wouldの使い方、法助動詞の規則

英文法、法助動詞の規則、can, could, may, might, must, shall, should, will, would
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【wouldの使い方】
ヨーロッパの主な言語で英語以外のもののほとんどに動詞の活用として直接法のほかに接続法および条件法というモードがあり、文脈の意味によるのではなく、文の形から各モードの使い分けが規則として決められています。日本語にも昔は係り結びの法則というものがあり、「何々こそ」と言ったとき、文の終わりの動詞や助動詞を已然形にしていましたが、これは文の意味ではなく文の形によって使い分けが決まっていたものです。日本の英語教育では法助動詞、can, could, may, might, must, shall, should, will, would の使い分けを日本語に訳した場合の意味によって説明していることが多いようですが、そもそもモードというものは意味で理解するものではありません。以下、英語の《法助動詞》の使い方を文の形からの規則として説明してみました。日本人の英語学習者にとっては、とくに《法助動詞》として頻繁に使われるwouldの使い方は、そもそも本質的には文の意味から理解するものではないので、このページを読んですっきりと納得してください。冠詞の使い分け同様、wouldの使い方は日本語にはない文法的要素ですから、和訳という形において意味的に理解するものではありません。
wouldなどの《法助動詞》に共通して言えることは、文が事実を直接的に述べるのではなく、語り手によって判断されたものであること、したがって法助動詞を使う文章は必ず語り手が「このように考えているのである」という状態の文です。語り手が存在しているということにおける文です。日本語では語り手の存在は文法的な構成要素ではありません。日本語では、どうしても語り手の存在を記す必要がある場合は、「私は・・・とあなたに伝えます」のように不自然に語り手「私」を文中に登場させなくてはなりません。それに対し、欧米の言語では語り手の存在が《法助動詞》の使用によって常に明らかとされながら文が進行していきます。
··· can ···.
= I say that ··· can ···.
たとえば、新聞に載っている事実的な記事の文に法助動詞が使われている場合には、その文を書いた新聞記者の存在という「記述の状態」が表されることになります。その意味では、新聞の紙上で事実を伝える記事においては法助動詞は使うべきではないモードです。法助動詞の文は必ず前に « I say that » が付いている状態、記述者がいるというモードです。

要注意!
法助動詞の使用は、内容の確実性や事実性が完璧ではないかもしれないということを意味するのではありません。記述の立場にいる「語り手の存在」のモードです。「何々であるという可能性が高い」という主観性を表すのではなく、「この文を書いた人が書いた文です」というような、文が書かれたときの状態を表すモードです。その意味でwouldが使われている文を機械的に「・・・だろう」「・・・と思われます」と和訳するのは誤りです。欧米の言語では100パーセント確実なことでも、wouldなどの法助動詞が使われた場合は「書いた人が書いた文」「喋っている人が喋っている文」であるという形です。
昨日は雨だった。
昨日は雨だったのよ。
日本語でも「・・・のよ」を付けると、喋っている女性の存在が見えてきます。このことは昨日が雨天であったことの事実性の確かさの度合いとは無関係です。その意味で、wouldなどの法助動詞が使われている文を「・・・だろう」と不確かであるような意味を持たせながら和訳するのは誤りです。
明日は月曜日です。
Tomorrow is Monday.
Tomorrow will be Monday.
この二つの文の違いは、後者には語り手が存在しているということです。不確かであるとか、主観的意見であるということではありません。

日本語の文法には全くない感覚です。「・・・だと思う」のような気持ちではなく、観察者の存在そのものが文法を左右します。ひとつの事象を判断した人物が存在し、その人物の言ったことでありながら法助動詞が用いられていない文は、英文として違和感を与えるはずです。新聞や雑誌などで「このアイスクリームは美味しい」という文が法助動詞なしの英語で書いてあるというようなことは、宣伝広告以外ではあり得ません。また、法助動詞を用いて書いてあるものを「このアイスクリームは美味しいであろう」などと和訳するのも誤りとなります。同時に、日常会話などで、誰かからご馳走されたものの場合、法助動詞を用いずに《このアイスクリームは観察者の存在とは無関係に美味しい!》と言うことは当然の礼儀でもあり、したがって英語のフレーズには I love you などのように語り手が必然的に存在していながら法助動詞が用いられない形で固定化しているものも数多くあります。文法的に故意に不自然にすることによって文意が強調されることもあります。I think I love you.

カレーを食べるか、ラーメンを食べるかなど、文意で表現されていることがらが自由な選択肢とともに語られている場合、選ぶ人間の気まぐれの存在を前提としています。そのような文意において法助動詞が用いられていないと文に違和感を与えることになります。選択が不確かであるということではなく、選ぶ人間が存在するという意味。これは事象を判断する人の存在ということで考えることもできます。狐のような犬、あるいは犬のような狐がいた場合、法助動詞を用いることにより、どちらでも同じことであるから構わないという立場が表現されます。つまり、犬か狐かの判断よりも観察者の存在のほうが優位に置かれます。
This one would be a fox.「私には、どちらでもいいです」「私にとっては、たいした問題ではありません」
法助動詞を判断の不確かさの表現と考えるのは、法助動詞の本質から大きく外れます。
「《私は》これは《絶対に》狐《だと思います》」と宣言するのは論理的に矛盾しているではないかという物腰が前提となっています。不確かであるから法助動詞を使うのではなく、自分が言うから法助動詞を使うのです。
I think this one would be absolutely a fox. として正しい英語となります。

can, could, may, might, must, shall, should, will, would を現在形と過去形のように考えた場合、must だけ過去形がないように見えますが、must は昔の英語の motan という動詞の過去形が語源であり、motan の現在形は使われなくなりました。ドイツ語の müssen の過去に似ています。現在形が完全に消滅し、過去形だけが残ったものとして、他に ought があります。現在形が消えて、過去形だけが残るという現象に法助動詞の規則の特殊性が見られます。先にも述べたように、欧米の英語以外の主要な言語では普通の直接法のほかに接続法と条件法があり、事実に反する空想的な仮定を表現する際には条件法過去が使われます。反実仮想で、もし羽があったなら君のもとに飛んでいくのになあ、と日本語と同じように、ありえない条件「もしも」を過去「あったなら」にするのに対し、主節の動詞の「したのになあ」の部分が条件法過去になります。ところが英語には接続法も条件法もありません。(英語には仮定法という文型がありますが、これは動詞の活用のモードではなく、言い回しの構文にすぎません)。
ゴチャゴチャしましたから、簡単に言います。他の多くの言語には直接法、接続法、条件法の三つのモードがあるのに対し、英語には直接法しかありません。英語のwouldなどの法助動詞は、他の言語の接続法と条件法の代用となります。
条件法による反実仮想は、英語では法助動詞の過去形が使われます。事実に反する仮想とその場合の結果を述べる形、反実仮想は、語り手の存在を前提とした、いかにも法助動詞らしい言い回しです。反実仮想には、過去における反実仮想と現在における反実仮想があります。
過去の反実仮想
if に続く条件節の文は、「もしそのとき羽がはえていたのならば」「もしそのとき大金持ちであったならば」などさまざまですが、もしそのとき可能だったのならということであり、If it had been possible at that time, (I say that) I would have done··· という類の形に要約できるとしてみましょう。I say that は語り手の存在です。主節は次のようになります。
··· could have p.p. ···
··· might have p.p. ···
··· should have p.p. ···
··· would have p.p. ···
現在の反実仮想
if に続く条件節の文は、「もし今、羽がはえていたのならば」「もし今、大金持ちであったならば」などですが、もし今、可能だったのならということであり、If it were possible now, (I say that) I would do···というような形です。主節は次のようになります。
··· could inf.···
··· might inf.···
··· should inf.···
··· would inf.···

動詞の過去を用いた現在の反実仮想は現在の丁寧な勧誘の表現にもなります。
(Do you think that) it would be nice if we went to visit him in the hospital now? 彼のお見舞いに行きましょう。

現在の実現可能な条件
if に続く条件節の文は、「もし、バスがなかなか来なかったら」「もし、のどが渇いたら」など、充分にありえる状態を仮定し、If it is possible, (I say that) I will do··· という形です。接続詞 If に続く文の動詞は未来の時制にすることはできません。(実際には、If の文に動詞の未来の時制が使われる場合がありますが、ここでは触れません。(会話の相手に対して慇懃に何かをお願いし、そのことを条件として自分が何かをする場合です。たとえば、「もし、今、あそこにある店でカツ丼をおごって頂けるのでしたら、彼女の秘密をお教えいたしますが」I could let you in on her secret, if you’ll just treat me to a Katsudon. 等。))If···will··· という文は存在しないことを考えると、If···現在の形で実際には未来についての文であるとも言えます。主節は次のようになります。
··· can inf.···
··· may inf. ···
··· shall inf. ···
··· will inf. ···
とかく日本人は、英語を喋る人たちは自分の考えをはっきりと述べる人たちであるといったような印象を持ちやすいのですが、この印象は英語の法助動詞のモードが語り手の立場を表現していることが認識されないことが原因かもしれません。文の意味ではないので、日本語に訳した文にはこの語り手の立場の要素が消えてしまいます。英語の冠詞の持つ集合論的な感覚も日本語にはない感覚なので、日本人にはピンときませんが、法助動詞の語り手の立場のモードも日本語にはない要素なので日本人には意識されない部分となります。
上に述べた三つの時制を語り手の立場から見直してみます。
過去の反実仮想の形の文は現在から見た過去のことがらが語られています。If··· という条件節なしで、主節が単独で使われたときも過去の事実の逆の状態での意見となります。過去の反実仮想の形は、しばしば語り手の立場を「遠慮したものの言い方」のように受け取られる場合が多いようですが、しかし、これは内容が不確かなのではなく、語り手の判断がはっきりしないのでもありません。そうではなく、過去の反実仮想の形は語り手の立場における礼儀を表しています。丁寧語です。「おい、おとといの武道館でのスティービー・ワンダーのコンサートは本当によかったぞ。You should have gone!」これは、コンサートに来なかったが、来るべきであったという反実的な意見だけでなく、もし、可能だったら、あなたも来たほうがよかったと「私は思うのですよ」という判断する語り手の立場を明らかにし、「丁寧語の立場」が表されています。
I could have done it.
もし、逆の状況だったらそれができたのでしょうが、残念です。
It might have been so.
そのとき、どのような状態であったかは詳しくは知りませんが、あなたのおっしゃる通りになったかもしれませんね。
I should have been doing it.
そのとき、残念ながら別のことをしていたのですが、今になってよく考えてみると、確かにそちらのほうをしているべきでした。申し訳ない。
I would have gone.
野暮用さえなかったら行きたかったのですが、残念です。
現在の反実仮想は動詞は過去形ですが、話は現在です。つぎのような語り手の立場が表現されています。
··· could ···
= I say that ··· could ···
··· might ···
= I say that ··· might ···
··· should ···
= I say that ··· should ···
··· would ···
= I say that ··· would ···
充分にありえる条件は、現在形ですが話は未来の話です。
··· can ···
= I say that ··· can ···
··· may ···
= I say that ··· may ···
··· shall ···
= I say that ··· shall ···
··· will ···
= I say that ··· will ···
( willは未来を表す助動詞ですが、will 自体は、その現在形です。他の多くの言語には動詞の活用に未来形があるのですが、英語の動詞には未来形がありません。法助動詞の過去形が現在のことがらに使われ、法助動詞の現在形が未来のことがらに使われます。)
法助動詞を使うということは、日本人ならば一回、軽くペコリとお辞儀をする感じです。意味よりも、言葉のジェスチャーと言えます。
過去のことがらについての話には、丁寧語、ペコリとお辞儀をするつもりで次の法助動詞。
could have p.p.
might have p.p.
should have p.p.
would have p.p.
現在のことがらについての話には、丁寧語、ペコリとお辞儀をするつもりで次の法助動詞。
could
might
should
would
未来のことがらについての話には、丁寧語、ペコリとお辞儀をするつもりで次の法助動詞。
can
may
shall
will

次に個々の法助動詞を見ていきます。法助動詞が丁寧語であるならば、ほとんどの文章が丁寧語になってしまいますが、実はその通りです。命令法が気軽に使われる一方、普通の会話や文章では丁寧語が生き残っているというわけです。

shall
この法助動詞の現在形は丁寧が行き過ぎて慇懃無礼になり、滑稽ですから、日常では絶対に使われません。ダグラス・マッカーサーが I shall return と言ったのは、政治的な公的な発言における礼儀と考えられます。Shall we dance? は芝居がかったおべっかです。
should と must
もとは尊敬語、丁寧語であるものが、生き残ったと考えられます。 You should do that. You must do that. You shouldn’t do it. You mustn’t do it. など、とても丁寧語とは思えませんが、意味よりも、語り手の立場という要素が文に含まれていることを認識しましょう。
過去のことがらについて話しているときには、
should have p.p.
shouldn’t have p.p.
must have p.p.
mustn’t have p.p.
そして現在のことがらについて話しているときには
should
shouldn’t
must
mustn’t
が使われます。
“You shouldn’t do that!”
これは、かなり強い口調での批難ですが、もともとは丁寧語であったはずです。現在の反実仮想です。
「今、あなたは実際にそれをなさっていますが、やむを得ずなさっているということは私は充分に存じております。もしも、それがしなくても済むものであったのならば、あなたはきっとそのようなことはなさらないのでしょうね。」
それに対し、命令法で直接的に “Don’t do that!”と言うと、丁寧語にはなりません。shouldn’t を「すべきではない」という意味の日本語訳で考えるのでなく、人に注意をする場合は礼儀をわきまえて丁寧語のモードで言うということです。「すべきではない」ということ、言うと失礼になるかもしれないことを言う場合は丁寧語のモードを使うことになっているので法助動詞が使われているのです。日本語でも「おまえ」が語源的には丁寧語であるのと経緯が似ています。
私が道を歩いていた時に通りがかかりの男性の連れていた大きな犬が私の胸に前足を上げてじゃれついて来たときに、その飼い主は
“You shouldn’t do that!”
と犬に言っていました。
これは丁寧語ではなく、「おまえは今、それをしているが、本当はそれをすべきではないということを覚えろ」という意味。今、実際には、それをしてしまっているという意味です。
You should do that!
あなたは今、実際は、それをしていないが、本当ならば、それをしていなくてはいけないと私は思う。

may
過去のことがらに関しては might have p.p.
現在のことがらに関しては might
未来のことがらに関しては may
過去形 might は丁寧語であり、話の内容の確実性とは関係がありません。
It might have been true.
これは過去のことがらが、もしかしたら本当かもしれないということではなく、「それは本当であったと私は思います」という丁寧語。
It might be true.
今のことがらに関し、本当である可能性があるということではなく、「それは本当のことであると私は思います」という丁寧語。「かもしれない」という意味ではありません。なぜ丁寧語であるかと言うと、それは語り手の立場が表されるモード、I say that… であるからです。
現在の時制での許可、何々をすることが許される、何々してもよい、という意味の単語としては、新聞記事などの堅い文章では動詞 allow が、日常会話では can が使われます。現在形 may は店員の May I help you, sir? や、お墓に書いてある文などのほかには使われません。may と can の意味的な相違を云々するのは、かなりマトがはずれています。現在形 may は使われることがなく、過去形 might は極めて丁寧な「語り手の礼儀正しさ」だけを表現します。「ありえる」「かもしれない」という意味はありませんから、現在の話のなかで「何々かもしれない」と言うときには、might be ではなく、 might be able to be と言います。過去の話になかで、「何々だったかもしれない」は might have been able to be です。might は頻繁に使うと語り手の態度として弱々しい印象を与え、煮え切らない奴と思われてしまいますから、繰り返し使うのは避けましょう。一方、would とその音便の ‘d は繰り返し使ってもおかしくありません。

can
過去のことがらに関しては could have p.p.
現在のことがらに関しては could
未来のことがらに関しては can
canは丁寧語なのですが、日本語で「できる」とだけ訳されるので日本人には丁寧語として聞こえないかもしれません。
中学校などでは、can は未来時制で will can とは言わないから、未来には will be able to となると教えているかもしれませんが、それは今日は不可能であるようなことが、明日は可能になるという場合の比較においてのみ使われます。You will be able to は、今は不可能であることを表します。今日できて、明日できないことは、You will not be able to です。現在のことに関して、You are able to とは言いません。can は法助動詞であり、If it is possible, (I say that)···can··· という意味であり、すでに未来を含んだ言い方であり、語り手の立場からの判断を表します。You can··· は、するかしないかは聞き手の自由ですから、その意味では can は will と並んで未来の時制を作る法助動詞とみなすことも決して間違いではないと思われます。can は未来です。オバマが選挙で繰り返した Yes, we can! は、もし我々がそれ望むならば、未来において、我々はそれができると私は言います、という意味。
新聞の事実報道で、記者の存在が表現されないことが望ましい場合には法助動詞canの代わりに動詞allowなどが用いられます。報道記事の文章中にcanという単語を見つけるのは困難なはずです。

will
過去のことがらに関しては would have p.p.
現在のことがらに関しては would
未来のことがらに関しては will
would の使い方が日本人に難しいのは、日本人は would という語をその語の意味で理解しようとするからです。語り手として、少し遠慮をするような立場のジェスチャーだと考えると簡単になるかもしれません。「すみません。もし、できましたら、・・・」
I would (*^_^*) like to do it.
would は日本語の訳文の中では、訳してはいけない語である場合もあるかもしれません。主張の内容に関する確実性が低いというようなことではなく、語り手が自分の主張をかなり正しいものと自負している場合でも、礼儀として、丁寧語として使われます。「無理は承知しておりますが、もしもできましたなら言わせていただくのですが」という立場を表現する反実仮想の感じが、もともとの意。
辞書などで would を見ると、いろいろな意味が載っていますが、そのさまざまな意味を直接的に言い表しているのではなく、「そのような意味の文において」、動詞は法助動詞のモード、語り手の立場での I say that のモードになるということです。would が過去の習慣を表すことがあると理解している読者が多いと思いますが、would が過去の習慣を直接的に逐語訳的に意味するのではなく、過去の習慣ついての文は「何々だったとさ」「今、思い起こせば、本当に何々だったなあ」「たしかに何々だったような気がするな」などの文が含まれるモードの中で、思い出す語り手によって思い出されて語られるからこそ、必然的に動詞は would を使うことになるということです。過去の習慣でも、直接法の used to は新聞記事のような客観的事実に使われ、法助動詞モードの would は語り手の思い出のような、私的な親しみのある文に使われます。
フランス語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語などの動詞は単純過去、半過去、未来、接続法、条件法などのそれぞれがさらに六種類に活用し、名詞には男性名詞、女性名詞の区別があります。それを暗記することが初心者の負担になります。ドイツ語には未来形や条件法はありませんが簡単な接続法があり、名詞にはさらに中性もありますし、文法としては語順という初心者泣かせの大問題があります。それに比べると英語は驚くほど単純にできています。未来形を will や can で、接続法や条件法を would や could で済ませていますが、そのことは、逆に、いかに法助動詞が大切であるかということを意味しています。とくに would は接続法と条件法を一語で担っています。日本語には接続法や条件法はありませんから、日本人には I say that··· の立場での必然的なモードがよく理解できないかもしれませんが、日本人は話しながらニヤニヤしたりペコペコしたりしますから、その度ごとに would を使うと考えても決して間違いではないと思います。つまり、まったくの無表情で喋ったら異様であるような文、「語り手の存在」を少しでも含んだ文には法助動詞が必ず使われていなくてはならないということです。