吃音症の原因

 

吃音症の治療

この治療理論の記述は医師免許を持つ精神分析医だけを読者として想定している。実際、これは他の病気のために展開した治療理論であり、この理論には吃音症に関する記述はない。はたして吃音症の治療理論としても正しいものであるのかという問いが常にある。この理論の吃音症の治療に関しての妥当性は臨床的には確証されていない。読者はこの理論の妥当性を思い込む必要はなく、吃音治療のための有効性に関しての本当か嘘かを読む前に決める必要もない。

画一的な方法
人の心が問題となっている限り、精神分析学的な理論は帰納的推論による仮説にすぎず、画一的に演繹されるような性質のものではない。本質的に、患者の各々が特殊例であり、患者の各々が精神分析学的治療のひとつの新しい試みである。筆者は、この治療理論がすべての吃音症患者を必ず治す理論であるとは言わない。なぜならば、これは精神的な治療であり、治療は各々の患者の極めて個別的な問題であるからだ。チェスに無数のゲーム展開があるように、各々患者の治療のために画一的な方法が採用されることはない。吃音症患者ひとりひとりの個別性に関する精神分析医の正しい理解とともに、各症例が臨床的に個別に検討されるのである。

一般の読者
薬による化学的治療とは異なり、患者が精神分析学的理論を理解することを必要とする精神的治療は不確実であり、したがって無理解による危険がともなう。これは筆者には明解な理論であるが、神経症における身体性などの熟慮が必要なため、10分以上何かを学ぶという習慣のない一般の読者は、10分間で容易に理解できるような理論ではないということを承知しておかなくてはならない。とくに理科系の勉強(工学、電気学、微積分、等々)をしたことのない人は、ものごとすべて10分間の勉強で理解するものと思い込んでいる。そのような人たちには漸進的な理解は不可能である。理論の構造を自分の推論によって頭の中に組み立てることができない読者、容易な本しか読めない読者は、この理論は読めない。とんでもない誤読の危険性に関しての筆者の責任をかんがみ、充分に建設的で知性といったようなものに欠ける人には読むことは禁止とする。

神経症の患者
抑圧は健康な機能であるが、抑圧の仕組みが身体的である場合には日常生活において意識活動の支障となる。さらに、その仕組みの存在そのものが意識の絶え間なき対象となる。
読者のひとりひとりにおける抑圧された不快感情の蓄積の有無は筆者の知るところではない。また、不快感情の蓄積は抑圧されているので患者自身がそれを意識することはない。神経症の患者は「毎日、とても不快なことが繰り返されました」とは言わない。
また、無意識は神経症の構造を隠しているため、意識が神経症の構造を理解する方向に進むこと、神経症の構造が明るみに出ることに対して無意識的な《抵抗》が生じる。

吃音症の治療
抑圧は健康な機能であるが、「身体的な仕組みによる」抑圧機能を先天的に持つ人達がいる。そのような人たちにとって、抑圧の対象がリビドー的な不快感情である場合、一日中、絶えず抑圧が必要であり、身体的抑圧は、一日中、絶えず意識対象となる。神経症の絶対的、強迫的な身体的症状は抑圧の手段である。治療はリビドー的な不快感情の除反応によって行われる。それは繰り返された出来事におけるイメージや人物の除反応ではなく、はっきりとは意識されていなかったリビドー的な不快感情の除反応である。吃音は喋る時にのみ現れるため、あたかも一日中、常時には存在していないかのようにも見えるが、それは比喩的に言えば、二軒の家の庭の間にある塀は越えようとする時だけの障害物でありながら常時に存在していることと同様である。

吃音は随意運動である
神経症の症状は感覚や行為などの身体的強迫として現れる。神経症の強迫的運動は、すべて随意運動である。吃音は随意運動である。神経学を学んでいない人は随意運動の定義を医学的に知らないので、吃音が随意運動であることを理解できない。吃音は発声のブロックの後で喉を通り出た音のことではない。吃音は単語を発することのブロックである。吃音者をからかう者には随意筋によるこのブロックの随意運動はとても容易にマネできるのである。仮に、もしも吃音が不随意運動であったならばマネは不可能である。吃音は神経症の絶対強迫の仕組み、病的な身体的抑圧の仕組みである。その力が意識を絶対的に支配しているのである。

吃音症の原因(無意識の中での選択肢として)
神経症の症状は身体的症状であり、すべての随意運動は神経症の症状になりえる。吃音症と呼ばれる病気は吃音が随意運動であるという前提において存在している。本物の吃音症であろうが、マネであろうが、いずれにせよ誰でもどもることができる。発音のブロックは容易な随意運動であり、神経症の症状として無意識によって選択される。吃音症の患者は、どもれるから無意識によってどもらされるのである。したがって吃音症の治療は発音運動の領域ではなく、除反応の領域で行われる。もちろん、筆者は多くの読者がこれを理解できないであろうことを充分に承知したうえで書いている。

治療における個別性
この治療理論の読者としては精神分析医のみが想定されている。この神経症の理論は患者には理解できない。治療に伴う危険を考慮し、限られた読者のみが想定されうるのである。神経症に関する読書の能力に欠ける患者は読者としては想定されない。ところが治癒には神経症の構造に関する患者の理解が伴う。無意識の独立性の理解、病的な抑圧の身体的仕組みの理解、および除反応の量的な理解。治療には長い期間をかけるのであるが、治癒の方向性、すなわち除反応のイメージと爆発の量が確実性をもって定まったのならば、患者は精神分析医の助けは必要なくなる。したがって精神分析医が患者に神経症について説明するのであるが、精神分析は神経症の治療であるにもかかわらず、神経症を知らない精神分析医が存在することは残念ながら事実である。随意運動と不随意運動の区別を知らない精神分析医すらいるのである。精神的な構造に関する抽象的な記述の理解が困難な精神分析医は、むしろこの理論の記述を読まないほうがよい。たとえば吃音が随意運動であることの記述に関し、即座に未熟な反論のみを始める精神分析医にはこの理論を理解することは不可能である。無知を原因とする危険性、および筆者の責任をかんがみ、神経症の身体性を知らない精神分析医はこの理論を読むべきではない。

危険
ここで問題となる「危険」とは、無知な精神分析医が空想する除反応がしばしば強すぎることを意味する。強すぎる急激な除反応は一過性の不安感を引き起こす。

記述は計50セクションあり、すべて自由に閲覧できる。目次はこちら
他の神経症に関して記述がなされているので、吃音症の治療として読み始める読者は、まず第50セクションを読む。

神経症の治療のための前提条件
・患者は無意識の領域が意識の知覚を完全に超えていることを理解しなければならない。
・無意識と性器の関係に関する推論のための知性。
・通常、性的トラウマに責任のある人物は、小さな子供の頭の中での錯覚による人物である。錯覚の人物を実際の人物と混同してはならない。この区別には患者の知性が必要である。
・身体的強迫性の理解。
・吃音が随意運動であることの理解。

このようなことを理解するには勉強時間が必要であるのだが、ほとんどの患者は理論的な概念を理解のために時間をかける習慣がない。「吃音症の原因は、誰でもどもれるということである」と筆者が書いても、一般の患者にはその意味は理解できず、冷笑するのみで終わるのである。誤読による危険性をかんがみ、著者は患者がこの理論の説明の直接的な読者となることを望まない。

吃音症の治療