フランソワーズ・ドルトー(あるいはフランソワーズ・ドルト)

フランソワーズ・ドルトー ( Francoise DOLTO, 1908 – 1988 )
日本では、なぜか「フランソワーズ・ドルト」と最後のトを伸ばさないで書かれるようであるが、まず直感的に不自然な気がする。ラテン語には母音の長さとは別に音節の長さという感覚があり、現在のフランス語にもその感覚が生きているように思える。最初の音節 dol が長いと後の音節 to も長くなるような気がする。話すテンポの問題であるから、早口の場合は短くなるとも言えるのではあるが。最後の音節がオで終わるものとしては、下のようなものがある。
Parc de Sceaux
berceau
en mille morceaux
un double salto
これらの語は前の音節の長さや話すテンポ、次に続く語に合わせて長くなる。短くても間違いではないが、もしも un verre d’eau 、Loto などを常に短くポツリと切られ、長く伸ばすことの絶対にない音とするならば、Dolto は長いと言える。un verre d’eau は eau という単語そのものがいつも短いのである。オードトワレは間違い。
日本で Alfred Cortot、Jean Cocteau、Sophie Marceau、Bateaux Mouches をコルトー、コクトー、マルソー、 バトーと長く書く習慣があるのならば、当然ドルトーと書いて然るべきではないだろうか。ドルトーの名前をみんながどのように発音しているか聞いてみる。

さて、フランソワーズ・ドルトーはフランスでは、精神分析に興味のない人でも知っている有名人なのであるが、日本ではほとんど知られていない。彼女には息子がふたり、娘がひとりいた。長男はジョン・ドルトーという名前で、カルロス (Carlos) という芸名で歌を歌っていた。大型モーターボートの船尾に構えて、カジキマグロを釣っていたところをテレビで見たことがある。二メートル以上もあるようなカジキマグロが海の水面から飛び上がったりして、「これが釣りというものだ」などと言っていた元気な男であった。Oasis という、水を混ぜたような安いジュースのコマーシャルをしていたり、Carlos という自分のキャラクターが主人公になっているテレビマンガがあったり、とても太っていて、子供向けの歌などを歌っていたが 2008 年に亡くなった。もしかしたら、フランス人でもカルロスがフランソワーズ・ドルトーの息子であると知らない人も多いのかもしれない。フランソワーズ・ドルトーの娘はカトリーヌという名前で、やはり子供の精神分析をしている。テレビにもときどき出るが、やはり母親と兄の七光りということになってしまう。もうひとり息子がいるようだが、有名人ではない。フランソワーズ・ドルトーの夫は Boris DOLTO という人で、運動障害のリハビリテーションなどをしていたそうである。

テレビで見るかぎり、フランソワーズ・ドルトーは太って骨太で、とてもサバサバした人だった。死ぬ前に病院に入院して、鼻の穴にチューブをつけているときまでもサバサバしていたようだ。そのときのインタビュー形式の本も出ている。ある朝インタビューの聞き手の人の家にフランソワーズ・ドルトーから電話が掛かってきて、きのうは私ぺらぺらと一方的に喋りまくってしまいましたが、疲れさせませんでしたでしょうか、すみません、とあやまってきたことがあったそうだ。

私はフランソワーズ・ドルトーが好きで本を二十冊ぐらい読んだので、大体どういう考えか、おおざっぱに思いつくままに書いて紹介する。彼女はきわめてフロイト的である。

まず、生まれたばかりの赤ちゃんでも言葉が通じるということを彼女は言う。大人に向かって話すのと同じように淡々と話し、これが赤ちゃんに通じているのだと言いはる。赤ちゃんは言葉を思い出すのだそうだ。

フランソワーズ・ドルトーは子供の精神分析が得意だった。大人になってから神経症のトラウマを探すぐらいなら、なぜ子供のうちに解決しておかないのかということである。

(筆者、注。精神分析のむずかしさは、無意識の中がまったく見えないということかもしれない。壁の向こう側、二重人格のもうひとりのように不可知なものとして無意識をとらえなければならない。トラウマは自分で見つけ出すのは極めて困難なものである。自分では絶対に見つけられないものと定義してしまったほうがいいほどである。まるで前世で自分が何だったかを知ろうとするようなものだ。したがって子供のうちにトラウマの加害者に聞いてしまうのが一番手っ取り早いとも言える。そして、そのときの子供の気持ち、感情を子供自身と親に言葉で説明するわけである。)

子供の精神分析は、まず象徴的支払い(paiement symbolique )から始められる。1フラン玉とか、あるいは本当のお金ではなく、小さなおもちゃの破片のようなものとか、ビー玉とか、そのようなものを子供が分析医ドルトーに払われる。それによって、分析医が分析医の役目の存在であり、個人的な、ひとりのおばさんではなくなるわけだ。支払いをしたのだから、言いにくいことも言う。分析に対して子供に自主性や積極性がでる。子供は、今、自分が何をしているのかが分かる。

子供に、さあ、喋ってください、とは言わない。小さくて喋れない子供の場合もあるだろうし。親が説明していたりする間、子供は絵を描いたり、もじもじしていたりするわけであるが、そのへんのところでドルトーは子供を観察する。すべてが子供の表現であって、よく観察していると、子供のトラウマがだんだん見えてくるようである。

患者にしっかりとしたエディプスコンプレックスの三角形が不在の場合には、言葉で説明することにより、エディプスコンプレックスを組み立てて、その解決をめざすことが中心となる。
男の子は母親とは結婚できないこと、女の子は父親とは結婚できないことをはっきりと言葉で子供に説明する。子供と夫婦の間の境界線をはっきりと引く。子供の欲望を応援する。

はっきりと言葉で説明することが大切であり、家の中のこと、当然のこと、分かっている秘密とか、言わないでいることとか、一応言葉ではっきり言っておくことが必要な場合がある。たとえば、親戚のおじさんは事故で片腕がないというようなことも、分かっているから言わないというのではなく、一応言葉で子供にはっきりと説明しておくというようなことが必要だったりする。本当は双子だったのだけれど、生まれるときもうひとりのほうは死んでしまったということも、子供は十ヶ月も、となりにいた人間のことは、無意識に知っていたりする。そういうことを言葉にしてあげることが必要な場合があるそうた。子供は全部分かっていて、それが無意識でだけ分かっているようなときは神経症の原因になる、つまり退行などの原因になるというようなことである。子供、とくに小さな子供の人格の尊重、そして権利のあり方に対し、当然でありながら顧みられないことがらを指摘する。乳母車の子供に対しても、あたかもひとりの大人がそこにいるような権利の尊重がみられる。子供の、言語以外の方法での表現を読み取ることが得意であった。

ドルトーの本のところどころで分析者と被分析者が逆に書いてあることがある。大人の患者の場合、患者は自分の過去などから自分を分析する分析者で、医者は患者の投射(投影, 転移)の対象として患者に分析されるわけで、こちらのほうが精神分析としては正しいということになる。

フランソワーズ・ドルトーに近い人物にジャック・ラカン(Jacques Lacan)がいた。子供にとって身体の姿が自分自身であり、母親とは別の存在であると認識されていく。鏡は、身体の姿が自分、ひとつの存在、であることを明らかにする。他の人々と自分自身の現実的な分離、自分の生存のためには他の人々が必要であることを知る。鏡にうつる小さな自分の姿に、自分の内面的存在との差を見る。鏡が自己の形成において重要な役割をもつと肯定的に考えるラカンに対し、赤ちゃんの人格の尊厳を大切にするドルトーは、鏡に映る、とても小さな自分の姿は赤ちゃんにとって辛いもののはずだと考える。

フランソワーズ・ドルトーはカトリックである。なぜかというと、宗教は、人間の属性だからである。フランソワーズ・ドルトーは自分が人間であることがよく分かっていた。自分が人間だから宗教を信じることになる。精神分析医で人間よりえらいから宗教は必要ありません、などとは言わない。カトリックはナザレのイエスという人物を信仰する宗教。儀式や戒律などで縛られるような信仰ではなく、キリストが皆に教えた力、勇気、欲望、生と死、肯定、などが理解されている。富、父母、服従、罪悪感、などを捨てて、キリストを道案内として生きる。危険を冒しながらも、大いなる欲望をもって、死を超えて生きることが理解されている。

フランソワーズ・ドルトーは緑の家 Maison verte という施設を始めた。フランスの小学校は六歳から。その前に保育園みたいなもの crèche が自由に、しかしみんな通うが、三年間あるのだが、さらにその前に、小さな子供を自分の家からいきなり集団に入れるのは急激なので一段階、ワンクッションおこうというもの。二、三歳の子供を連れて行って、ただ、だらだらと過ごす。フランソワーズ・ドルトーの緑の家、そして、それに類する施設は今では、かなりの数になっているようであるが正確な数は知らない。
(筆者、注。私も、子供が小さいときにはそれに類する施設 halte garderie に預けたこともあったが、私の子供はとてもいやがった。いきなり幼稚園に入れるのは子供にとって大変かもしれないが、その前にいきなり《緑の家》に行くのも子供にとってはやはり大変な場合もある。)

フランソワーズ・ドルトーの本はすべて喋るように書いてある。録音を本にしているのかとも思われる。まさかフランソワーズ・ドルトーがやっていたラジオ番組で喋ったことをそのまま本にしているわけではないであろうが。どの本から読み始めても同じ。まとまった構造の本はない。年代順に考えが発展するわけでもない。本の題名と内容は、あまり関係がない。次に挙げたの本はすべて安い版がある。??? 印は私自身が読んでいないので私には薦める資格がない本である。

Psychanalyse et pédiatrie (le texte publié de sa thèse de médecine).
Le cas Dominique.
l’Évangile au risque de la psychanalyse. 1, 2 .
Au jeu du désir.
Séminaire de psychanalyse d’enfants. 1, 2, 3 .
Sexualité féminine.
L’image inconsciente du corps.
Séminaire de psychanalyse d’enfants.
Solitude.
La Cause des enfants.
Enfances.
Libido féminine.???
L’Enfant du miroir.
La cause des adolescents.
Quand les parents se séparent.
L’Échec scolaire.
Autoportrait d’une psychanalyste.
Paroles pour adolescents ou le complexe du Homard.
Lorsque l’enfant paraît.
Les étapes majeures de l’enfance.???
Les chemins de l’éducation.???
La Difficulté de vivre.
Tout est langage.
Le sentiment de soi : aux sources de l’image et du corps.???
Le féminin.???
La vague et l’océan : séminaire sur les pulsions de mort.???
Lettres de jeunesse : correspondance, 1913-1938. ???
Une vie de correspondances : 1938-1988.???
Une psychanalyste dans la cité. L’aventure de la Maison verte.???