005『サント=ブーヴに反論する』を読んでみる(テキスト付き)

マルセル・プルースト「サント=ブーヴに反論する」を読む(テキスト付き)

 


Chaque jour j’attache moins de prix
|| l’intelligence 通常、知性と訳される語ではあるが、ここでは知性では文脈にそぐわない。フロイトの精神分析学がフランスでも一般に知られるようになってからは、しばしば意識 la conscience という語が無意識 l’inconscient と対立する意味において使われるようにもなったのであるが、プルーストがこの文章を書いていた頃、つまり1908年頃に la conscience が精神分析学的な意味で一般に通用していたとは思われない。なにしろ、ウィーンでブロイラーによるアンナ O. に関する短い報告が載っている本が出版されたのが1895年であり、(それは勿論ドイツ語での出版であるが)、その10年後にフロイトの初期の著作で仮にフランス語に訳されたものがパリで少し出版されていたとしても、精神分析学的な意味で無意識に対する意識として la conscience という語が使われて書かれても読み手には意味が伝わるとは到底思えない。フロイトの精神分析学自体がまだまだ初期であった頃である。上の文章の文脈より、ここでの l’intelligence という語は「意識的な思考」の意として解釈したほうがよさそうだ。マルセル・プルースト(1871 – 1922)の父親、医師アドリヤン・プルースト(1834 – 1903)はパリのサルペトリエール病院のジャン=マルタン・シャルコー(1825 – 1893)とともに働き、親しかった。1885年には、このジャン=マルタン・シャルコーのもとにはジークムント・フロイト(1856 – 1939)が一年間おり、彼の後のヒステリー症の治療法に大きな影響を与えている。1885年におけるジークムント・フロイト(29歳)、ジャン=マルタン・シャルコー(60歳)、アドリヤン・プルースト(51歳)、マルセル・プルースト(14歳)の四人の間接的ではあるが、しかし実際にあったつながりは興味深い。|| chaque jour…moins de… 日々に減少していくこと。次に chaque jour…mieux と続く。|| 定冠詞付きの単数 l’écrivain は一般的に作家というものはという意味。|| nos impressions (作家だけではなく、人間一般に関することなので、所有形容詞は ses とはしていない)。これも機械的に印象と訳したくなるが、何々に対する印象という形では用いられていない。この語はそもそも物に何かを強く押しつけるという意味であり、転じて、心が強く動かされたときの気持ちを意味する。つまり、感動の気持ちのこと。印象派の淡い色の絵画のような弱々しい、ぼんやりしたものではなく、強い感動の気持ちを意味する。コルトレーンにインプレッションズという曲があるが、強く心を揺さぶられるといったような意味であろうから、これを印象と機械的に訳すことはできない。être impressionné や 形容詞の impressionnant も日本語の印象という語よりもずっと強い意味をもつ。ビデオ 
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|| matière ここでは題材よりも素材のほうが文脈に合う。|| 意識的な思考、表面的な思考が過去のできごととして認識していることがらを本当の過去とみなしてしまっていいのでしょうか。||(本物の過去と呼ぶに相応しい過去とは、もっと生々しく、懐かしさの感動、ああ、そうだったという驚愕とともに「突如」蘇るもの。|| しばしば民話などに見られる、魔法で何らかの物体の中に封じ込まれた霊魂ように、長い人生の日々の瞬間々々は、その時の周囲の何らかの物体に姿を変え、そして何かの拍子にふと思い出されることによって封印を解かれるその日まで、その物体の内部に宿り続けるものであるように思われるのです。過去の瞬間々々が宿っている様々な物体。それらの物体を私たちの身体的な感覚と呼んでもいいのかもしれません。なぜなら、物体というものは「それらを感じる」という仕方で我々の気持ちに作用しますから。|| 物体は感覚で作用するということは、少しあとの文、お祖父さんのビスコットのところに書かれている。|| このように過去の大切な瞬間々々が宿っている多くの物体にも、通常は二度と巡り合うこともなく、懐かしい過去の情景のひとつひとつは永遠に思い出されることもないまま、心のどこか、底の方、そのまた裏の方にでも、迷い込んだままで終わるのでありましょう。


Et c’est ainsi qu’il y a
|| des heures この語は、プルーストの「失われた時を求めて」というタイトルにおける le temps という語に対応する。|| ressusciter と mort : 「過去」が死んで、地面に埋もれた小さな物体に封じ込まれたままでいる状態から、偶然の機会により、その物体が地面から現れ出て、それに封じ込まれていた「過去」が突如として復活する。この地面とは、頭の中の世界ではなく、物の世界であることに注意。|| この時期のプルーストの書いた、このような趣旨での文章では、過去分詞的形容詞 perdu は、どこかに迷い込んでしまっているという意味で使われているのであり、「失われた」と訳されるのは明らかに誤りである。失うとは、存在がゼロになって消えることであるのに対し、どこかに迷い込んで行方が分からなくなるとは、どこかは知らぬが手の届かぬところに存在しつづけていることを意味する。|| 複数形の「夏」を eux, ils, leur で受ける。意識的に想いをはせた夏は、実際に過ごした夏、記憶の奥底に沈んでしまっている夏そのものとは全くの別物なのである。|| Il y avait grande chance… 特別なことが起こらない限り、思い出されるはずもなかったのだが。|| tenir à 何々を起因とする。|| あの夏の「時」は、ある日、偶然のトリガーによって復活したのだった。


L’autre soir, étant rentré glacé
|| ne pouvant me réchauffer パリの彼のアパートでの話のはずであるが、その日のパリは珍しく雪が降り、帰宅したときにはもう体の芯まですっかり冷えてしまっていた。年寄りの家政婦のおばさんがいるのであるが、プルーストは喘息を気にしたので暖炉は焚いてほしくなかったということではないだろうか。|| proposer de inf. 提案する人自身が相手のために何かをすることを提案すること。Elle me proposa de prendre une tasse とすると、家政婦のおばさん自身が飲むことになってしまい、誤りとなる。|| dont je ne prends jamais 動詞が半過去ではなく、直接法現在で使われているのには、多少抵抗がある。|| pain grillé 現在ならば、スーパーマーケットにも、袋に入った、既に表面にうっすらと焦げめのついたものも売っているのであるが、当時は普通の丸いパンの輪切りをニ、三枚、台所で火にあぶったもののことであると思われる。四角ではなく円形で耳の硬いトースト。パンはパン屋さんが昼間に焼いたものであるから、晩には硬くなっていた可能性が高い。|| がさがさのトーストを静かに紅茶に浸し、紅茶の紅茶らしい独特の香りを帯びながら、温かく膨らみ、グニュグニュに柔らかくなってきているところを口蓋の表面に感じたその瞬間、何か心の乱れのようなもの、ゼラニウムの香り、オレンジの木の香り、幸福の、稀有の光のような懐かしい感動を感じたのでありました。|| こちらがプルーストの実話だとすれば「失われた時を求めて」の母親のくれたマドレーヌと紅茶で子供の頃にレオニー叔母さんがくれたマドレーヌにハーブティーを浸したものを思い出すくだりは盛った作り話ということになる。これはスキャンダルだ。


je restai immobile, craignant par
|| qui firent irruption 動詞が複数形なので、意識に現れたのは「田舎の家」ではなく、「夏」である。|| les cloisons ébranlées de ma mémoire この前置詞 de は仕切り壁を記憶の仕切り壁として限定する de であると思えるのだが、ひょっとすると ma mémoire を受身的な過去分詞 ébranlées の動作主とするための de かもしれない。これは文脈の解釈によって判断されるのだが、意識の中へ侵入 irruption してきたという語が次にある。意識を守っている隔壁を裏側から過去の思い出のエネルギーが揺り動かし、押し開けて、子供の頃の夏の日々が情景が意識の中で列になって浮かび上がってきたと解釈することもできるのだが、les cloisons étant ébranlées par ma mémoire という意味で読むのも文脈として美しくない。隔壁が複数で書いてあるのも理由も読み手には不明だ。|| プルーストの文章にケチを付けようなどいう気はさらさらないが、quand soudain の置き方が不自然に思えるし、接続詞 et や現在分詞 ···ant も多すぎる。la charge が直前の le défilé の同格語とされるのならば、同格語の定冠詞は不要のはず。この本はプルーストが亡くなってから、彼の机の引き出しかなにかから見つかったノートを出版したものなので、文章は磨かれていないのかもしれない。もちろん私はあまり偉そうなことは言えない。


Alors je me rappelai
|| そして思い出したのは、小さな少年であった私が、毎朝、二階の部屋で目が覚めると服を着て、下のお祖父さんの部屋に降りて行ったときの情景でした。おじいちゃん、おはよう。お祖父さんも、だいたいその時間に目が覚め、紅茶を飲んでいて、硬く、がさがさに焼いてある乾いたパンを紅茶に浸して私にくれたのでした。そのような毎年の夏、バカンスを過ごした夏が終わると、紅茶に浸して柔らかくなったビスコットの感覚は時間を封じ込めたのでした。|| 時間はビスコットの中に封じ込められたのであり、同時に紅茶に浸したビスコットの感覚の中に封じ込められたの。物体は感覚で私たちに作用するからである。意識的な思考では思い出すことができないという意味において、死んでいる「時」がビスコットの中に潜んでいた。あたかも、地面の下に埋められた棺の中で復活を待っている「時」は、地上の世界では死んだものとしてでしか扱われなず、忘れ去れるような具合だ。|| このような遥か昔の「時」は、老いた女中さんが凍えて帰宅した私にお茶でもどうですかねと勧めてくれなかったら、とうてい思い出すことはなかったはずです。物体、そしてその物体の中に迷い込み、封じ込まれてしまった日々、この両者の間にどのような魔法の契約が交わされているのかは、我々には知る由もないのです。|| プルーストがここで思い出したのは、昔の情景なのであるが、情景が復活したとは言わず、情景の場面の時間が心の中で復活したというように書かれている。|| お祖父さんがくれたのは、ビスコットで、もし日本にもクリスプロールというものが売っていたならば、だいたいそのようなものだと思われる。「失われた時を求めて」という小説のタイトルの意味が理解できる。私たちは子供の頃の懐かしい思い出を沢山もっている。しかし、それらのほとんどが、決して忘れてしまったわけではないのにもかかわらず、決して思い出されることがないであろうような情景なのである。何かの物体の引き金によって、偶然、とても懐かしい情景を思い出したときの心の暖まる感動。情景と言ってしまうと、何がどこにどのようにあったかで終わってしまうのだが、プルーストはその時に流れていたの時間ごと味わいたいのだ。


Mais aussitôt que j’eus goûté
|| お祖父さんがくれたビスコットの中に封じ込まれていた懐かしい時間、それは庭の情景だったのです。あの田舎の家を意識的に思い出した場合での庭は、かすんだ、ただ薄暗いばかりの単なる言葉としてだけの庭だったのですが、突然、長い年月の間ずっと思い出されずにいた小道のひとつひとつ、たくさんの花の咲くの花壇のひとつひとつが次から次へと懐かしく鮮明に思い出されて見えてきたのでした。まるで、中で水中花の開いている日本の器のように、その懐かしい庭の情景が女中のおばあさんの入れてくれた紅茶の、そのカップの中に浮かび上がって見えたのでした。|| プルーストの文章を和訳するときは、ひとつの文をひとつの文として、つまりフランス語のポワンと日本語のマルを対応させて、大きな構成の日本文を組み立ててはならない。関係代名詞の先行詞となっている名詞が繰り返されてもいいので、細かく、フランス語の文で書かれていることがらの順番通りに、一言々々、その順番どおりにそのまま訳していったほうが、ずっと原文に近く、ずっと読み易い自然な文になる。原文にはない語を思い切って訳文に補ってしまい、語の繰り返しもまったく恐れず、字数が二倍、三倍にもなるようなつもりで、できるだけ簡素な語を用いて、ラジオの朗読であってものんびりと聞きやすく聞けるような文のつもりで訳すと、プルーストのフランス語の平易な文章に近くなる。


De même bien des journées de Venise
|| bien de たくさんの。|| rendre 多くの意味のある動詞であるが、ここでは文脈より、「意識的思考は私にベニスの日々を生々しく思い出させることはできないでいた」という意味。|| あるいは、昔、何日ものあいだ滞在したベニス。その思い出も、意識的に思い出そうとしたときにはまったく詰まらない情景でしかなかったのですが、去年、パリのどこかの宮殿の庭を友人たちと歩いていた際、そこには不揃いで、つやつやした敷石が敷いてあって、友人たちは私が足を滑らせはしないかと心配していて、私は大丈夫、大丈夫、先に行っててください、あとで追いつきますからなどと言っていたことがありました。その時、いったい何がそうさせるのか皆目見当がつかなかったのですが、過去と感ずる方角から何かが私の心の奥深くに呼び起こされてきたのです。えーと、これは何だったっけかな。この、足を滑らさないように、おっかなびっくり敷石の上を一歩々々進むこの感じは。


Je sentais un bonheur qui m’envahissait
|| et que j’allais… この que は幸福を先行詞とする関係代名詞であり、どのような幸福であるかが説明される。sentais que ではない。|| substance 感動や幸福感などが気持ちの精神的な変化の状態であるのに対し、この単語は物質的な実質性をもったものとしての意味をもつ。後ろに続く数個の関係代名詞 que の先行詞がこの語であるか、それとも女性名詞 impression のほうであるかが迷われるが、文脈全体における語の意味的な強さにおいて、はるかに優勢と思われる。日本語訳の場合にこの語をどのように訳すかは難しい問題であるが、この文の最後までずっと中心となる語であるので、正確な日本語に訳さなければならないだろう。「実体」と訳すと尤もらしいが何を意味しているかが疑われるであろうから、思い切って「気持ちの塊《かたまり」と訳してみたら面白いかもしれない。|| nous-même 人間一般としての表現。|| une impression passée 子供の頃に心を動かされたときの感動の状態。印象と訳すと意味が不明となる。|| conservée この過去分詞の動作主は la vie であり、形容詞のように substance を修飾する。|| et que nous ne… および et qui ne… これらの関係代名詞の先行詞も勿論 substance である。|| この時、私の意識的な思考の力ではパリのこの宮殿の庭の敷石の上を危なげに歩く感覚によって私の心を満たした substance の出所を即座につきとめることができず、私はただ憤りを覚えるばかりでした。


Je refis quelques pas en arrière pour
|| lui-même は、サン・マルコ寺院を訪れたその日のこと。revécut は「その日」を主語とする自動詞であり、意識的な思考のなかでは死んでいた「その日」が生き返ったという意味。|| pour moi プルーストの意識的な思考によって思い出すことができたのではないので、「生き返ってくれた」という意味になる。|| 少し後戻りをして、もう一度この不揃いでつるつるした敷石の上を歩いてみることにしました。さきほどと同じ状態を再現するためです。そのとき蘇った感覚、不揃いでつるつるした敷石は、イタリア旅行の際に訪れたサン・マルコ寺院の礼拝堂の敷石でした。向こうのほうに運河があって、その日には少し陽が陰っていて、ゴンドラが浮かんでいて、よし、あれに乗ろうなどと思って。とても幸せな気分、楽しく過ごした人生の宝のような時そのものが純粋な形のまま、パリの宮殿の庭の敷石の上を歩く私の心に突如として蘇ったのでした。


Non seulement l’intelligence ne peut
|| 誤読をせぬよう、代名詞の解釈に慎重さが必要な文である。|| 最初の文での人称代名詞 nous は深いレベルでの感動を味わう存在。二つめの文の人称代名詞 vous は、現在の意識という浅いレベルでの存在を表し、elle ne pourra pas… の elle との比較において使われている vous である。|| trouver asile 自分の身の安全のためにどこかに潜むこと。主語の elle は女性単数として intelligence しかない。プルーストがこの elle で表したものは「過去での懐かしい時間における意識」と解釈される必要がある。|| ceux-là これは文頭の Les objets のこと。二種類の物体が書かれている。最初の文の dans des objets は本物の過去の時間が潜んでいる物体であるのに対し、二つめの文頭の Les objets は意識的な思考が思いつくようなレベルでの物体であり、それらの中に本物の過去の時間は潜んでいないという意味。 || une autre chose たとえば、意識的に子供の頃の北海道旅行を思い出そうとして、その時に買った熊の置き物を手にとって見ることなど。|| avec elle これは「この別な物に伴って」の意。|| 上の文は過去の本当の時間についてではなく、それが潜む物体の偶然的な発見について書かれていることになる。この物体の発見が「物体の復活」となる。それまでの文章では復活は過去の本当の時間の復活であったが、ここでは、そのような物体が見つかることが、その「物体の復活」と呼ばれている。意識的な思考によって思い当たったような物体には過去の本物の時間は潜んでいない。なぜならば、意識的な思考では思い当たらない物体であるからこそ、過去の本物の時間はその中に潜んでいられたからである。「過去での懐かしい時間における意識 elle」が「現在の思考における意識」から逃れて潜んでいられるような trouver asile 物体は、おいそれとは容易に見つかってはならない。また、もしも、いかにも記念となっているような別な物体が「本物の過去が潜んでいる物体 eux, les, ils」を現在の意識に引きずり出して復活させた際には、そのときは我々は「見つけたぞ」と思うかもしれないが、心を深く揺さぶるような詩的な感動は欠如しているであろう。意図的に探し、見つけられそうなもの中から見つけた物体からでは感動的な詩的な味わいはないのだ。|| ポエジー、詩、という語が使われているが、詩を心の深いところからの真の感動として味わう能力は文学に必要不可欠であるはずだ。詩というジャンルの芸術に何も感じない、ぜんぜんピンとこない文学者も多いかもしれない。


Je me souviens qu’un jour de
|| barres 横縞。|| バルザックの小説「谷間の百合」はサント=ヴーブの小説 “Volupté” のパクリなのだそうだ。|| j’entends 私が意味するところは、他でもない。|| cuiller このような綴りで書いてあっても女性名詞で、最後の r も発音する。|| arrêt 現在は鉄道の駅のことには station のみが使われる。|| à la même minute スプーンを皿に落としたその瞬間に。|| 動詞 revécut の主語は l’heure || 村の墓地、陽の光の縞のついた木々、バルザック風の野の花などは意識的な思考でも思い出せるような、つまらないイメージであったが、プルーストの心に感動とともに蘇ったのは詩的な復活としての「その日の時間」というものであった。||「サント=ブーヴに反論する」は文芸評論として実話が書いてあるかと思っていたが、少々ウソっぽいところもあるようだ。


Hélas ! parfois l’objet, nous
|| nommer, appeler 何にまつわる感覚であるのかを明らかにする。|| office しばしば使われる意味ではこの語は男性名詞であり、ここでは女性名詞になっているので、どこかの家の大勢で食事をする部屋の隣にある配膳室のこと。窓ガラスの隅が破損していて、そこから外からの風が吹き込まないように緑色の布で塞いであった。|| se souvenir が補語なしで使われている。|| 目が覚めて、そこがどこかが分からないような状態というネタは、ここよりも進化した形で「失われた時を求めて」の始めの部分にも使われている。|| carré スカーフ。
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マルセル・プルースト「サント=ブーヴに反論する」を読む(テキスト)