数独がやめられない人、数独依存症、数独中毒で悩んでいる人は読んで下さい。

数独がやめられない人数独依存症数独中毒で悩んでいる人は読んで下さい。
なぜ数独 ≪ナンプレ≫ が面白いかというと、それは簡単だからである。幼稚園の子供から老人まで楽しむことができるパズル、まさしく万人のための遊びである。数独ができない人がいたら、それはやりたくないだけの話、そういうパズルが嫌いだということであり、本当に数独をするのが不可能な人がいたならば、はっきりとした病名がつくはずである。通常、数独は一人で遊ぶであろうから、勝負に負けるということがない。観戦している人々を想像しながら、一人で戦い、自分が常に勝っている状態なので、常に勝ちが保証された優越感の中でもう一回、もう一回と得意になることができる。さも頭を使っているかように錯覚しやすいが、実際は1から9までの一桁の数字を繰り返し繰り返し言っているだけである。簡単な数独は簡単であり、解くのが困難な数独は困難ではあるのだが、ならばどのように困難なのかというと、その内容は1から9までの一桁の数字を繰り返し繰り返し言っている以上のことはしていない。数独の遊び方には、なにか奇抜な解法、うまい技、頭が良くなければ思いつかないようなヒラメキがあるわけでもない。雑誌の隅に載っている問題のように、紙上に印刷された数独の問題の場合に、ペンを使って候補になる数字を小さく書き込みながら解くようなインチキな人はいない。候補の数字を書き込みながらでは、頭で数独を解いていることにはならないので面白くないからだ。インチキな書き込みをしなくても、この二つのマスには2と9が入り、この三つのマスには5と6と8が入るのなら、残りの四つのマスには1、3、4、7のどれかが入るなどというのは小学生用の幼稚なパズルである。小さく書き込みをしながら数独をする人は、書き込みをしない自分を想像しながら書き込みをしているのかもしれない。また、ひとつのマスにおける二つの可能性から任意にひとつの数字を選び、試しに数字を書き込みながら矛盾が生じるまで先に進めていく方法もゲームの趣旨からするとルール違反であり、それでは簡単すぎて面白くないはず。年賀状のあぶり出しが黄色く見えていても、見えないふりをしながら何が書いてあるのかと火にあぶるのと同じだ。候補となる数のインチキな書き込みをしながら数独をするのは、その容易さにおいてトランプの数のほうを上にして神経衰弱をするのに等しい。一人で数独をしている人は、自分が小学生用のパズルをしていることに自分で知らぬふりをしているか、小学生よりも速く正確に解けるなどと傍らに小学生の存在を想像しながら得意になっているか、自分よりも馬鹿で数独ができない人たちがいるものと想像しているか、大体そのようなところであろう。電車の中などで大の大人が数独をやっているのを見かけると、その幼稚さが周囲の人間には恥ずかしく思われる。1から9までの数を繰り返して、自分だけの世界で自分が最も頭が良いつもりなのだ。「私は馬鹿ではない、私は馬鹿ではない」と一人で繰り返し自分に言い聞かせている人のようだ。数独の本はナンプレとも呼ばれ、駅の売店やコンビニなどで市販されている。市販されている数独の本はマスが大きく、一ページに一題ずつ、大きな活字で数字が書いてあるが、それは老眼鏡をかけた九十歳以上の老人に見やすくして売りたいからである。同じページ数、同じ値段ならば問題数が多いほうがよく売れそうな気がするが、そうすると必然的にマスが小さくなってしまい、老人ホームに売れなくなると出版の企画は失敗となる。フランスの学校教育では sudoku の遊び方という授業が小学校の二年生のカリキュラムにあり、小さな子供たちは、この簡単なゲームによってロジックという語の意味を習う。