『夜の果てへの旅』を読んでみる

ルイ=フェルディナン・セリーヌ

夜の果てへの旅
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誰の文章か
小説『夜の果てへの旅』は、第一人称で主人公が自身の体験を語ってゆくもの。勿論、語り手フェルディナン・バルダミュは架空の人物。実際にペンをとり、原稿を書いたのはルイ=フェルディナン・デトゥーシュ (1894-1961) である。ならば「私」はデトゥーシュなのか。そして、この小説の文章をデトゥーシュの文章と呼んでよいのだろうか。『夜の果てへの旅』に用いられている朴訥な語りの文体は、しばしば、このような取りちがえを読者に引き起こすらしい。読み方が、かなりの見当はずれになってしまうようだ。本来、この小説は、小説全体が主人公バルダミュの語りであり、一人芝居における力のこもった台詞のごとく音読されるとき、文芸としての味わいが浮かび上がる、そういった作品なのである。第一人称の文章に常にバルダミュの感情の内側からの流れが込められている。

Notre voyage à nous est entièrement imaginaire. Voilà sa force.

サルバドール・ダリは本名のままであるらしいのだが、いずれにせよ彼はダリと名のる風変わりな人物を考え出し、メディアを前にダリを演じ、そのダリにダリの絵を描かせ、世界にその名を馳せた。そのような具合に考えるならば、文芸においても、原稿の一枚目、作品の題名にペンネームを添えた瞬間から作家もまた一人の作られた風変わりな人物なのである。一人の作家にはペンネームの人物と本名の人物の二重構造がある。本名の人物はペンネームの人物の役柄を原稿用紙を前にして演ずる。それは、まったく無名の文士であっても同様であり、あるいは作家の名前に本名を用いていても二重構造に変わりはない。我が国の文芸においては作業中は座り机に和服ならば「彼の」ペンが進む場合もあるかもしれない。「彼」の作風、「彼」のスタイルである。ペンネームの人物の手による文章は、もしその架空の作家が書くならばどういった風になるかを、様々な選択肢の中から選んだ文体によるものなのである。ルイ=フェルディナン・デトゥーシュは我々には正体不明のブラックボックスである。デトゥーシュは男でありながら女の名セリーヌを作家のペンネームとし、その名の付いた処女作『夜の果てへの旅』の創作活動を始めた。デトゥーシュはセリーヌの創作活動をしながらも、同時に別のペンネームで、別の文体と別の考え方で小説を書く場合も充分にありえたであろう。『夜の果てへの旅』はデトゥーシュが考え出した架空の人物セリーヌの作品である。そればかりか、さらに、そこでの文章は若者バルダミュの語りであり、この小説は三重構造をもって成立しているのである。たとえば、サリンジャーの “The Catcher in the Rye” は、このような第一人称による三重構造の傑作ではないだろうか。谷崎潤一郎の『卍』も同様の三重構造になっている。『夜の果てへの旅』の文章はバルダミュの文章である。すなわち、朴訥な口調で語っているのはバルダミュであり、未熟な思考力もバルダミュのそれである。二十歳前後の視野の狭い青年、素朴で小さな存在、バルダミュの語りが、そのままの口調で書かれているのであり、『夜の果てへの旅』の文章はセリーヌの文章ではない。ましてデトゥーシュの文章でもないことは言わずもがなである。主人公を第三人称で書いた作品があるならば、それがセリーヌの文章であるだろうし、また、デトゥーシュの文章とはデトゥーシュが友人に出した手紙などがそれにあたる。ところが残念ながら『夜の果てへの旅』の文章を、さもルイ=フェルディナン・デトゥーシュが自分の気持ちを自分の文体で直接的にぶつけたものと受け取ってしまう読者が少なくない。もしも、このバルダミュの物語が、それ以後の下品な作家セリーヌの作品、ひねくれた大人の反逆精神、ならず者の思想として読まれるならば、それは一般的な解釈からは逸脱した誤読となる。また、文芸を芸術的な活動として見るならば、架空の人物「セリーヌ」の思考を直接的にデトゥーシュの思考とみなすのも大きな誤りである。バルダミュとセリーヌとデトゥーシュの三者を混同し、一人の人物とでしか見ない読者が少なからず存在しているとすれば、それは芸術業を営む人々にとって実に不都合である。ただしデトゥーシュも一歩でも家の外に出たならばセリーヌになることは承知していたであろう。

ルイ=フェルディナン・デトゥーシュ
小説『夜の果てへの旅』は1932年に出版される。出版当時は大反響を呼ぶのであるが、その後の Mort à crédit (1936) などの小説、Bagatelles pour un massacre (1937)、 L’École des cadavres (1938) などのパンフレには淫らな語の連発に終始した文章で反ユダヤ感情が書き表されており、デトゥーシュは人々の顰蹙を買うに至る。ヒットラーのナチスに協力した疑いでデトゥーシュは裁判にもかけられる。インタビューのビデオを見ると、ただアパートを買うため、生活費を稼ぐためだけに『夜の果てへの旅』を書いたのだと再版の前書きと同じ言葉を発するばかり。他の作家の作品などに関しては、あれも知らない、これも知らない、読んでいないし、ぜんぜん関係ないと冷たく無表情に繰り返すデトゥーシュの口調に、セリーヌを演じきれない彼の疲れた気持ちが気の毒なほどはっきりと見て取れる。『夜の果てへの旅』以後の破廉恥作家セリーヌを徹頭徹尾演じきった日には下手をすると冗談抜きで本当にギロチンの死刑にもされ兼ねないのだ。

ルイ=フェルディナン・セリーヌのスタイル
その一方、フランスの文学界では作家セリーヌの作品は今日もなお高く評価され続けている。しばしばバカロレアの国語の試験 le bac de français すなわち高校卒業時におけるフランス語の国家試験の課題作品ともなっている。バカロレアの国語の受験者は数冊の課題作品の中から三冊を選んでおき、その中から口頭試験で試験官がその場で選んだ一冊について文学研究的な意見を喋るものだ。
さて、小説『夜の果てへの旅』の主人公バルダミュは、ひとつの動詞の目的補語を名詞と代名詞で重複させながら、粗削りな口調で語り続ける。繰り返された名詞を代名詞とは別のものとして解釈しないよう、注意が必要である。主語が繰り返されている文も多い。たとえば Il n’était pas près de s’éteindre le charbon. のような書き方である。そのような文が、つまらない愚痴のように執拗に続く。

最初の原稿ではバルダミュの眼前に聞き手が坐っていて、バルダミュの話を読者に伝えるようになっていたのであるが、セリーヌはそれを変更し、バルダミュが直接、読者に語る形にした。バルダミュが実際には不在の聞き手を想像しながら、ひとりで訴えるように喋り続けているかのようだ。気取った装飾的な言い回しの排除、描写の極端な乏しさ、飛び々々の筋書きが、暗い世界に生きる感情、正直な気持ちが純粋に全面に現れてくるかのような効果をもっている。たくさんの隙間の部分を鑑賞者の想像力に全面的に依存させるのが芸術の極意である。二十世紀には、汚い芸術、犯行的な芸術がスゴイと言われていた時期があった。より暗い作品がより深い真実性を帯びていると思われていた時期が確かにあった。文学のみならず、絵画、音楽でも、汚らしいもの、既成の美学的構造を壊すものが、評論家たちの間で好意的に評価されていた。美が鑑賞者の想像力によって作られるとき、鑑賞者は作品を美しいと感ずるのである。

Voyage au bout de la nuit
de Louis-Ferdinand Céline
À Élisabeth Craig.

エリザベス・クレイグ (1902-1989) はアメリカ人のダンサー。ルイ=フェルディナン・デトゥーシュ (1894-1961) は1926年にジュネーブで彼女と出会い、パリで1933年まで一緒に住んでいた。

Notre vie est un voyage
Dans l’Hiver et dans la Nuit,
Nous cherchons notre passage
Dans le Ciel où rien ne luit.
(Chanson des Gardes Suisses, 1793 : couvre d’officiers d’un régiment suisse allemand de l’armée napoléonienne. Sur le point de mourir, ils la chantèrent devant la Berezina. C’était pendant la retraite de Russie, en 1812. Il ne s’agit donc pas des Gardes suisses de la maison du roi de France sous l’Ancien Régime, qui furent massacrés lors de la bataille des Tuileries, en 1792.)

|| 現在の空間的な周囲の状況が冬であり夜であるということよりも、時間的に終わることのない横軸が冬であり夜であるという意味。|| luire は、ここでは方角を知る手掛かりとなる数々の星を主語 rien とする動詞として読まれる。

ルイ=フェルディナン・セリーヌ、夜の果てへの旅
この小説のタイトルの意味について作品を読む前に先入観だけで勝手に解釈してしまうのは避ける。ここでは、このタイトルに使われた語に関して留意すべき点を三つ挙げておきたい。
その第一として、前置詞 à がある。名詞 voyage の目的地が子音で始まる男性名詞の場合には前置詞は à が使われる。この名詞は目的地で過ごす時間だけではなく、出発から目的地までの往復の移動も含めた意味をもつ。たとえば、小津安二郎の映画『東京物語』がフランスのテレビ局で放送されたとき、そのタイトルは “Voyage à Tokyo” となっていた。 したがって「夜の果てでの旅」や「夜の果ての旅」などではなく、「夜の果てへの旅」と訳されていて正しいと思われる。また、下に述べるような理由から、この旅は「夜の果て」には到着しないのであるから、なおさらである。
タイトルの意味に関して留意すべき点、その二。夜を空間的なイメージのみでとらえ、暗い夜のもっとずっと奥の方への旅として想い描いてしまうと誤りとなる。前置詞句 au bout de は、空間的に用いられた場合には何か細長く伸びているものの向こうの端の部分に何か別のものがあるときに使われる。たとえば、旅館の長い廊下の突き当たりにトイレがあるなどと言うときなどである。「国境の長いトンネルを抜けると」などにも au bout de が使えそうだ。一方、時間的には、ある程度の長さの時間の終りに何かが起こる場合であり、「喫茶店で三時間、辛抱強く待った末、やっと友人は現れた」などと言うときに使われる。夜空は空間的には見渡す限り広がっているものであり、細長い帯状のものとして遠くに向かって伸びてはいない。したがって au bout de la nuit は時間的にのみ考えられるべきであり、長い夜の後、日の出が来るはずの時刻を意味しているのである。暗黒な空間の無限のイメージが時間的な果てしなさと重なる。
ここでの「夜」が何の隠喩になっているのか。タイトルの後に記されているスイス人の傭兵の歌の文句から、それは厳しく辛く悲しい年月を意味しているらしい。ルイ十六世の頃であるが、現在ではルーブル美術館となっているルーブル宮殿の横にあるチュイルリー宮殿を守っていた九百人ほどのスイス人の傭兵達が随分残酷な目に会って死んでいったそうだ。1792年、チュイルリー宮殿の「8月10日事件」である。この小説は、寒く暗い人生の旅の末、ついに朝は来なかった、あるいは早く朝が来ないかと曙光を探し求める年月を書いたものらしい。
ところが、1793年のスイス人の衛兵の歌と記された四行には少し問題がある。ドイツの俳優で、モーツァルトの友だちであり、魔笛の初演にも出演し、イタリア語の魔笛をドイツ語に訳したりもしているカール・ルートヴィヒ・ギーゼケ Karl Ludwig Giesecke が1792年に書いた詩に「夜の旅」Die Nachtreise がある。彼自身が夜中に森の中で迷った経験があり、その際に感じた不安、そこに学んだ勇気を詩にしたものであるが、それから30年後の1823年、この長い詩の最後の四節にヨハン・イマヌエル・ミューラー Johann Immanuel Müller がメロディーをつけた「ベレジナ川の歌」Beresinalied がある。メディアなしに歌がどのようにして世に出たかは知らない。私の直訳。

Unser Leben gleicht der Reise
Eines Wandrers in der Nacht;
Jeder hat in seinem Gleise
Etwas, das ihm Kummer macht.

我らの人生は夜をさまよう旅人の旅に似ている
彼の馬車が道に残した轍にはどれも悲しみを感じさせる何かがある

Aber unerwartet schwindet
Vor uns Nacht und Dunkelheit,
Und der Schwergedrückte findet
Linderung in seinem Leid.

だが、突如として夜と暗黒は我々の前から消え
打ちひしがれた者は悲しみの中に安らぎを見出す

Mutig, mutig, liebe Brüder,
Gebt das bange Sorgen auf;
Morgen steigt die Sonne wieder
Freundlich an dem Himmel auf.

兄弟たちよ、勇気をもて、恐れるな
明日、優しげに陽はまた昇る

Darum lasst uns weitergehen;
Weichet nicht verzagt zurück!
Hinter jenen fernen Höhen
Wartet unser noch ein Glück.

だから、歩き続けよう
落胆し後退することなく
あの高い山の向こうに、更なる幸運が我々を待っている
|| 古いドイツ語では warten が目的補語に第二格を取り、他動詞で「・・を待つ」と使われていた。

このメロディーはヨハン・セバスチャン・バッハのカンタータ BWV 155 Mein Gott, wie lang, ach lange? のアリア Du musst glauben, du musst hoffen のパクリである。 また、ソフィー・マルソーが歌っている歌に「べレジナ川」があるが、それとは別の歌。
セリーヌが『夜の果てへの旅』の始めに四行だけを引用しているフランス語の歌の、その全体の歌詞は次のとおり。

Notre vie est un voyage
Dans l’hiver et dans la nuit,
Nous cherchons notre passage
Sous un ciel où rien ne luit.
 
La souffrance est le bagage
Qui meurtrit nos reins courbés;
Dans la plaine aux vents sauvages
Combien sont déjà tombés!
 
Dans la plaine aux vents sauvages
La neige les a couverts.
Notre vie est un voyage
Dans la nuit et l’hiver.
 
Pleurs, glaces, sur nos visages
Vous ne pouvez plus couler.
Et pourtant, amis, courage :
Demain va vous consoler !
 
Demain la fin du voyage,
Le repos après l’effort,
La patrie et le village,
Le printemps, l’espoir – la mort!

|| 自動詞 couler は、「死ぬ」の意味。
野原には多くの兵隊の死体の上に雪が積もっている。苦しみに耐えてがんばろう。残念ながら、君達はもう撃たれはしないのだが。もうじき旅も終り、いよいよ春と希望と死が来るのだから。
これは何ともすごい歌だ。
ベレジナの戦いはセリーヌのこの小説『夜の果てへの旅』よりも100年前、1812年のナポレオン率いるフランス軍とミハイル・クトゥーゾフのロシア軍との戦いである。ナポレオン軍がモスクワから引き上げる際に起こった戦い。ロシア軍に挟まれたナポレオン軍は雪の中、気温はマイナス38℃、ベレジナ川に二本の橋を架けて渡らなくてはならなかったのだが、ロシア軍に襲わた。そのときのスイス傭兵とフランス兵の死者は36000人。

チュイルリー宮殿の8月10日事件のほうは1792年なのでナポレオンよりも年代が先であるので、カール・ルートヴィヒ・ギーゼケの書いたベレジナの戦いの詩のほうがスイス人傭兵の歌よりも先にできているとするのは順序として正しくない。次のような順序になる。
・1792年、チュイルリー宮殿の8月10日事件
・1792年、ドイツのカール・ルートヴィヒ・ギーゼケの詩「夜の旅」
・1812年11月28日、ベレジナ川の戦い
・1823年、ヨハン・ノマヌエル・ミューラーがメロディーをつけた「ベレジナ川の歌」
・1914年頃、スイス国内でフランス語の歌として訳され、スイス人のあいだで一般的にポピュラーな歌として知られるようになる。
すなわち、チュイルリー宮殿の事件のときのスイス人のフランス傭兵は、この歌とは年代的にも内容的にも無関係である。また、ベレジナ川でのナポレオン軍の兵隊が1914年のフランス語の流行歌を知るはずもない。セリーヌの『夜の果てへの旅』の最初のページのこの歌は、1914年、第一次世界大戦のときに味方のスイス人の兵隊が口ずさんでいた流行歌と考えるのが妥当であろう。スイス人の傭兵は1616年からチュイルリー宮殿の事件の1792年までであり、『夜の果てへの旅』の最初に載せられた歌の下に1793年のスイス人の衛兵の歌と記されているのは誤りと思われる。ただし、日本人の素人の私がインターネットで調べながら変だと思うような事実をフランス人の出版者の博学な人たちがそのままにしているのも変であり、私の勘違い、1793年のスイス人の衛兵の歌とするのが正しいのかもしれない。

さて、バルダミュの戦争はナポレオンのベレジナ川の戦いから100年後の第一次世界大戦。ドイツが敵国である。この小説のタイトルを上記の歌を参考にして考えるならば、日本語訳のタイトルを「夜明けへの旅」のようなものにするとイメージ的な誤解を避けられるようにも思える。我々日本人はこのタイトル『夜の果てへの旅』を予備知識なしに見ると何か宇宙的な幻想的な空間のイメージをもってしまうのではあるまいか。ところが「夜の果て」とは夜空の空間的な「遥か向こうの方」ではなく、夜の時間的な終了であり、バルダミュは永遠に続く暗闇の中、来ることのない朝を待ちながら絶望とともに生き続けるのである。スイス人の傭兵の歌のままに解釈するならば、そのように思われる。名詞 passage は chemin ではないので日本語で「道」と訳してしまうと意味が伝わらない。位置を知るための星すらも見えない寒い暗黒の夜空から自分たちができるだけ早く抜け出すための方角、朝への「出口」を探しているのだ。「冬を、夜を、俺たちは毎日とぼとぼ歩き続けなくてはならないのか。俺たちには、この星ひとつない暗黒の夜空から抜け出すための出口など存在しないのか」
第三として、作家ルイ=フェルディナン・セリーヌの作品はフランスを代表する文学のひとつであり、『夜の果てへの旅』を読むときは、好き嫌いは兎も角とし、読者は努めて真面目に読むべきである。未熟な精神をもったバルダミュの思い調子のたわごとが、タイトルから喚起される幻想的なイメージの先入観と衝突する。

ルイ=フェルディナン・セリーヌ
夜の果てへの旅

Voyager, c’est bien utile, ça fait travailler l’imagination.
Tout le reste n’est que déceptions et fatigues. Notre voyage à nous est entièrement imaginaire. Voilà sa force.


|| C’est de l’autre côté de la vie までがエピグラフ épigraphe、題辞である。類語、prologue, préambule, préface, introduction || 次のページから本文が始まり、すべてがバルダミュの語りとなるので、このページの数行のエピグラフのみがセリーヌが作品の作者として書いた文章である。|| déceptions et fatigues 文の属詞が名詞であるときに、そこに冠詞が付かない場合がある。形態を表す付加形容詞のように使われた名詞は文の属詞として être や devenir に続く場合に容易に無冠詞でありえる。物の名称が文法上では色の形容詞と解釈される語において、この現象は顕著である。Un T-shirt orange / Ce T-shirt est orange. また、属詞として職業を表す無冠詞の名詞も -eur, -euse, -trice / -iste, -iste / -er, -ère / -aire, -aire などの接尾辞により形容詞にも見え、Il est raciste. なども文法的には形容詞であるが、無冠詞で使われているので形容詞であると文法上解釈されていると言ってしまえばそれまでである。Tout est fini. などの形容詞の使い方からの影響かもしれないが、Tout est で始まる文では属詞が名詞であるときに無冠詞となる傾向があるようだ。déception と fatigue はフランス語では可算語であり、avoir une déception などのように使われるが、上の文では Tout est や Tout n’est que や le reste などの語による言い回しの規則として無冠詞になっているのが正しい。ここで冠詞を付けるとフランス語の文学的な文章としては誤りとなる。属詞の名詞が無冠詞が書かれ、属詞が漠然とした比喩的な形容の表現であり、比喩に具体性がないと分かる。 ポール・ヴェルレーヌの1874年に作った詩 ”Art poétique” の最後の詩句は “Et tout le reste est littérature” である。なお、無冠詞の名詞 littérature は絵空事、作り話のようなものの漠然とした隠喩であり、文学だと言っているのではない。|| 複数で書かれた fatigues は失望と並んでいるので疲労と訳してしまうと誤訳となる。うんざりした気持ち、やる気を一切失ってしまった気持ち。ここでは、何らかの気持ちを起こさせるものをその気持ちによって隠喩で表現したと言ったほうが妥当であろう。自分の部屋で頭のなかでの空想に専心できるので、空想の旅はとても役に立つと言える。その他のすべて、現実の世界は、失望させるもの、うんざりさせるものばかりだ。|| 文中での「私たちの旅」とは、旅一般ではなく、この旅、この小説をさしている。フランスの小説では、作者自身の一人称として、読者を含めた「私たち」が好んで用いられる。|| ここで強調されている語として読まれるべき語は副詞 entièrement である。所有形容詞 sa は文脈より「我々の旅の」の意。force は所有形容詞が付くと、力ではなく、長所、強み、特有の才能などを意味する。百パーセントの空想性が我々の旅の利点である。|| 誰が読んでも最初の語、名詞的用法での動詞「旅をすること」は文脈にそぐわない。文脈に合う語は、たとえば「小説を書くこと」などであろう。ところが、今、作者は机で紙に原稿を書いており、読者は落ち着いた場所で椅子にすわり、印刷された紙製の本を読んでいる状態を前提とすれば、現実から離れた文芸のフィクションの世界での旅を意味すると言える。小説のなかでの旅である。現代は映画が盛んに制作され、宇宙戦争で怪物が出てきたりするものをフィクションか実話かとは問わないのであるが、少し前までは、フィクションの物語は文芸に任されていた。主人公が旅をする小説は、次に何が起こるか、次に誰に出会うか、などが空想のなかで展開される。主人公が旅をする小説には空想力が使われるのは当たり前。第一人称の小説を読む際に陥りがちな誤り、作者と語り手の混同に、まず最初に釘を刺しているのが、このエピグラフである。
フランスの作家は作品の中での一人称に、しばしば読者を含めた複数を用いる。「私の旅は」とは書かず、読者も一緒にして「我々の旅は」とする。その結果、冒頭では、「Écrire 小説を書くということは」とすると作者自身だけのこととなり、読者が含まれなくなってしまうので、「Voyager 旅することは」としたのではないだろうか。

Il va de la vie à la mort. Hommes, bêtes, villes et choses, tout est imaginé. C’est un roman, rien qu’une histoire fictive. Littré le dit, qui ne se trompe jamais.


|| 主語の il は非人称ではなく、前出の男性名詞「我々の旅」、つまり、この小説のこと。「旅」という名詞は、しばしば自動詞 aller をその動詞として un voyage qui va de Tokyo à Osaka ように使われる。誕生から死までの一生の旅ではなく、生きている状態から死に向かっての旅と書いてある。|| 代名詞 tout の内容の例として四つの名詞が先立って列挙されている。tout の同格語として、それらには冠詞は付かない。|| Émile Littré の Dictionnaire de la langue française は一般に le Littré と呼ばれている有名な辞書である。私が持っている版では、名詞 roman の定義として Histoire feinte とある。qui ne se trompe jamais は、リトレの定義はいつも正しいから云々というような立証的な気持ちからではなく、有名な辞書にもそう出ているといった程度の軽い言い方にすぎない。中性代名詞 le は、前のセンテンス全体、「一般に、小説は作り話に過ぎない」を指す。関係代名詞 qui の関係節が先行詞 Littré に直接的に続かず、離れて書かれることも可能であるが、通常、その場合も関係代名詞の前でコンマは打たれない。コンマとともに説明として付加的に書かれているのはドイツ語的な関係代名詞の使い方と言えるかもしれない。このような関係代名詞では、コンマのところに時間的な切れ間が表現されることがある。「リトレがそう言っている、そして、やはりそのとおりだろう」

Et puis d’abord tout le monde peut en faire autant. Il suffit de fermer les yeux.
C’est de l’autre côté de la vie.


|| yeux インターネット上で無料でダウンロードできるPDF版に、この単語が veux なっているものがあるが、それは誤り。|| Et puis d’abord これでひとつのフレーズであり、そもそも、それは兎も角、などの意。|| en faire autant この autant には量的な意味はなく、「同じことをする」の意。誰でも旅を空想できる。フィクションの空想は誰にでもできる遊びであり、珍しくも何ともない。大袈裟に本気で受けとめられては困る、の意。|| ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』(1871年)のフランス語版でのタイトルは “Alice de l’autre côté du miroir” である。日本語での命、生涯、暮らしが各々異なる意味をもっているのに対し、フランス語の la vie や英語の life はそれらを一語で無理やり一括りにして済ませているので、和訳として考える際に、そのつど文の解釈の正しさが問われる。また、前の段落で書かれたばかりの、この小説の旅を主語 il とした文 Il va de la vie à la mort での語の対置も十分に考慮すべきである。私の解釈をここで書いてもしょうがないのであるが、たぶんセリーヌは実際に存在している世界とフィクションの世界を対置させたうえで、この小説はフィクションだと言いたいのであろう。死 = 非存在、とすれば理解できる。私は誤読は読書の極意であると思うこともあるが、不注意な誤りからの誤読は避けるべき。読者の期待における個人的な好みや先入観とは異なる意味合いで作者が書いている場合もある。『夜の果てへの旅』を、これが人間世界の現実なのだと思う傾向に対し、このエピグラフは警告を発している。『夜の果てへの旅』は、幽霊の話と同じほど、作者の空想にすぎないのであると。la vie この文では、現実世界を生きていることの意。de l’autre côté de la vie は、架空の世界のこと。

以上が本文が始まる前のページにイタリックで書かれているエピグラフ自体の解釈である。セリーヌは『夜の果てへの旅』を、これはフィクションであると明記してから書き始めているわけだ。そもそも、小説というものはフィクションであることが多く、一般的な作者は作品ができるだけ現実感を伴うように様々な工夫を凝らし、読者の感情移入を促すもの。ノンフィクションの小説であるならば、なおさら現実感を削ぐようなことを書く必要はない。セリーヌは、これはフィクションだと最初に書いているが、本当のところは、このエピグラフは言わば免責事項としての体裁を帯びている。出版にあたって、敵が多くなるであろうことはセリーヌ自身が一番よく分かっていた。この本の出版後に、さらにどのようなものを書いていくであろうかについても彼自身、充分に予測できていたのであろう。セリーヌという女性の名のペンネームはデトゥーシュの祖母の名であるが、ペンネームというよりは、むしろ匿名、《女性仮託》である。

1952年の再版の前書き
次に、正しくはブリュッセルの Froissart 出版による 1949年の再版のために書かれたものであるのだが、1952年の再版の前書きに使われたものを見る。それまでの間、セリーヌは反ユダヤ感情が剥き出しで書かれているパンフレを出版し、デンマークに亡命し、そこでフランス政府からの要求によって拘禁され、1949年にフランスではナチス側の人間として有罪となる。1951年に特赦によりデンマークからフランスに帰国している。

Ah, on remet le «Voyage» en route.
Ça me fait un effet.
Il s’est passé beaucoup de choses depuis quatorze ans…
Si j’étais pas tellement contraint, obligé pour gagner ma vie, je vous le dis tout de suite, je supprimerais tout. Je laisserais pas passer plus une ligne.
Tout est mal pris. J’ai trop fait naître de malfaisances.

|| Ah ここでは落胆の気持ちを表している。やれやれ。||《旅》を動詞の直接目的語としているので、「またしても《旅》に旅をさせてしまうのか」という表現になっている。|| faire un effet は良い意味で使われる語であり、ここでは反語的に皮肉をこめて「うれしいなあ」。デトゥーシュ自身は全然乗り気ではないのだが、出版社が『夜の果てへの旅』の再版を決定してしまった。|| 最初の版が出版されたのは1932年、この前書きが書かれたのが 1949年であるから17年前であるが、ここにはこの14年間に云々と書かれている。たしかにデトゥーシュの身に様々なことが起こっていた。|| Si j’étais pas、この投げやりで極めて口語的な ne 省略は兎も角、現在の再版に関する言い訳のための反実仮想の半過去であり、過去における出版の言い訳ではない。|| obligé 独立分詞節を作る過去分詞であり、前の (n’)étais pas の属詞として contraint と並んで置かれているのではない。|| dis は挟み込まれた独立した節における動詞であり、主節の条件法には影響されない。このセンテンスは、少しずつ形を変えながら繰り返されており、この前書きのリフレインともいえる。中性代名詞 le は、その後に続いてる文を先取りしている。|| laisser passer 出入りが禁止されているものの通過を許す意味であり、ここではセリーヌは、できるものなら一行たりとも人目に触れさせたくはなかったのだの意。|| être mal pris この副詞 mal には悪いという意味はなく、作者の表した意味とは異なって、誤って解釈されてしまったということ。その結果として人々の間で作者に対する多くの反感 malfaisances が生まれた。通常の “J’ai fait naître trop de malfaisances.” の語順が口語的に変化したもの。副詞が助動詞と不定詞の間に入ることは正しいと言えば正しい。代名詞を使うならば “J’en ai trop fait naître.” となる。

Regardez un peu le nombre des morts, des haines autour… ces perfidies… le genre de cloaque que ça donne… ces monstres…
Ah, il faut être aveugle et sourd!

|| セリーヌに反感を持つ人々の声。この小説は死人に溢れ、憎しみが蔓延し、不実な人たちばかりで、これらの怪物のような人々が集まった、言わば汚水溜めだ。ここで非難が小説『夜の果てへの旅』の内容に対するもののように書かれ、次には、非難はこの小説にではなくデトゥーシュという人間に向けられる。|| le nombre が単独で多数を表すときには de の後には冠詞がつかない。ここでの des は 前置詞 de + 不定冠詞 des であり、「死者や憎悪の数を見よ」であり、それらが多数であることは文脈から判断される。|| haine は有音であり、リエゾンはない。 || 副詞 autour は単独で、de なしでも使われ、「小説の主人公の周囲の」の意。|| 前後の文でセリーヌの言葉は Ah, で始まっているので、改行の後の「Ah, 見ざる聞かざるでいるしかない」の一行はセリーヌが言っていることとして読まれる。したがって形容詞は男性単数となっている。|| ces monstres は ça のこと。

Vous me direz: mais c’est pas le «Voyage»! Vos crimes là que vous en crevez, c’est rien à faire! c’est votre malédiction vous-même! votre «Bagatelles»! vos ignominies pataquès! votre scélératesse imageuse, boutonneuse! La justice vous arquinque? garrotte? Eh foutre, que plaignez? Zigoto!

|| セリーヌに反感を持つ人々の声が続く。最初の vous はセリーヌを非難する人々を指しており、コロン以下の文の vous は人々がセリーヌに向かって言っている。『夜の果てへの旅』という小説ではなく、パンフレ『大量虐殺のためのバガテル』に表されるセリーヌという人間が悪なのだ、と。|| 大文字で括弧つきで記されている Bagatelles は、1937年12月に出版されたセリーヌのパンフレ “Bagatelles pour un massacre” のこと。露骨な反ユダヤ的表現を含んでいる。|| imageur 視覚化するもの。|| boutonneux ここでは、若くて未熟な。|| la justice 裁判によって裁かれること。|| arquinquer 罪をつぐなわせ改心させる。|| garrote それとも絞首刑か。|| zigoto 罵声語。

Ah mille grâces! mille grâces! Je m’enfure! fuerie! pantèle! bomine! Tartufes! Salsifis! Vous n’errerez pas! C’est pour le «Voyage» qu’on me cherche! Sous la hache, je l’hurle! c’est le compte entre moi et «Eux»! au tout profond… pas racontable… On est en pétard de Mystique! Quelle histoire!
Si j’étais pas tellement contraint, obligé pour gagner ma vie, je vous le dis tout de suite, je supprimerais tout.

|| ここからはセリーヌの声、弁明となる。小説の中身、そこに登場する人々とのエピソードが酷いものなのであり、セリーヌは小説の作者にすぎないのだと。|| mille grâces! = mille mercis! どうもありがとうございます。ここでは皮肉として反語的に用いられている。|| je m’enfure 頭にくる || je fuerie 怒る || je pantèle あえぐ || je bomine 造語 = j’abomine 忌み嫌う || Tartufe 偽善者 || Salsifis 根菜類の一種。罵倒語として使われている。この単語は FOLIOのP70 のPrinchard の台詞の中にも出てくる。また、ポール・セズィル Paul Sézille という名の反ユダヤ主義者が1941年に反ユダヤの展示会を開いた。セリーヌはそれを訪れたが自分の本やパンフレが展示されていないのに不満足で、ポール・セズィルに手紙を書いた。ここでも Salsifis という語が使われている。[Mon cher capitaine, Je ne suis pas un auteur que sa «vente» tracasse beaucoup et je ne [me] mêle jamais de ce que font ou ne font pas les libraires à mon égard. Je dois dire qu’en général ils me desservent autant qu’ils peuvent pour des raisons juives faciles à comprendre. Mais en visitant votre exposition j’ai été tout de même frappé et un peu peiné de voir qu’à la librairie ni Bagatelles ni L’Ecole ne figurent alors que l’on y favorise nuée de petits salsifis, avortons forcés de la 14ème heure, cheveux sur la soupe. Je ne me plains pas. Je ne me plains jamais pour raisons matérielles, mais je constate là encore hélas, la carence effroyable (en ce lieu si sensible) d’intelligence et de solidarité aryenne.] || Vous n’errerez pas! (批難の的を)間違わないでほしい。小説『夜の果てへの旅』の前書きとして、パンフレではなく、この本が問題となっているものとする。|| chercher イチャモン、言いがかりをつける (= provoquer)|| compte たとえば、ニュースで殺傷事件などを報道するときに、その原因が réglement de comptes であるならば、それは事件に関係する人物への個人的な仕返しと言う意味。ここでは «Eux» は括弧の中に入れられ、「彼ら」とは前出の括弧に入った《旅》に登場した人物たちのこと。作者個人とフィクション小説の登場人物たちとの想像の世界での関係であり、現実の社会での犯罪として裁判になるようなことではない。|| au tout profond すべてにおいて、100パーセント。心の奥だけでの。|| pas racontable そのことに関しては文章にはならず、したがって他の人たちには知るべくもない。|| en pétard あること、ないことに関して出鱈目に批判する。|| de Mystique 人々は妄想により私を批判しているのだ。|| Quelle histoire! 何ということだ。

J’ai fait un hommage aux chacals!… Je veux!… Aimable!… Le don d’avance… «Dernier à Dieu»!… Je me suis débarrassé de la Chance… dès 36… aux bourrelles! Procures! Roblots!… Un, deux, trois livres admirables à m’égorger! Et que je geigne! J’ai fait le don! J’ai été charitable, voilà!

|| faire un hommage à 贈呈する、差し上げ物をする。|| chacals ここでは非難の犠牲者セリーヌに群がって金を貪る人々 || 「喜んで」の意味で Je veux bien volontiers を短く言ったもの。ちなみに副詞 volontiers には s が付く。|| 副詞 aimablement の意味で形容詞を使った || Le don d’avance まず寄付をして。|| Dernier à Dieu 葬式での死者への最後の別れ。「それでは、お餞別をどうぞお受け取り下さい」では立場が逆なので、「置き土産でございます」のような意味であろう。|| la Chance が大文字で書かれているが、普通名詞を皮肉とともに強調したものであり、幸運の女神(Fortuna)のことではない。se débarrasser は、かなぐり捨てる、のような皮肉として反語的に能動的な意味であり、失うということとは異なる。|| 1936年に Mort à crédit が出版されるや否や。合計三冊のパンフレが出版される。|| bourrelle 死刑を執行する女。|| procure 裁判での検事の役。|| roblot 魚のサバのことであるが、robe 法曹界を指していると思われる。いずれにせよ、ここの三つの単語は裁判所関係に対する罵倒であろう。|| geindre 泣き言を言う。|| ここで、セリーヌは寄付をしたと書いているが、ナチスに協力した罪で1950年に裁判で五万フランの罰金と資産の半分を「裁判所に」取られたことを言っているものと思われる。裁判所に働く欲張りの人々 chacals に五万フランの金をこころよく、もちろん払いたくて、 aimable(ment) 贈与した。

Le monde des intentions m’amuse… m’amusait… il ne m’amuse plus.
Si j’étais pas tellement astreint, contraint, je supprimerais tout… surtout le «Voyage»… Le seul livre vraiment méchant de tous mes livres c’est le «Voyage»… Je me comprends… Le fonds sensible…

|| Le monde des intentions 人々がそれぞれの考え方や好き嫌いにより様々なことがらを判断し、共感をもつ、反発するなどの結果として世の中が人間的に複雑になる状態。(l’enfer est pavé de bonnes intentions 人々がそれぞれ良かれと思って行なった多くのことがらが集まって結局は地獄になってしまっている。)|| m’amuse, m’amusait, ne m’amuse plus 通常、このような言い回しでは過去、現在、未来の順に書かれるのであるが、ここでフランス語の動詞は現在形、半過去形、現在形になっている。二つの現在形が衝突する。文脈からかんがえても最初の動詞が現在形になっているのは理解に困難であるかもしれないが、三つ目の現在形を副詞 ne…plus とともに「もう、こんりんざい・・・ということはない」の意で現在から未来にかけての表現として解釈すべきであろう。最初の動詞現在形は「本来・・・である」の意なのであろう。|| méchant ここでは、たちが悪い、有害な、の意。|| Je me comprends. 自分の言っていることが正しいと自信があるときの表現。「なあ、そうだろう」|| Le fonds sensible 図書館や蔵書において、内容がグロテスクであったり、危険思想であったりして一般の人たちには閲覧できないように別の場所にひとまとめにして保管してある書物。ちなみに何かの「底」le fond には s は付かない。

Tout va reprendre! Ce Sarabbath! Vous entendrez siffler d’en haut, de loin, de lieux sans noms: des mots, des ordres…
Vous verrez un peu ces manèges!… Vous médirez..
Ah, n’allez pas croire que je joue! Je ne joue plus, je suis même plus aimable.
Si j’étais pas là tout astreint, comme debout, le dos contre quelque chose… je supprimerais tout.

|| 序文の最後の段落は未来時制で書かれる。vous は、これからこの本を読む読者 || tout 前の版の出版に続く様々な煩いのすべてが、再び繰り返される。そのような小説の再版を出すとは。|| Sarabbath 魔法使いの夜会 sabbat と ça rabatte ではないだろうか。ちなみに、ブラジルの人がしばしば言う、サラバは Saravah! と書き、ここでは関係ない。|| 不定詞 siffler の動作主はコロンの後の「言葉」「命令」と解釈できるであろう。あるいは、サラバットを動作主として、実際に聞こえる音を言葉や命令として解釈することもできる。siffler は自動詞で、シューシューと音をたてるという意味であろう。|| en haut 空の方からであるが、どこからか分からないようなことの表現。|| ordres 命令。|| Vous verrez un peu 「見て下さい」「再版が出版され、前回と同じことがきっとまた起こるから、まあいいから、ちょっと見て下さいよ」という意味。|| manèges セリーヌはこの小説の中でこの語をメリーゴーラウンドの意味で使っているところがある。言葉と命令のメリーゴーラウンド。そもそもこの語は馬術のことであり、さらに調教のために円形に馬を走らせることであるが、ここでは複数で書かれているので、やはりメリーゴーランドの複数であろう。|| jouer 故意にへんなことをする。茶番。 || je suis même plus aimable 否定の副詞 ne が省略されて書いてある。愛想笑いだってするもんか。 ne がないので逆に解釈しないよう注意。|| quelque chose 銃殺される者が目隠しされ、「何か壁と思われるようなもの」を背に立っている。

ルイ=フェルディナン・セリーヌ夜の果てへの旅