読点の打ち方はなぜ自由なのか。

読点の打ち方はなぜ自由なのか。
読点の打ち方は、なぜ自由なのか。

日本語の文法には読点の打ち方に関する厳格な規則はない。規則がないと言っても、勿論それは常識内での話ではあるが。したがって読点はこれこれこのように打つのが好ましいなどというような説明は、説明する側の個人的な趣味以外の何ものでもない。たとえ一般的に読点が打たれる傾向にある箇所に読点が打たれていない場合でも、ああこの人はこのように書くのかと思われるだけであり、それは文法的な誤りとはならないのである。

分かち書き
現在、テレビ番組やインターネット上の動画のテロップなどで《分かち書き》が頻繁に用いられている。これは幼稚園児の絵本や小学一年生の教科書用であり、大人が用いるものではない。欧米の主要言語など、アルファベットで書かれるものは単語と単語の間に切れ間があり、これは一種の分かち書きとも言える。これに対し日本語では漢字、平仮名、片仮名の混用により、単語と単語の間での視覚的な細かな切れ間は必要とされない。分かち書きは大人には不必要であり、よって幼児的なものと言える。読点が打たれなかった場合の不都合をその観点から考えるならば読点を打つべき箇所が明確となる。小学一年生のために平仮名だけで書かれた文に分かち書きが用いられるのは必然である。

日本語の読点の打ち方は欧米主要言語でのコンマの用法、複文のためのコンマの用法とは異なる。読点とコンマを混同してはならない。欧米主要言語では、コンマの打ち方は文法で細かく決められている。コンマの打ち方によって文の意味的な構造に違いが生じもする。従属節の前後で必ずコンマが打たれるドイツ語以外になるが、文中の関係節が先行詞を限定するものか、説明するものかの違いなどはコンマが文意に影響を及ぼす例である。節 proposition を文中で独立させる役目、算数の計算における括弧のような役目をコンマは持っている。
一方、日本語では読点は文の構造とは無関係であり、書き手の好みのままに打たれる。それは文の意味的な構造が助詞によって支配されているからであり、同様のことが語順にも言える。それにも関わらず、正しい読点の打ち方として、新説、珍説が説かれていることがインターネット上、少なからずあるようだ。それらのサイトページに多く見られる誤りの指摘を当ページの趣旨とする。読点の打ち方は日本人の一般的な習慣に従うものである。したがって文章を書くときの習慣を日本語の本質的構造から逸脱させる方向に煽るサイトページや動画などには注意が払われるべきである。

本来、国語の読点の打ち方として、次の三種のみがある。その他の箇所では読点は打っても打たなくてもよい。読点の打ち方の任意性は国語文法の特色のひとつであり、したがって個人的な好みからの画一的な規則を一般に対して求めるのは大きな誤りとなる。

(1) 平仮名、片仮名、漢字の連続において単語の切れ目を明確にする。文の構造における機能的な成分とは無関係。これは例を挙げて説明するまでもない。したがって平仮名で終わる接続詞に漢字が続いている箇所では読点は必要ない。読み易さを必要以上に気にすると国語として見苦しくなる。たとえば、このページの表題「読点の打ち方はなぜ自由なのか」では「は」と「なぜ」の間には読点は打たれていない。これは日本人が日本語を読むならば「ハナゼ」と読んで「ハナゼ」とは何かに悩む人はいないからである。「は、なぜ」と打たれた読点は小学一年生の分かち書きのレベルであり、とても恥ずかしいものなのであるが、そのような読点を不必要とするような感覚を持たない人もいることであろう。

(War Guilt Information Program の一環として、日本語をすべてローマ字にするという意見もあったのだが、当用漢字と名付けられた新漢字がアメリカの命令で作られ、その使用が一般に強制さた。現在でも明治文学の作品までが現代仮名遣いに変えられ、出版されている。。その一方、アメリカで生活したことのない日本の子供たちがアメリカの文化を知らず、外人さんと英語で話したことも一度もなく、アメリカ国歌の歌詞すら知らないのにもかかわらず受験科目のひとつとして英語がある。日本語の勉強のほうは程度がますます低くなり、日常会話を超える語彙や漢字の知識は極めて乏しい。ここに読点がなければ読み難くなるなどと情けないことを言う人は、自分の国語の感覚の乏しさにまったく気づかずにいるのかもしれない。)

(2) 続く二つの単語が文法的に直接つながらない部分を分ける。たとえば動詞の連用形に体言がつながることはないので「魚屋に入り道を尋ねる」などとは書かない。そのような箇所に打たれる読点は助詞の代わりである。助詞とは、係助詞格助詞接続助詞並立助詞などのこと。したがって助詞が置かれている場合には読点は不要となる。読点が多すぎる文章は一般に嫌われがちであるが、それは助詞のあとに不要な読点が打たれているのである。
体言と体言も文法的には直接的に続くものではない。
助詞を使って「魚屋に入りて道を尋ねる」という言い方は古臭く、「魚屋に入って道を尋ねる」となる。助詞が省略されている箇所には読点が打たれるのである。「魚屋に入り、道を尋ねる」と書く。
続く二つの単語が文法的に直接つながらない部分として、もうひとつ、倒置された箇所がある。「道を尋ねた魚屋に入って」とは書かない。文の意味が変わってしまう。
したがって助詞、たとえば接続助詞「て」などの省略と読点の打ち方の関係を画一的に考えてしまうならば、
「彼の今回の訪問は我々にとってとても良い思い出となった」
「彼の今回の訪問は我々にとり、とても良い思い出となった」
と言ったような読点の打ち方にも迷いがなくなる。
文頭における「また」の後に漢字が続く場合も、「または」の「は」の省略と見るならば読点が打たれる。したがって「または」の後に漢字が続く場合には読点は打たれないであろう。

(3) 文が長くなってきたとき、任意の箇所で読点が打たれる。文の長くなってきている途中に読点のないものは、ある種の息苦しさが感じられ、不快である。この読点も文の意味的構造を左右するものではないが、しばしば重文のつながる箇所で接続助詞が省略され、その場合には読点が必要となる。接続助詞が省略されていないときには読点は打たなくてもよい。大きく二つに分けられる構造であるような文でも、そのような構造的な切れ目と読点が一致する必要はない。但し文の息がすでに長めになってきているときには、重文のつながる箇所は読点を打つ呼吸として自然であろう。その結果、助詞の「が」が格助詞である場合には読点は打たれないが、逆接の接続助詞の場合には打たれることが多くなるはずである。いずれにせよ接続助詞は既にそれ自体において文の構造的な切れ目を表している。

言語の連結的な構造
文とは文頭から文末のマルまでをさすのであるが、世界のいずれの言語であれ、文の文末の言葉までが正確に決定されてから文頭を始める人はいない。日本での外国語の学習などで、センテンスのピリオドからピリオドまでを暗記するといったような誤った練習方法があるかもしれないが、文とはそもそも、まず文頭を喋り始めてしまい、喋りながら次の単語や句が頭に浮かび、それらが次々に足されていくことにより成立するものである。喋りながら、あるいは書きながら単語や句が後から次々と足されていく連結的な仕組み、これは言語にとって本質的なことである。

文末のマルまでを意識するのは言語の本質に反することであり、マルからマルまでが長いか短いかは問題とはならない。したがって長い文の「なかほど」に読点が打たれるということはない。勿論、マルまでを書いてしまった後で、文全体を見ながら、「なかほど」の構造的な切れ目に読点を打つなどという順序はありえない。ひとつの文の全体的構造などというものは書き手の意識にはないのである。「マルまでが文である」という文法的な概念すら書き手の意識にはないということが、そもそも言語の連結的な構造の本質であるとも言えるのである。(一方、ドイツ語においては文頭と文末に挟まれた構造が強く、節にも際立った独立性が伴うという性格があり、文が長くなるほど文がコンマの使用とともに構造的になる。しかし、文末に過去分詞が来る場合でも、はたして文末でどの過去分詞を使うかはその時まで決まっていないことが多いはずである。)通常、ひとつの文が長くなるか、短くなるかは書き手が意識することではない。また、文が声で読まれる場合も、聞き手は文という単位でマルからマルまでを意識して聞いたり、文全体の構造を意識して聞いたりはしない。したがって読点は極めて局所的な役目、語と語の切れ目を表すことにおいてのみ打たれるのであり、文意的な構造に関わる読点というものは存在しない。

以上が国語での読点の打ち方のすべてである。これ以外の読点は書き手の個人的趣味。個人的趣味も言語表現において大切な要素ではあるのだが、それを学校の教師が生徒に吹き込むのは誤り。長い文における読点は書き手の好みによって自由に打たれるものであり、それをあたかも規則であるかのように説明するのは勝手な思い込みにすぎない。とくに教育の場で教師の誤った個人的な思い込みが、あたかも正しい国語文法であるかの如く子供たちに押し付けられるようなことがあってはならない。そもそも日本人を相手に国語文法を説明するということからして愚かである。

読点の打ち方に関する勝手な珍説。
・ 読点の打ち方により、文の意味的な構造に違いが出るというもの。
太郎君は煎餅を食べながら勉強をしている花子さんをくすぐった。
太郎君は煎餅を食べながら、勉強をしている花子さんをくすぐった。
太郎君は、煎餅を食べながら勉強をしている花子さんをくすぐった。
上の三つの短文は前後の文脈がないため、どれも煎餅を食べているのが誰なのかは明らかではない。誰が煎餅を食べているかが読点によって明らかにされることは絶対にない。読み手、聞き手の先入観のみである。文意は紙の上の読点には左右されない。たとえ実際に読点を「テン」と大声で発音したとしても文意は変わらない。これを一部の人が、いかにも文意に違いが出るかのごとく説くことがあるが、それは単なる個人的な思い込みに過ぎない。現在、我々の日本語にはそのような読点の用法はない。曖昧ならば曖昧なままが正しい日本語である。読点によって動詞の動作主が表されるという説はウソであり、子供たちは騙されてはならない。先に述べたが、日本語では文節の独立性が読点で表されることはない。欧米の主な言語では、たとえば文中の関係代名詞で始まる部分などはコンマが打たれることによって、あたかも算数で括弧内の足し算が外の掛け算よりも計算が先であるように独立性を帯びるのであるが、日本語にはそれはない。文章の意味的な構造は読み手、言葉の本質として、声で読まれたときの聞き手が文脈のなかで認識されるものである。
次のような見苦しい読点は国語にはないのである。
「奇麗な、猫を抱いた老婆」
日本語では次のように書かれる。
「奇麗な猫を抱いた老婆」
声で読まれたときの聞き手の理解が文の理解であり、紙の上の読点によって文意が左右されることはない。言語は本質的に誰かが誰かに考えを言うということであり、紙の上に打たれた読点により文意に違いが出ることはない。
文意に曖昧さがある場合、文全体を書き直すのも良い。読点によって曖昧さを修正するという勝手な新文法を子供たちに吹き込むことは許されない。読点ではなく、次のような書き直しのみが解決策となる。
→「その老婆は奇麗な猫を抱いていた」
→「猫を抱いていたのは奇麗な老婆だった」など。
機械の設計図とは異なり、文章にはすべての部分が明確に記されているという保証はない。前後にある文章全体の文脈においてのみ理解可能な文などは極めて自然なものである。短文のみならば文意に曖昧さが生じるのは当然であり、そのままでも正しいのが普通の文である。

・ 「カバンには、ブラシが」
読点が打たれていなかったら歯ブラシだと思う人がいるかもしれない。

「常に旅行カバンにはブラシが入れてある」などの例文は、一休さんの、このはし渡るべからずの類である。このような曖昧さ、複数の解釈の可能性などは日本語の特色のひとつ。民主政治において文部科学省が文法の合理化をするのならば正規の国語文法として認められても仕方ないが、サイトページの作者、インターネット上のユーチューバーなどが教育的な体裁において自分勝手な思い込みの新文法を世間に広めようとするのは批判されるべきである。平仮名を使ったトンチは小学校低学年のレベルである。
通常、日本語では次のように書かれる。
「常に旅行カバンにはブラシが入れてある」
これを歯ブラシだと思う人はいないし、それを避ける目的で読点を打つ日本人もいない。

「玄関ではきものを脱いで下さい」
この短文に読点が必要と考えるのは小学一年生の分かち書きのレベルである。着物を脱ぐとも読めるという面白みも生まれるのが正しい日本語である。そのような文法的特色があるからこそ故意に平仮名で書かれ、ネタになる。この短文に読点が必要だとする考えが大きな誤りであることを、しっかりと認識してほしい。本来の日本語の感覚から逸れているにもかかわらず、それと気づかず、安易に子供たちに吹き込んでいる人達には警告が必要である。この短文には読点が打たれないのが日本語として正しい。教育の場では我々の日本語の文法に関し、つとめて保守的でありたい。

結論
なぜ日本語では読点の打ち方が自由であるかというと、それは平仮名、片仮名、漢字の併用、および助詞の機能により、読点がどこに打たれても文意が変わることが絶対にないからである。同様のことが語順に関しても言える。
将来、もしも文部科学省が国語文法の読点の打ち方の規則を公式に表すことがあるならば、その際に本来の日本語の感覚から逸れた新説がそのまま尤もらしい規則になってしまわないことを望む。

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最後に話は逸れるが、ちなみに・・・・
欧米の主要言語における文法用語である《主語》が日本語の文法には存在しないことは誰でも知っている。まともな国語文法では名詞に係助詞「は」が付いたものを《主語》と呼ぶことはない。「何々は」のあとの読点をどうするかの説明において、もしも《主語》という用語が用いられているようならば、その人には国語文法を語る資格はない。出鱈目である。係助詞「は」は「何々について言えば」と提示しているのであり、文の《主語》ではない。省略可能なのではなく、日本語の用言はそもそも主語のようなものを伴わないのである。昔の文法学者は英文法の用語を出鱈目に日本語文法に当てはめて使おうとし、ずいぶん恥ずかしい誤りを犯したようである。勿論、それらは現在では修正されている。いろいろな文の主語はどれかに関する諸説などもあったほどの馬鹿々々しい誤りである。「象は鼻が長い」など、国語文法における用言の大切な特色のひとつであり、日本語の文法には《主語》と呼ばれえるような成分が存在していないことは外人さんでも知っている。


このビデオでは、日本語の「・・・は・・・です」には動詞も主語も含まれていないことが正しく説明されている。かえって英語の人に、この日本語の特色と美しさが理解されるようだ。
スペイン語、イタリア語、ポルトガル語では主語は頻繁に《省略》されるのであるが、日本語の文法は用言がそもそも主語を伴っていないという特色を持っている。