も遣はさず あくがれまかり歩くに
臨時の祭の調楽に 夜更けていみじう霙降る夜 これかれまかりあかるる所にて
思ひめぐらせば なほ家路と思はむ方はまたなかりけり
「言ひしろふ」 言い合いをする、口論する
「あくがれ歩く」 ありく、上の空で日々を過ごす
「臨時の祭の調楽」 でうがく、冬の賀茂の臨時の祭の演奏の練習
「霙」 みぞれ
「これかれ」 演奏の仲間たち
「まかりあかる」 退散する
内裏わたりの旅寝すさまじかるべく
気色ばめるあたりはそぞろ寒くや と思ひたまへられしかば
いかが思へると 気色も見がてら 雪をうち払ひつつ
なま人悪ろく爪喰はるれど さりとも今宵日ごろの恨みは解けなむ と思うたまへしに
火ほのかに壁に背け
萎えたる衣どもの厚肥えたる 大いなる籠にうち掛けて
引き上ぐべきものの帷子などうち上げて 今宵ばかりやと 待ちけるさまなり
さればよと 心おごりするに 正身はなし
さるべき女房どもばかりとまりて
親の家に この夜さりなむ渡りぬる
と答へはべり
「内裏わたり」 うちわたり、宮中
「旅寝」 たびね、常の住まいではない所に泊まること
「すさまじ」 面白くない
「気色ばめるあたり」 けしき、(あとで登場する)気取った女の家
「いかが思へる」 私の指を噛んだあの女は今どのような気持ちでいるのか
「気色」 様子
「人悪ろ」 ひとわろし、体裁が悪い
「爪喰ふ」 はずかしく思う
「火ほのかに壁に背け」 灯火を壁側に向けて部屋を暗くする
「萎えたる衣」 きぬ、糊が落ちて柔らかくなっている
「厚肥ゆ」 あつごゆ
「籠」 こ、伏せた籠に着物を被せるようにする
「帷子」 かたびら、 女は垂れ絹を上げて、男の来訪を待っていた
「さればよ」 然ればよ、やはりそうであったか。(と思って家に入っていった)
「正身」 さうじみ、 本人の姿
「さるべき女房ども」 遊びに来ていた友達たちではなく、その家で仕えている人たち
「とまる」 いる
「この夜」 今晩からは、親の家に住むことにした
艶なる歌も詠まず 気色ばめる消息もせで
いとひたや籠もりに情けなかりしかば
あへなき心地して
さがなく許しなかりしも 我を疎みねと思ふ方の心やありけむと
さしも見たまへざりしことなれど
心やましきままに思ひはべりしに
着るべき物 常よりも心とどめたる色あひ しざまいとあらまほしくて
さすがにわが見捨ててむ後をさへなむ 思ひやり後見たりし
「消息」 せうそこ
「ひたや籠もり」 ひたやごもり、ひたすら家にひきこもること
「さがなく許しなかりしも」 左馬頭に嫌われるのを承知で浮気を許さないでいたのも
「我を疎みねと思ふ方の心」 女のほうから自分のことを嫌いになってほしいと願う
「さしも見たまへざりし」 女の態度をそのようには解釈したことはなかった
「わが」 左馬頭のほうから女を見捨てたのにも関わらず
さりとも、絶えて思ひ放つやうはあらじ
と思うたまへて
とかく言ひはべりしを
背きもせずと 尋ねまどはさむとも隠れ忍びず かかやかしからず答へつつ
ただ
ありしながらは えなむ見過ぐすまじき
あらためてのどかに思ひならばなむ あひ見るべき
など言ひしを さりともえ思ひ離れじと思ひたまへしかば しばし懲らさむの心にて
しかあらためむ
とも言はず いたく綱引きて見せしあひだに
いといたく思ひ嘆きて はかなくなりはべりにしかば、戯れにくくなむおぼえはべりし。
「思ひ放つ」 女が左馬頭から完全に離れていくことはあるまいと、左馬頭は思っていた
「とかく」 元の仲に戻ろうと、あれやこれや
「背く」 そむく、反対する
「かかやかしからず」 左馬頭のことを辱めない程度に
「答へ」 いらへ
「ありしながらは」 (女の返事)以前のままの、(浮気癖)
「のどかに」 浮気などせずに落ち着いて
「え思ひ離れじ」 女のほうから別れることを決めることはないだろう
「しか」 ならば、そのように改心いたしましょう
「綱引く」 つなひく、強情を張る
「はかなくなる」 死ぬ
「戯れにくし」 たはぶれにくし、後悔
ひとへにうち頼みたらむ方は さばかりにてありぬべくなむ思ひたまへ出でらるる
はかなきあだ事をもまことの大事をも 言ひあはせたるにかひなからず
龍田姫と言はむにもつきなからず 織女の手にも劣るまじくその方も具して うるさくなむはべりし
とて いとあはれと思ひ出でたり
「ひとへにうち頼みたらむ方」 一生いっしょにいる正妻
「言ひあはす」 相談する
「かひなからず」 無駄ではなく
「龍田姫」 たつたひめ、染め物の神
「織女」 たなばた、と読む
「うるさし」 こまかいことまで気を配る、すばらしい
(左馬頭の思い出話が終わる)
中将
その織女の裁ち縫ふ方をのどめて、長き契りにぞあえまし
げに その龍田姫の錦には また しくものあらじ
はかなき花紅葉といふも をりふしの色あひつきなく はかばかしからぬは 露のはえなく消えぬるわざなり
さあるにより 難き世とは 定めかねたるぞや
と 言ひはやしたまふ
(頭中将の台詞)
「裁ち縫ふ方をのどめて」 たちぬふかた、織姫の機織りの技術のほうはひとまず置いておいても
「あゆ」 肖ゆ、あやかる、彦星との契りの長さに
「しく」 如く、匹敵する
「はかなき」 かりそめの、龍田姫の錦の永遠性とは対照的に、現実の風景では、
「をりふしの」 その時々の偶然性においての
「つきなく」 不調和、もしも不調和な場合には、見栄えもせずに消滅する
「難き世」 かたきよ、(良い妻をもつことが)難しい有り様
「定めかねたる」 一人の正妻を決定しかねることをもって、難き世と呼ばれる
「言ひはやす」
さて また同じころ まかり通ひし所は
人も立ちまさり 心ばせまことにゆゑありと見えぬべく
うち詠み 走り書き 掻い弾く爪音 手つき口つき
みなたどたどしからず 見聞きわたりはべりき
見る目もこともなくはべりしかば
このさがな者を うちとけたる方にて
時々隠ろへ見はべりしほどは こよなく心とまりはべりき
この人亡せて後 いかがはせむ あはれながらも 過ぎぬるは かひなくて
しばしばまかり馴るるには
すこしまばゆく艶に好ましきことは 目につかぬ所あるに うち頼むべくは見えず
かれがれにのみ見せはべるほどに
忍びて心交はせる人ぞありけらし。
(左馬頭のふたつ目の長い思い出話が始まる。)
「人も立ちまさり」 良い身分
「心ばせ」 情操
「掻い弾く爪音」 かいひくつまおと
「見る目」 容貌
「さがな者」 やかまし屋、 さきほどの話の指を噛んだ女のこと
「うちとけたる方にて」 普通に帰る家として
「隠ろへ」 かくろへ
「心とまる」心留まる、好意をもつ
「亡す」 うす
「過ぎぬるは」 死んだことは、かわいそうではあるが、しょうがないので
「まかり馴るるには」 通うのが習慣化するうちに、
「目につかぬ所」 気に入らない要素
「かれがれにのみ」 たまにしか、会っていないうちに
「人」 別の男
神無月のころほひ 月おもしろかりし夜
内裏よりまかではべるに ある上人来あひて この車にあひ乗りてはべれば
大納言の家にまかり泊まらむとするに
この人言ふやう
今宵人待つらむ宿なむ あやしく心苦しき
とて
この女の家はた避きぬ道なりければ 荒れたる崩れより池の水かげ見えて
月だに宿る住処を過ぎむもさすがにて
下りはべりぬかし
「夜」 よ
「内裏」 うち
「ある上人」 うへびと、殿上人、実は上記の「忍びて心交はせる人」だった
「この車」 くるま、左馬頭の牛車、左馬頭自身は大納言の家に向かう
「人」 上人の女
「あやしく心苦しき」妙に、いたわしく、気にかかる
「はた避きぬ」 はた・・・否定、決して・・・できない
「かげ」 月の光
「月だに宿る」 月でさえ泊まっていく家
「過ぎむもさすがにて」 通り過ぎてしまうのでは、さすがにつまらないので
「下る」 おる、上人につづいて左馬頭自身も牛車を降りた
もとよりさる心を交はせるにやありけむ
この男いたくすずろぎて 門近き廊の簀子だつものに尻かけて とばかり月を見る
菊いとおもしろく移ろひわたり 風に競へる紅葉の乱れなど あはれと げに見えたり
「すずろぐ」 そわそわする
「門近き廊の簀子だつもの」 かどちかきらうのすのこだつもの、・・・だつ、・・・のような
「とばかり」 ちょっとの間
「移ろふ」 色が変わる
「競ふ」 きほふ、散り乱れる
懐なりける笛取り出でて吹き鳴らし
蔭もよし などつづしり謡ふほどに
よく鳴る和琴を 調べととのへたりける うるはしく掻き合はせたりしほど けしうはあらずかし
律の調べは 女のものやはらかに掻き鳴らして 簾の内より聞こえたるも
今めきたる物の声なれば 清く澄める月に折つきなからず
「蔭もよし」 催馬楽 さいばら。飛鳥井に 《宿りはすべし》 陰もよし みもひもさむし みまくさもよし(水も清く冷たい 稲穂も美しい)
「つづしる」 少しずつ歌う
「和琴」 わごん
「けしうはあらず」 悪くない
「律」 りち
「簾の内」 すのうち
「折」 をり、ちょうど、その日その時の月の姿と、折りよく
「つきなからず」 音楽が調和していた
男いたくめでて 簾のもとに歩み来て
庭の紅葉こそ 踏み分けたる跡もなけれ
など ねたます
菊を折りて
「ねたます」 (女を)からかって憎らしいと思わせる。イジる。上人は女に、この家には訪ねてくる人がいない、などと言った。
琴の音も 月もえならぬ 宿ながら
つれなき人を ひきやとめける
上人の歌
「えならず」 素晴らしい
「ひきやとめける」 美しい琴の音、美しい月の家ではありますが、冷たい男を引き留めるのには苦労なさっているようですね。
悪ろかめり
など言ひて
今ひと声 聞きはやすべき人のある時 手な残いたまひそ
など いたくあざれかかれば
女 いたう声つくろひて
「悪ろかめり」 撥音便無表記、おっと、これは失敬、失礼なことを言ってしまったようですね。
「聞きはやすべき人」 聞いてほめそやす人、上人自身
「手」 曲のレパートリー、知っている曲を全部弾いて下さい。
木枯に 吹きあはすめる 笛の音を
ひきとどむべき 言の葉ぞなき
「吹きあはす」 調子を合わせて吹く
となまめき交はすに
憎くなるをも知らで
また 箏の琴を盤渉調に調べて 今めかしく掻い弾きたる爪音
かどなきにはあらねど まばゆき心地なむしはべりし
「交はす」 かはす
「憎くなる」 女も上人も左馬頭が実は頭に来ていることも知らずに
「箏」さう
「盤渉調に調べて」 ばんしきでうにしらべて
「爪音」 つまおと
「かど」 才能
「まばゆし」 左馬頭は、気に食わない気持ちだった
ただ時々うち語らふ宮仕へ人などの あくまでざればみ好きたるは
さても見る限りはをかしくもありぬべ
時々にても さる所にて忘れぬよすがと思ひたまへむには
頼もしげなく さし過ぐいたりと心おかれて
その夜のことにことつけてこそ まかり絶えにしか
「うち語らふ」 会って話をする
「宮仕へ人」 宮中の女
「ざればむ」 気取って風流ぶる
「好き」 すき
「さても」 たとえ、そうであっても、
「見る」 時々合う
「さる所にて忘れぬよすが」 一生の妻
「頼もしげなし」 心細い、不安
「さし過ぐ」 程度が過ぎる
「心おく」 警戒心をもつ
この二つのことを思うたまへあはするに
若き時の心にだに なほさやうにもて出でたることは
いとあやしく頼もしげなくおぼえはべりき
「さやうにもて出でたる」 そのように、風流ぶることが表面に出過ぎる女
今より後は ましてさのみなむ思ひたまへらるべき
御心のままに
折らば落ちぬべき萩の露
拾はば消えなむと見る玉笹の上の霰などの
艶にあえかなる好き好きしさのみこそ をかしく思さるらめ
今さりとも 七年あまりがほどに思し知りはべなむ
なにがしがいやしき諌めにて 好きたわめらむ女に心おかせたまへ
過ちして 見む人のかたくななる名をも立てつべきものなり
と 戒む
「まして さのみ」 いっそう、そのようにのみ、思われます
「御心」 若い二人、光源氏と頭中将の気持ちとしては
「艶」えん
「あえか」 触れれば落ちるような、かよわい
「好き好きし」 すきずきし、好色めいた
「今さりとも」 二人ともまだ若いので現在はまだそうであっても
「なにがしが」 私の
「心おく」 用心する
「過ちして」 女がおろかな間違いをして、
「見む人のかたくななる名」 男の悪い評判
「戒む」 いましむ
中将 例のうなづく
君すこしかた笑みて さることとは思すべかめり
いづ方につけても 人悪ろくはしたなかりける身物語かな
とて うち笑ひおはさうず
「例の」 いつものように
「かた笑む」 かたゑむ、微笑する
「さること」 そういうものであろう、と光源氏は思っているらしかった
「いづ方につけても」 (光源氏の台詞)ふたつの話のどちらも。
「人悪ろし」 人から見て体裁が悪い
「おはさうず」 皆で・・・していらっしゃる
中将
なにがしは 痴者の物語をせむ
とて
いと忍びて見そめたりし人の さても見つべかりしけはひなりしかば
ながらふべきものとしも思ひたまへざりしかど
馴れゆくままに あはれとおぼえしかば
絶え絶え忘れぬものに思ひたまへしを
さばかりになれば うち頼めるけしきも見えき
頼むにつけては 恨めしと思ふこともあらむと 心ながらおぼゆるをりをりもはべりしを
見知らぬやうにて 久しきとだえをも かうたまさかなる人とも思ひたらず
ただ朝夕にもてつけたらむありさまに見えて
心苦しかりしかば
頼めわたることなどもありきかし
(頭中将が話はじめる。常夏の女)
「なにがし」 私
「痴者」 しれもの
「さても」 とてもひっそりと通い続ける状態のままで、ずっと
「しも」 強調、そうかと言って長く付き合う気もしていなかったのだけれど。べき、未来の推量
「絶え絶え」 たえだえ、ほとんど絶えそうでもありながら
「さばかり」 それくらいの仲になって
「うち頼める」 頭中将のことを頼りにしているような。頼む、相手が自分を頼りにするようにしむける。
「見知らぬやうにて」 女は平静を装い
「たまさかなる人」 たまにしか来ない男
「朝夕にもてつけたらむありさま」 あたかも常に家にいる夫に対するような振る舞い
「頼めわたる」 口先だけで適当に調子の良いことを言い続けて、自分のことを信用させておく
親もなく いと心細げにて
さらばこの人こそはと 事にふれて思へるさまもらうたげなりき
かうのどけきにおだしくて 久しくまからざりしころ
この見たまふるわたりより
情けなくうたてあることをなむ さるたよりありてかすめ言はせたりける
後にこそ聞きはべりしか
「さらば」 いろいろ頼もしいことを言ってくれる頭中将を信用しているような様子
「おだし」 頭中将を信じきっている女の様子に油断して
「この見たまふるわたり」 頭中将の本妻、右大臣の家
「情けなく」 無風流な
「うたてあることを」 遺憾の意
「さるたよりありて」 なにかの機会に
「かすむ」 ほのめかす
「後」 のち
さる憂きことやあらむとも知らず
心には忘れずながら 消息などもせで久しくはべりしに
むげに思ひしをれて心細かりければ
幼き者などもありしに思ひわづらひて
撫子の花を折りておこせたりし
とて涙ぐみたり
「むげに」 すっかり
「折る」 をる
「おこす」 頭中将のもとに送ってよこした
「とて涙ぐみたり」 地の文、そう頭中将は言って涙ぐんだ
さて その文の言葉は
と問ひたまへば、
「と問ひたまへば」 地の文。と光源氏は問う
いさや ことなることもなかりきや
山がつの 垣ほ荒るとも 折々に
あはれはかけよ 撫子の露
「いさや」 さあ、どうでしょうか
「ことなること」 特別なことがら
(女の歌)
「山がつ」 木こり、身分の低い者、(女自身を指す)
「荒る」 ある
思ひ出でしままにまかりたりしかば
例のうらもなきものから いと物思ひ顔にて
荒れたる家の露しげきを眺めて 虫の音に競へるけしき
昔物語めきておぼえはべりし
「うらもなし」隔意ない、素直な性格そのままで
「ものから」 ではあるものの、ではあるのに、・・・けれども。
「露」 涙に濡れた雰囲気
「競へ」 きほふ、そのように女の泣いているらしい様子
「昔物語」 具体的にどの昔物語かは、諸説ある。
咲きまじる 色はいづれと 分かねども
なほ常夏に しくものぞなき
(頭中将の返歌)
「分く」 わく、判別する
「しく」 およぶ、匹敵する
「常夏」 撫子の異名。母親を示す。常、床
大和撫子をばさしおきて
まづ 塵をだに など 親の心をとる
「大和撫子」 子供
「塵」 床に塵が積もるようなことにはなりなせん
「心をとる」 機嫌を取る
うち払ふ 袖も露けき 常夏に
あらし吹きそふ 秋も来にけり
(女の返歌)
「うち払ふ 袖」 女が自分で床の塵を払う
「あらし」 頭中将の正妻の家、左大臣の家からの脅しのこと
「そふ」 一段と増す、加わる
と はかなげに言ひなして
まめまめしく恨みたるさまも見えず
涙をもらし落としても いと恥づかしくつつましげに紛らはし隠して
つらきをも思ひ知りけりと見えむは わりなく苦しきものと思ひたりしかば
心やすくて またとだえ置きはべりしほどに
跡もなくこそかき消ちて失せにしか
「はかなげに」 いかにも、たいしたことではないかのように
「まめまめしく」 本気で、実際に
「つらき」 男の薄情さを辛く思っていることが男に見えてしまっては、それはとても苦しくなるので
「心やすくて」 女が辛い気持ちを表さないので頭中将は平気でいた
「かき消つ」 消す
まだ世にあらば はかなき世にぞさすらふらむ
あはれと思ひしほどに わづらはしげに思ひまとはすけしき見えましかば
かくもあくがらさざらまし
こよなきとだえおかず さるものにしなして長く見るやうもはべりなまし
かの撫子のらうたくはべりしかば いかで尋ねむと思ひたまふるを
今もえこそ聞きつけはべらね。
「はかなし」 心細い
「あはれ」 好きだと思っていた時に
「思ひまとはす」 名詞、「思ひ」が「纏はす」の動作対象。頭中将に思ひを纏はす。
「あくがらす」 心配させる。罪悪感を持たせる。
「こよなし」 過度の
「さるもの」 安定した側室
「らうたし」 可愛い
これこそのたまへるはかなき例なめれ
つれなくて つらしと思ひけるも知らで あはれ絶えざりしも 益なき片思ひなりけり
今やうやう忘れゆく際に かれはたえしも思ひ離れず
折々人やりならぬ胸焦がるる夕べもあらむとおぼえはべり
これなむ え保つまじく頼もしげなき方なりける。
「のたまへる」 左馬頭のレクチャー「馬艶にもの恥ぢして 恨み言ふべきことをも見知らぬさまに忍びて 上はつれなくみさをつくり」
「はかなき」 弱々しい
「例」 ためし
「つれなし」 女が平静を装っているので
「あはれ」 頭中将は女のことをずっと好きであったが、女のほうはもう苦しく、頭中将のことをいやになっていた
「際」 きは。今は頭中将は、あの女のことを忘れつつある一方で、女はまだ頭中将のことを思っているのではないのか。
「かれはたえしも思ひ離れず」かれ、あの女は。はた、決して。え・・・ず、不可能。しも、強調。
「人やりならず」 女自身が自分の振る舞いに原因があったとする自責
「保つまじく」 長続きしない
されば かのさがな者も 思ひ出である方に忘れがたけれど
さしあたりて見むにはわづらはしくよ
よくせずは 飽きたきこともありなむや
琴の音すすめけむかどかどしさも 好きたる罪重かるべし
この心もとなきも 疑ひ添ふべければ
いづれとつひに思ひ定めずなりぬるこそ
世の中や ただかくこそ
とりどりに比べ苦しかるべき
このさまざまのよき限りをとり具し
難ずべきくさはひまぜぬ人は いづこにかはあらむ
吉祥天女を思ひかけむとすれば
法気づき くすしからむこそ また
わびしかりぬべけれ
とて 皆笑ひぬ
「さがな者」 左馬頭の話の最初の女、指を噛んだ女のこと
「方に」 かたに、思い出となるような女として
「さしあたりて見む」 正妻にする
「よ」 間投助詞
「よくせずは」 ひょっとすると、うまくいかない場合は。「は」 仮定
「飽きたし」 ひどくでいやになる
「すすめけむ」 上手だったという。左馬頭の二番目に語った女
「かどかどし」 才気のある
「好く」 好色である
「この心もとなき」 頭中将の語った女
「疑ひ」 ほかに男がいるのではないだろかという疑い
「世の中」 男女関係
「比べ苦し」 くらべぐるし、比較しにくい
「よき限り」 良いところばかり
「くさはひ」 種、と書く。要素
「法気づき」ほふけづく、「くすし」霊妙な感じがする
「とて」 と頭中将が語ったので
式部がところにぞ けしきあることはあらむ
すこしづつ語り申せ
と責めらる
頭中将の台詞
「けしき」話の珍しさ
「責めらる」 受け身
下が下の中には なでふことか 聞こし召しどころはべらむ
藤式部丞、とうしきぶのじょう、の台詞
「下」 しも。藤式部丞自身の位が低いこと。
「なでふ」 なんでふ、何でふ、どれほどのものがあるでしょうか。
と言へど 頭の君 まめやかに
遅し
と責めたまへば 何事をとり申さむと思ひめぐらすに
「まめやかに」 すっかり本腰になって
まだ文章生にはべりし時 かしこき女の例をなむ見たまへし
かの馬頭の申したまへるやうに
公事をも言ひあはせ
私ざまの世に住まふべき心おきてを思ひめぐらさむ方もいたり深く
才の際なまなまの博士恥づかしく
すべて口あかすべくなむはべらざりし
藤式部丞の話が始まる
「文章生」 もんじゃうのしゃう
「かしこき女の例」 かしこきをんなのためし、恐ろしい女の話
「公事」 おほやけごと
「私ざま」 わたくしざま
「才の際」 ざえのきは
「博士」 はかせ
「口あかすべくなむはべらざりし」 口開く。べし、適当。人が口をはさむ必要がない。教養のすべてを知っている。
それは ある博士のもとに学問などしはべるとて
まかり通ひしほどに
主人のむすめども多かりと聞きたまへて はかなきついでに言ひ寄りてはべりしを
親聞きつけて 盃持て出でて
わが両つの途歌ふを聴け
となむ 聞こえごちはべりしかど
をさをさうちとけてもまからず
かの親の心を憚りて さすがにかかづらひはべりしほどに
いとあはれに思ひ後見
寝覚の語らひにも
身の才つき 朝廷に仕うまつるべき道々しきことを教へて
いときよげに消息文にも仮名といふもの書きまぜず むべむべしく言ひまはしはべるに
おのづからえまかり絶えで
その者を師としてなむ わづかなる腰折文作ることなど習ひはべりしかば
今にその恩は忘れはべらねど
なつかしき妻子とうち頼まむには
無才の人 なま悪ろならむ振る舞ひなど見えむに
恥づかしくなむ見えはべりし
「主人」 あるじ
「はかなし」 たいした事ではない
「わが両つの途 歌ふを聴け」 ふたつのみち、白楽天の秦中吟、貧乏だが良い娘だから結婚してやってくれ
「聞こえごつ」 (博士は)言う
「をさをさ」 ぜんぜん
「後見る」 動詞、連用形
「寝覚」 ねざめ
「身の才つき」 女が藤式部丞に様々な知識がつくようにし
「朝廷に仕う」 おほやけにつかう
「教へて」 をしへて
「消息文」 せうそこぶみ
「仮名」 かんな
「むべむべし」 格式張っている
「えまかり絶えで」 で、打消しの、ず、連用形、+ て が音韻変化したもの。・・・しないで、・・・せずに。
「その者」 女
「腰折文」こしをれぶみ
「妻子」 妻
「見えむに」 してしまうでしょうから
「見えはべりし」 思いました
まいて君達の御ため
はかばかしくしたたかなる御後見は 何にかせさせたまはむ
はかなし 口惜し とかつ見つつも
ただわが心につき 宿世の引く方はべるめれば 男しもなむ 仔細なきものにはべめる
「君達」 きんだち、光源氏と頭中将
「何にかせさせたまはむ」 知識的な助けなど必要ない
「かつ」 且つ、そのように考える一方で
「心につく」 心に付く、気にいる、好きになる
「しも」 強調
「はべめる」 撥音便無表記
「仔細なきものにはべめる」 単純なものです
と申せば
残りを言はせむとて
さてさてをかしかりける女かな
とすかいたまふを
心は得ながら 鼻のわたりをこづきて語りなす
「すかす」おだてる、すかしたまふ → すかいたまふ。藤式部丞の話の続きを聞きたい頭中将は、藤式部丞をおだてる。
「心は得ながら」 心得、頭中将が藤式部丞をおだてているにすぎないことを理解しているが。
「わたり」 辺り
「をこ」 愚かなさま
さて いと久しくまからざりしに
もののたよりに立ち寄りてはべれば
常のうちとけゐたる方にははべらで 心やましき物越しにてなむ逢ひてはべる
ふすぶるにやと をこがましくも
また よきふしなりとも思ひたまふるに
このさかし人はた 軽々しきもの怨じすべきにもあらず
世の道理を思ひとりて恨みざりけり
「たよりに」 (なにかの)ついでに。《この女に会いたくて立ち寄ったのではない。》
「方」 かた、場所、部屋
「心やまし」 納得できない、不満な
「物越し」 几帳、簾などを隔てて
「ふすぶ」 嫉妬して機嫌が悪い
「をこがまし」 (女のことが)馬鹿のように見える
「よきふし」 別れるのに良い機会
「べき」 推量
「世の道理を思ひとりて」 頭の良い女で、男女間の問題を理解していて、そのようなことで機嫌を悪くすることはない。
声もはやりかにて言ふやう
月ごろ 風病重きに堪へかねて 極熱の草薬を服して
いと臭きによりなむ え対面賜はらぬ
目のあたりならずとも さるべからむ雑事らは承らむ
と いとあはれにむべむべしく言ひはべり
「はやりか」 女が、せかせかと言うことには。
女が漢詩的な口調で喋る
「月ごろ」 二、三ヶ月前より
「風病」 ふびゃう
「極熱の草薬」 ごくねちのさうやく
「目のあたり」 まのあたり、面と向かって
答へに何とかは
ただ
承りぬ
とて 立ち出ではべるに さうざうしくやおぼえけむ
「答へに何とかは」 いらへ。言はむ、の省略
「承りぬ」 事務的な言い方。承知致しました。
「さうざうし」 女は、たぶん物足りなく、心寂しく思ったのであろうか
この香失せなむ時に立ち寄りたまへ
と高やかに言ふを
聞き過ぐさむもいとほし
しばしやすらふべきに はたはべらねば
げにそのにほひさへ はなやかにたち添へるも術なくて、逃げ目をつかひて、
「香」 か。「な」、完了の、ぬ、の未然形。「む」、推量の、む、の連体形。
「聞き過ぐす」 聞いても心に留めないでいる
「いとほし」 気の毒
「やすらふ」 休らふ、ためらってぐずぐすしている
「はなやか」 はっきりと
「術なく」 すべなく、困る、苦しい
「逃げ目をつかふ」 逃げるチャンスをうかがう
ささがにの ふるまひしるき 夕暮れに
ひるま過ぐせと いふがあやなさ
いかなることつけぞや
と 言ひも果てず走り出ではべりぬるに
藤式部丞の歌
「ささがに」 蜘蛛。
「ふるまひ」 振る舞ひ。蜘蛛の動きで男が夕方にやってくることの前兆が知れているのに。
「ひるま」 蒜、ひる、ニンニク。ニンニクの臭いが抜ける間。昼間に来いとは。
「あやなし」 話の筋が通らない
「ことつけ」 ことづけ、藤式部丞に会わないですむ口実。別の男がいるのではないのか、という難癖。
追ひて
逢ふことの 夜をし隔てぬ 仲ならば
ひる間も何か まばゆからまし
さすがに口疾くなどははべりき
「仲ならば」 已然形ではなく未然形。まし、反実仮想
逃げる藤式部丞のあとを追いかけて来ての、女の歌
「まばゆし」 親密な二人の間柄なのだから、ニンニクが臭くて顔をそむけることもないでしょう
「口疾し」 くちとし、(返歌を)即答した
「は」 強調
と しづしづと申せば
君達あさましと思ひて
嘘言
とて笑ひたまふ
「君達」
「あさまし」 あきれて
「嘘言」 そらごと、その話はウソだ!
いづこのさる女かあるべき
おいらかに鬼とこそ向かひゐたらめ
むくつけきこと
と爪弾きをして
言はむ方なし
と 式部をあはめ憎みて
すこしよろしからむことを申せ
と責めたまへど
これよりめづらしきことはさぶらひなむや
とて をり
このキツイ言い方は頭中将の台詞と思われる
「おいらか」 静かに、穏やかに
「こそ・・・たらめ」「め」は、む、の已然形。適当。・・・していたほうが良い。・・・のほうがマシだ。
「むくつけし」 気味が悪い
「爪弾き」 つまはじき、誰かを批難する時の人差し指の動作
「あはむ」 うとんずる
「よろし」 面白い
すべて 男も女も 悪ろ者は
わづかに知れる方のことを残りなく見せ尽くさむと思へるこそ
いとほしけれ
三史五経 道々しき方を 明らかに悟り明かさむこそ 愛敬なからめ
などかは 女といはむからに 世にあることの公私につけて
むげに知らずいたらずしもあらむ
わざと習ひまねばねど すこしもかどあらむ人の
耳にも目にもとまること 自然に多かるべし
左馬頭の台詞
「悪ろ者」 わろもの、劣っている者
「いとほし」 気の毒
「道々し」 みちみちし、理屈っぽい
「などかは」 どうして・・・なのか
「公私」 おほやけわたくし
「愛敬なからめ」 あいぎょう。たしかに可愛げがないことではあるが、しかし、そうかと言って・・・。
「かど」 才
さるままには 真名を走り書きて
さるまじきどちの女文に なかば過ぎて書きすすめたる
あなうたて
この人のたをやかならましかばと見えたり
心地にはさしも思はざらめど おのづからこはごはしき声に読みなされなどしつつ
ことさらびたり
上臈の中にも 多かることぞかし
「さるまま」 そのような女が漢詩に強くなり
「真名」 まんな、漢字
「どちの女文」 をんなぶみ、仲の良い女友達どうしの手紙
「なかば過ぎて」 50パーセント以上が漢字で
「あなうたて」 ああ、いとわしい
「たをやか」 ものやわらか。反実仮想の願望
「心地」 ここち。漢字を多く混ぜて書いた女自身の気持ちにおいては
「ことさらぶ」 ぎょうぎょうしい、あらたまった感じ
歌詠むと思へる人の
やがて歌にまつはれ をかしき古言をも初めより取り込みつつ
すさまじき折々 詠みかけたるこそ ものしきことなれ
返しせねば情けなし えせざらむ人ははしたなからむ
「歌詠むと思へる人」 和歌を得意がっている人が
「まつはる」執着する
「をかしき古言」 ふること、趣のある古い詩歌
「すさまじき折々」 場違いな状況で
「詠みかく」 詠み掛く、人に向かって和歌を作り返歌を待つ
「ものし」 不快
さるべき節会など
五月の節に急ぎ参る朝 何のあやめも思ひしづめられぬに
えならぬ根を引きかけ
九日の宴に まづ難き詩の心を思ひめぐらして暇なき折に
菊の露をかこち寄せなどやうの
つきなき営みにあはせ
さならでもおのづから
げに後に思へばをかしくもあはれにもあべかりけることの
その折につきなく 目にとまらぬなどを
推し量らず詠み出でたる なかなか心後れて見ゆ。
すさまじき折々、の具体例。こちらが忙しい時に風流ぶった人が邪魔になる状態。
「さるべき節会」せちゑ、立派な宴会
「あやめ」 文目、思考の筋道。忙しくてあたふたしている時に。菖蒲。
「えならず」 すばらしい
「根」 菖蒲の根。これに掛けて歌を詠み、返歌を待つ。
「九日の宴」 ここぬかのえん
「まづ難き詩」 先ず何はともあれ。かたきし、むずかしい漢詩。
「暇なき」 いとまなき
「かこち寄す」 関係づけて、こじつけて歌を詠む
「つきなき営みにあはせ」 つきなし、相応しくない。こちらの都合の悪いタイミングで
「さならでも」 べつに、わざわざ、そのような時にそのような事をしなくても、時間がある時に、
「あべかり」あるに違いない
「なかなか」 むしろ、かえって
「心後れ」 こころおくれ、考えが足りない
よろづのことに
などかは
さても
とおぼゆる折から
時々 思ひわかぬばかりの心にては
よしばみ情け立たざらむなむ目やすかるべき。
「さても」 さてさて。
「折から」 をりから、折り柄、そのような時に。なにかにつけて不適切な判断が蔓延している社会で。
「思ひわく」 思ひ分く、分別する、判断する。思ひわかぬ、思ひわかず、の連体形。
「よしばみ] 気取ったりして
「情け立つ」 なさけだつ、風流ぶる。空気の読めないような人は風流ぶらないでいてほしいものだ。
「目やすし」 見苦しくない、難がない
すべて 心に知れらむことをも 知らず顔にもてなし
言はまほしからむことをも 一つ二つのふしは過ぐすべくなむあべかりける
「知らず顔」 しらずがほ
「過ぐす」 言わずにおく
左馬頭の台詞が終わる
と言ふにも
君は 人一人の御ありさまを 心の中に思ひつづけたまふ
これに足らずまたさし過ぎたることなくものしたまひけるかな
と ありがたきにも いとど胸ふたがる
「君」 光源氏
「人一人」 ただ藤壺のことだけを
「これ」 左馬頭のレクチャーの内容
「ものし」 藤壺の振る舞い
「ありがたし」 めったになく優れている
いづ方により果つともなく
果て果てはあやしきことどもになりて
明かしたまひつ。
(雨夜の品定め、あまよのしなさだめ、終わり。)
からうして 今日は日のけしきも直れり
かくのみ籠もりさぶらひたまふも 大殿の御心いとほしければ まかでたまへり
「からうして」 からうじて、やっと
「今日は」 けふは
「日のけしき」 天気
「直る」 なほる
「籠もりさぶらひたまふ」 光源氏が
「大殿」 義理の父、左大臣
「いとほし」 気の毒
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