なぜグレン・グールドの椅子は低いのか

なぜグレン・グールドの椅子は低いのか

1986年の末、パリのカナダ大使館でグレン・グールドのエクスポジションが開かれ、そのときにグレン・グールドの椅子を実際に見ることができた。この骨董品としてはモナリザ級の価値のある椅子は、直接敷石の床に無造作に置かれ、人が座ってみたりしないよう、ただガラスのケースで囲ってあるだけであった。

なぜグレン・グールドの椅子が低いのか。
昔、私が池田さんという知人に「僕はグレン・グールドみたいに低い椅子に座るんだ」と得意げに言ったとき、「ほう、それなら片足を上げればホームランが打てるかもしれないね」と言われてしまったことが思い出される。

 

二千万年の間、我々の祖先は木の上で命懸けで枝をつかみながら生きてきたので、いまだに我々は「何かをつかむ」という動作には優れたものをもっている。体重60kgの人が片手で枝にぶら下がった場合を単純計算で4で割れば、指一本につき15kgの力がかかっていることになる。同じ力でスーパーマーケットのビニール袋をさげることができる。枝をつかむ指の使い方が指にとって一番容易な動きなのかもしれない。力があるから、器用に動き、速くも動くということであろうか。

グレングールドが枝をつかむ力で小指を立てて使っている。

 

てのひらが垂直になるぐらいの気持ちで、手首を下げれるだけ下げることもある。手首の回転がとても容易となる。
その結果、使っていない指が思いっきり上に上がってしまうのもピアノを弾く喜びのひとつ。そうなるとペダルを踏む気もしなくなるかもしれない。この弾き方は椅子が低くないと背中が丸くなってしまう。
グールドの椅子が低いのは、てのひらをほぼ垂直に近くすることが目的である。

肘を下げると、てのひらが大根を輪切りにする包丁になり、てのひらの内側への回転の限界に達してしまうので注意。 両方の肘は両側で開いている必要がある。

親指
親指は類人猿の親指のように弱いので、親指で鍵盤を押す動きは手首によって行われる。親指は上向きであり、それ自体では動かさず、麻痺したように力を完全に抜く。

 

椅子が低いと指と鍵盤表面との接触面積が増える。ミスタッチを回避するには、できるだけ早く(0.01秒前)鍵盤表面に触れておくこともある。これとまったく同じ弾き方をホロヴィッツがモーツァルトを弾くときにも見ることができる。
鍵盤が下がるときの力の方向は、高跳びのように、体の動く方向と地面を蹴る方向が反対となる。

 

クラシック音楽のピアノとジャズピアノのテクニック的な違いは、クラシックピアノは音が鳴る瞬間において力が上向きに抜けており、ジャズピアノは音が鳴る瞬間に力が下向きにアタックするということである。クラシックのピアニストは絶対にジャズを弾くことができす、ジャズのピアニストは絶対にクラシックを弾くことができない。なぜならば、がタッチの違いを認識していないからである。ジャズピアノとしての美しい叩き降ろすタッチを Monty Alexander や Michel Petrucciani などで見れば、とてもクラシックを弾けないであろうことが容易に理解されるはずである。これはドラムスに負けない音で弾く必要があるからである。クラシックのタッチ、すなわち音が聞こえる瞬間には手の力が抜けている場合には、たとえジャズの和音の組み合わせを使い、ジャズ的なリズムで弾いたとしても、ジャズファンが喜ぶようなジャズピアノにはならない。

グールドが声で歌うときはひとつひとつの音がクレシェンドする。これはひとつひとつの音が上向きであり、そのつど肩、ヒジ、手首の力が抜かれ、ひとつの音と次の音との間でそのつど手が中立状態になるということである。これはクリス・エバートが打つたびにコートの中央に戻るのと同じ理屈。ピアノの練習は音のひとつひとつで力を抜く練習なので、当然ゆっくりになる。

楽譜に指使いを書きこむと、《鍵盤上の指換え》を最小限にしようとする間違った考えに陥りやすい。もし正しい指使いを記入するとなると指換えだらけでグチャグチャになるであろうし、そもそも指換えは自動的なものである。力を抜く練習と指換えは直接的な関係がある。したがって、楽譜に指使いを書きこむ人は、速く弾けない曲はゆっくりでも弾けないということになる。正しくは、押すべき鍵盤のほうが決まっているのであり、そのときその鍵盤の上にある指がそのとき使う指である。肩と肘の力が抜け、自由に動くので、手首の上下運動で鍵盤が押される。したがって、3の指であろうが4の指であろうが、何でも同じことである。

音階練習
通常の音階練習では「親指を黒鍵に乗せない練習?」に陥る危険がある。その場その場で反射的な自由な指使いをするためには、親指を黒鍵に乗せる音階の弾き方も大切である。